暦は三月。ようやく春の気配を感じ始め、本丸敷地の一角では菜の花が咲き始めた。
天気も良く清々しい朝、抜丸は朝食前に庭をゆるりと歩いていた。同行者はいない。拾った木の枝を片手に持って不規則に揺らしながら、鼻歌まじりに春の気配を吸い込む。
本丸の庭は広いが手入れも行き届いているため、悪路というものもなく歩きやすい。抜丸自身が剪定係の一員なので、庭の管理には刀一倍気を使っている。
控えめな菜の花畑を過ぎ、畑を横目に屋敷を目指す。大きな池にある橋に差し掛かったところで、ふと足を止めた。先日、朱色に塗り直したばかりの
何かの予感に、抜丸は本体を手元に呼び出した。顕現状態である以上、装備を自動で切り替えることは出来ず、内番服のまま太刀の柄に手を添える。
見下ろした水面が揺れて目を細め、欄干に飛び乗って抜刀する。悪い気配はないが何事だろうかと警戒していると、ざばあ、と何かが水面を押し上げた。
どこからどう見ても女人の姿をした存在に、抜丸は首を傾けた。人間が本丸内に、しかも池に侵入するとは考え難い。何やら白い角のようなものも生えているし、なるほど無害なあやかしの類か、と欄干の上でしゃがみこんだ。神使の白蛇が頭を過ったものの、それにしては神の力が弱い。何かのにおいはするものの、それが何かまでは特定出来なかった。
人間のふりが随分と上手いが、本気で擬態するならばまず角は隠すべきだし、案外深さのある池で、人間が腰まで水から出ていることはあり得ない。溺れたフリでもしなければ。
白い角のあやかしは抜丸を見上げて、周囲を見回し、もう一度抜丸を見上げて、片手を頬に添えた。池から上がる様子はない。
「あらあらまあまあ、道を間違えたかしら」
「迷子ですか? ここは我らが城、部外者の侵入を許す訳には参りません。住処へ帰るのが良いでしょう」
「そうしますね。お邪魔しました」
あやかしはその場で深く一礼をし、抜丸に背を向けて沈んでいく。抜丸は泡が消えて行くのを見届けて納刀し、欄干から降りた。
朝からおかしなものと出会ってしまった。自分も年嵩であるとはいえ、そういったものに関しては御神刀や霊刀のほうが敏感だろう。屋敷に戻ったら報告しておかなければ。無害そうだったので、
本丸というものは霊力に溢れ、付喪神が住まい、時間の概念すら薄い場所だ。あやかしが入り込むのは珍しくないが、こうもはっきりとした姿や意志のあるものは初めてだろう。
抜丸は、立ち去る前にもう一度水面を見下ろした。
ざばあ。
「あら……」
白い角のあやかしは、いかにも困っていますと眉を八の字にしている。
「いかがされた?」
「帰り道がないんです。少し歩いてみたけれど、ずっと淡水で、底もあるし。ここはどのあたりかしら。オノコロ島ですよね?」
「それがあなたの住処かな」
「いえ、オノコロ島は近くの集落で……海はどちら?」
オノコロ島――国生みの神話の言葉に目を瞬く。本当に神使なのだろうか。それにしては人間みが強すぎるが。
「ここに海はありませんよ」
「そんなはずありません。わたしは海の底から来たのですから」
あやかしは顔に張り付いた髪を避けながら、岸に向かってざばざばと歩き出す。底の深い池だ、上半身を出したまま、しかも水の抵抗を一切感じさせず歩くなど不可能である。抜丸は表情こそ変えないものの、あやかしが目指している地岸に急いで向かう。さすがに刀剣男士の抜丸のほうが到着は早かったが、あやかしも軽やかに池から上がってきた。
ずるり、と下半身が出て――くるわけでもなく。身長は抜丸よりほんのわずかに小さいくらいだろうか。まさに女人の姿をしたあやかしは、その場で軽く髪を絞る。近くで見るあやかしの白い角は淡く輝いており、和服に似た装いには花の刺繍も施され、非常に身綺麗だ。
抜丸の不躾な視線を気にした風もなく、あやかしは全身の水を軽く払ってから顔を上げた。
「ここ、あなたたちの城とおっしゃいましたね。海がある方向さえ分かればすぐに出て行きますから、少しの間だけ土を踏ませてもらえます?」
「先ほども申しましたが、ここに海はありませんよ」
本丸敷地の端まで歩いたとして、本丸領域限界に達するだけだ。敷地の反対側から出てくることは出来るが、海に出ることは出来ない。本丸から出て現世に行かなければ、海は拝めない。
あやかしは屋敷へ向かって一歩踏み出したものの、八の字にした眉尻をさらに下げて肩も落とす。
「……わたし、海から来たのです。海が無いなら、帰れません」
「あなたは、神話の使いですか」
オノコロ島は、イザナギノミコトとイザナミノミコトが天の
「神話はありますが、使いというのは……?」
「いえ、何でもありません」
ただ島をそう呼称しているだけのようだ。
表情でも仕草でも消沈を表す無害なあやかしに、抜丸はそっと息を吐いた。
「あなた、名はなんというのです」
「ああ、これは失礼しました。わたしはヒサメ、スイの里の者です」
ヒサメ。名前の重さが確かにこのあやかしと繋がっている。あやかしとしての分類ではなく、個として名前を持っているとは。
「そう……ヒサメ殿。
「そうですね、私有地というだけではなく城でしたね」
抜丸は個刃端末を手元に呼び出し、しばし逡巡してから石切丸に繋いだ。ただ斬るだけならば源氏の兄弟刀にも面識はあるが、彼らで分かるならば大蛇を払った抜丸自身にも分かるだろうし、視ることに関しては石切丸が適任だろうと思ってのことだった。
石切丸に「白い角の何者かが迷い込んできたようで」とありのまま伝えると、彼の刀は『珍しいことになっているね』と少し笑ったものの『すぐに行くよ』と通話を切った。短い通話の間もヒサメはその場で静かに待ち、庭を見回しこそすれ、怪しい動きはしなかった。本当に敵意や害意はないようだ。
抜丸は、握ったままの自分の本体を一瞥する。ヒサメは、明らかな武器を持っている抜丸を警戒すらしていない。
「ヒサメ殿。スイの里とは、どこでしょうか」
「コウギョクカイの底の里。でも、そうですね、確かに知らないひともいるでしょう。辺鄙なところですから」
「コウギョクカイとは?」
「紅い玉の海という意味があります。紅玉海すら身近ではないのですか?」
「なにせ、ここに海はありませんから」
「そうでした。おかしなところに来てしまったわ……」
あやかしは、気を落としていることは分かるものの、なんとも呑気な喋り口だ。
「カムロさんは、こちらの城主様にお仕えされている方?」
抜丸はきょとんと一拍置いて、ああと頷く。
「<禿>とは、<我>のこと、名前ではありません。抜丸とお呼びください。抜刀の抜丸です」
「抜丸さんね」
「それから、城主に仕えているというのは正しいと言って良いでしょう。数ある家臣の一振ですよ」
「それほどの軽装を許されているなんて、とても寛容な城主様なのですね」
ヒサメの視線が抜丸の内番服に向く。確かに、城に住む家臣として、甚平はいささか砕けすぎた格好だ。
抜丸は内番服を軽く払って笑った。
「ええ、ええ。我らの主は寛容なお方でしたゆえ」
石切丸の姿はすぐに見えた。いつもの若草色の狩(かり)衣(ぎぬ)姿で、早足でやって来る。速度を落としながら橋に差し掛かると、ヒサメをまじまじ見ながら抜丸に並んだ。
石切丸が何かを言う前に、ヒサメが丁寧に頭を下げる。
「お邪魔しております。スイの里から参りました、ヒサメと申します」
「ええ、いらっしゃい。わたしは石切丸」
石切丸の態度は柔らかい。抜丸が感じた通り、ヒサメは本丸に害をなす存在ではないのだろう。
「抜丸さん、彼女は人間だね」
抜丸は瞬きを一つ。確かに気配は人間だが、それでは白い角や池からの登場に説明がつかない。やって来たのも、海の底からと本人が言っていた。刀の時分から人でないものは見慣れているが、人でないものの見目をした人との邂逅は生憎初めてだった。
ヒサメは、当然の事を問われたと小首を傾げている。
「はあ、わたしは人間ですが。……もしや、こちらではわたしのような種族は珍しいのでしょうか」
「種族?」
石切丸が問う。
「はい、わたしはアウラ・レン。あなたがたはヒューラン族とお見受けします。この土地にはアウラ・レン族がいないのですね」
「ううん、ヒサメさんの基準で言うと、ここには……この世界には、ヒューラン族しかいないよ」
石切丸の言葉にヒサメは「まあ」といささか呑気な驚きを見せた。両手の指で口元を覆い、困った表情をより濃くする。
角が生えていようが、池の底からやって来ようが、石切丸判定で無害な人間ならばヒサメは無力な存在だ。どこか遠くからこの隔離された環境/本丸に紛れ込んでしまったのは、何か不幸な事故だろう。時折、現世の人間が本丸のある空世に落ちる事故もあると聞く。
抜丸は屋敷の方向を示した。
「ひとであるならば、招くこともできましょう。なにやら退っ引きならない事情もあるようですし、ひとまず屋敷へ。あと手ぬぐいも、」
持ってきますね、と。池から上がった人間に対する当然の気遣いをしようとしたのだが、頭の先からつま先までずぶ濡れだったヒサメの体はいつの間にやら乾いていた。