「ちゃんと話してあげますよ、あの男の事…それこそ余すことなく、全部ね」


 そう嗤う男へみっともなく頼る以外の術を、私は知らなかった。







 冷えた手がひとしきり頬を撫ぜた後、私はその手に抱き上げられる。体を支える掌の冷たさを服越しに感じて、逃れるようにバーボンの首に縋り付いた。
 私を腕に抱いたままベッドに腰かけた彼は、そのまま静かに背を撫でてくる。


 
「説明して欲しいこともあるけど…」

「えぇ」

「そもそも…どうして私はその男の事、記憶にないのかしら」

「その点は僕にも分かりかねます…後でラボで伺ってみますか?」




 特段の用事でもない限り、あまりラボへは近づきたくなかった。私は口をつぐみ、眼前の胸元へ額を預ける。掌と違い、じんわりと温かく、少し硬い表皮の感触。
 僅かに聞こえる鼓動に頭を落ち着かせながら、バーボンが語り始める“男”の話に耳を傾けた。






  FBI捜査官だったその男の名前は赤井秀一。
    
 コードネームはライ。
 組織へ素知らぬ顔でおめおめと潜入し、私たちと共に頻繁に任務に就いていたという。     




 赤井秀一という名の男を語るバーボンは、声こそ至極穏やかな色をしていたが、その実、私の耳下でうごめく心臓のリズムは少しずつ速度を上げていた。それでいて未だに掌は、まるで心に相反するかのように冷えていて、次第にそちらの方が気になってしまいそうになる。



「偽名は諸星大といいました」

「もろぼし…だい」

「ふん…あの無骨者にしては、まあまあ洒落た名前でしたね」



 バーボンを見上げれば、やはり穏やかな顔をしている。比較的年の割に童顔で、日本人離れしたその顔つきが、表情のせいでひどく作り物めいて見えた。
 ふと、表情はそのままに、私の背にまわった腕に微かに力がこもったのを感じ、首をかしげる。視線がかち合い、一瞬瞠目した彼は、次いで顔を口惜しそうに歪めた。




「2年前、あの男はあなたを騙し討ちにして……排除にかかろうとしました」




 丁度、奴の正体がバレたころの話です、と過去に思いを馳せるような面持ちへ一転したバーボンは再び、私の背を穏やかなリズムでたたいていく。



「そもそもの狙いはベルモットだったようですが、その時に……嗚呼、その髪を切る羽目になったのも…きっと覚えていないのでしょうね」





 語られる、男の数々の様相。
 しかしどれも本当に、私の脳内に微塵も刺激をもたらさないものだった。
 
 覚えのない仕草。覚えのないやり取り。穴だらけの記憶。
 そういえば以前ジンもこの男の話をしていた。
 私が単純に気づいていなかっただけで、知らぬ間に皆が赤井秀一という男について言及する。
 そして皆が皆、口を揃えて知らない私について言い及ぶのだ。



「貴方の信頼をアイツは意図も簡単に振り捨てて、裏切って……そして殺そうとした。あの男は本当に…どこまでも人を騙して、利用して、そして捨てていく」




 切れ切れに滲むのは、バーボンのどうしようもない怒りだ。
 私はいったい、どういう感情を “赤井秀一” に持っていたのだろうか。
 バーボンは明美の事にも言及しているようだった。彼女と同じく裏切られた、という事実に湧き出る怒りの感情が、私の空洞に満ちようともがく。しかしどうにもその怒りは不定形過ぎた。まるで掛け違えたボタンに阻まれるかのように、私の虚ろな部分には収まり切らない。
 


 不意に夢でみた、形のない男の事を思い出す。
 どう考えてもあの長髪の男が “赤井秀一” だった。
 夢に見る、濡れ羽色の長髪。

 あなたは誰なの。

 知らない誰かが、知らないうちに私の記憶から出ていき、そして知らないうちに私を侵食していく。
 不快だ。
 どうしようもなく、身体も、脳も不快だ。



 バーボンの先ほどの一言から以降、私は考える事を放棄した。
 脳裏を苛む記憶の欠落に目を背けるように、彼の視線から逃れるように、その腕のぬくもりから脱する。
 私がシーツにくるまってしまうと、いくらかの身動ぎの後、バーボンはまた明日来ます、という言葉を残して部屋を後にした。
 


 抱え込んだ頭は酷く熱をもち、けれどふさいだ耳は冷たい。
 時間も分からぬ己の心の内で、吐きだすことも飲み込むこともできない衝動に苛まれていると、不意に耳が電子音を拾った。
 ベッドの上に放っていたスマートフォンが静寂の中で、機械的に震えていた。体に絡まるシーツを剥ぎ、手を伸ばす。



「……もしもし」



 非通知からだった。しかしうまく働かない頭では、相手を確認するほどの余裕はなかった。



「……ましろちゃん?」

「………誰」


 流石に己の声が硬質になったのを感じた。私の日本名を知る者は少ない。スピーカーの向こうから聞こえる音は、車や単純な生活音など、まるで電話の主の声を意図的にかき消さんばかりの喧騒を伴っている。







「私……明美よ」


 ごめんなさい突然、と申し訳なさげにスピーカーを震わす声音。
 それは数十年大切にしてきた、愛してやまない無二の友人。


 懐かしさと淋しさと不安感。こみあげてくるものが零れぬように、私はきつく目を閉じ、天を仰いだ。

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