泳ぐ切り身


 錦は図書館にたどり着くと、深いため息をついて日傘を畳んだ。うっすらかいた汗が冷房で冷やされる。朗らかな陽気は嫌いではないが、容赦ない日差しとなれば話は別だ。
 ひきこもろうとした時もあったが、凌に反対されてしまった。数日を眠って過ごすことくらい、どうってことないというのに。しかし眠り続けるのは錦も本気ではなかったので、散歩をやめて図書館で涼むことにした。
 以前から通っており、すっかり常連なので、特等席へ向かう足取りに迷いはない。ふかふかのソファは図書館の奥まった一角に並ぶ穴場だ。錦は、新聞を広げる中年から老年男性に混じって読書にいそしむのである。
 ソファが空いているのを確認して、日傘を置いておく。

「おー錦ちゃんかあ。こんにちは」
「こんにちは」
「今日は一段と暑かったろう」
「ええ、溶けてしまうわ」
「そりゃ大変だ」

 隣に座っていた男性は楽しそうに笑う。娘が結婚して家を出て、寂しくなったのだといつか言っていた。妻と相談して、犬を一匹買い始めたという。
 錦は、普段気まぐれで本を選ぶが、今日は目的がある。眠って暑さをやり過ごしたいと言った錦に、凌がかけた言葉だ。

「人間やめてワニになるつもりか」

 錦は生物図鑑を数冊見繕い、ソファに深く腰かけた。凌がもどるのは夕方だ。それまで図鑑漁りに徹するとしよう。

 


 赤い光が差すなかを、錦は首を傾けながら帰路につく。もちろん日傘も装備している。自前の日傘は、安い洋服には到底馴染まない上等なものだ。愛用のそれをくるくる回して、強い光から身を守る。
 帰宅して手洗いとうがいをすませると、すぐに凌も帰って来た。惣菜を買っているのだろう、良いにおいがする。

「おかえりなさい、凌」
「おーただいま。今日も図書館か?」
「ええ。図鑑を見ていたのだけれど、わたくしの知っている魚が、全然載っていないのよ」
「載ってない?例えば?」
「サバやアジね。スーパーでよく見るものよ」
「図鑑が違うとかじゃねーの?」
「魚の図鑑だったもの。青色はとっても綺麗だったけれど、知らない魚ばかりだったわ」
「サバとかアジはあるだろう、普通」
「同じ名前の違う魚はいたけれど」
「……うん?」
「スーパーのものより体が厚いし、しっかり目がついていたわ」
「んんー。何となくわかったぞ」

 夕飯の準備をする凌が、おもむろにカレンダーを眺めた。
 
「錦、今度水族館に行こう」
 
 



 言い訳をするならば、錦は元々山暮らしで、海を眺めたことはあっても入ったことはなかった。かつ、ここでの魚は"そういうもの"だと思ってしまったのだ。己のテリトリーに海域があれば海洋生物にも詳しくなったかもしれない。
 入館してすぐの大水槽を、ぽかんと見上げる。入るまでは暑さでくたびれていたが、一気に吹き飛んだ。
 神秘的だと思った。魚は悠々と海を進み、光のカーテンをくぐる。分厚いガラスを隔てた青い世界は、希少な宝石よりよほど綺麗だ。

「……こんなに美しいものを、わたくしはきっと、初めて見たわ」
「それは良かった。俺も好きだ、水族館」
「言葉にならないわ。わたくし、この歳にして、海に囚われてしまいそうよ」
「五歳にして」
「もっと早くに、知るべきだったわ。海というものがこれほど美しいのだと」
「十分早いと思うぞ」

 水槽に釘付けになっていると、凌が笑いを噛み殺していることに気付いた。すいと見上げると、発泡スチロールよりも軽く謝罪される。

「子供なんだと思ってさ」
「……パぁパ、魚すごいねー」
「そうだなあすごいなあ」

 海の中で羽ばたく大きなエイに、短い手を目一杯伸ばす。錦の全てを持ってしても、飛行することは出来やしないのである。
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