10
その昔。
出会った幼い少女と、また会おうと約束した。
2年前。
再びの邂逅と嬉々たるひと時を背にし、また今度と約束した。
「ごめんね、急に連絡して」
「んーん。ちょっとびっくりしただけよ…久しぶりだったし、明美の連絡先わからなくなってたし…」
およそ2年ぶりに耳にした彼女の声は以前と変わらず、優しく、それでいてどこかはつらつとしていた。相変わらず耳に心地良い。
スピーカー越しのノイズへ、うっすらと雨音が透ける。そういえば予報は雨だっただろうか。
「そうね…ダイ君の事があってから、連絡できる状況じゃなかったし…ほんと、ましろちゃんと話せるの久々」
うれしい、と彼女の声色が和らいだのを感じた反面、私は明美の言葉に上がった“ダイ君”という名前に言葉が詰まる。
やはり私の記憶に問題があるだけで、彼女は至極真っ当に諸星大、もといライとの全てを把握しているのだ。
今更ながらのその事実に、回復の兆しを見せていた神経がみるみる萎縮していく。
しかし記憶を掘り起こせば、部分的に曖昧なものはあれど、彼女の記憶はだいたい遡っても、誕生の頃まで振り返ることができた。初めて会った時のあの、散々な思い出が蘇り、思わず安堵の息をつく。
記憶の全てを、大事な物を失ったわけではないのだ。
少しばかり呼吸が楽になったのではないか、という心地が脳に満ちてきた頃。
抜け落ちた記憶を頼りに、明美へ件の彼に言及しようとしてふと、思いとどまる。
バーボンは『赤井秀一が私達をそれは手酷く裏切った』という話を滾滾と溢していた。明美が過去に某かに対して恨み言を言う様子は見た事もないが、このような心理的に重たい話に触れてしまってもいいのだろうか。いきなり核心に触れるには中々取り扱いづらい話題である。
加えて、もしこの話に触れて明美が、あの明美が憎々しさに声音を歪めるような事があった場合、今度は私の神経が擦り減るに違いなかった。
私は少々彼女に夢をみているのかもしれない。
黙り込んだ私を心配する声に、ふと意識を通話に戻せば、ちゃんと話を聞いてないんだから!相変わらずね、というお小言が耳に痛い。
少女の頃、明美は本当によく喋る子供だった。
そんな彼女の相手をしながら時折、うっかりなおざりに返事をしては、その機嫌を損ねてしまうというやり取りが日常茶飯事だった。ふくれた明美を笑顔へ戻すために、いったい過去にどれだけの時間を、面白おかしくも費やしたのだろうか。
昔を思い出し、互いにひとしきり笑った後、不思議な沈黙が落ちた。
それはどちらともいわず口をつぐみ、どちらともいわず声を上げるタイミングを見計らうような。きっと私にも明美にも、伝えたいことがあるのに踏ん切りがつかない。
そんなもどかしい一瞬に口火を切ったのは彼女の方からだった。
「ね、ましろちゃん」
「なぁに、明美」
「ちょっとでいいから…私の決意表明、聞いてくれない?」
「……どういうこと?」
「もう話せるの、ましろちゃん以外、いないから」
静かに、色のない重たい声。
「私…賭けに出ようと思うの」
スピーカー越しにガラリとあちらの雰囲気が変わったのを感じてしまった。その変化に、忘れ人への言及なぞは私の脳裏から消え失せる。
彼女はいったいどうしたというのだ。
「任務を貰ったの。資金調達の…それも結構大がかりなものよ。それを成功させたら…取引をするって、ジンと約束したの」
「ジンと?嘘…」
なぜ急に、と思った矢先に数刻前のバーボンの言葉が脳裏に甦る。
進退窮まっている、ということは切り捨てられるか否かの瀬戸際である。先程の一瞬のうちに、こんな事にさえ考えが及ばない程に憔悴していたのだろうか。改めて己に憤りが燻る。
そもそも明美は今まで、普通に組織の仕事に手を染めることなく生活をしていたはずだ。
それは、今まで彼女が万一少しでも、組織の取引の矢面に立たされようものなら、人知れず、私が全力で握りつぶしてきた事が大きい。それだけ彼女は私にとって大切に、庇護のもとに置きたいと願う唯一の存在だった。
しかし今更それが、まさかの本人によって積極的に崩されようとは思ってもみなかった。
更には、彼女の首に手をかけつつあるのがジンであるという嫌な情報まで得るとは。どうしてあの男は今も昔も、私が守ってきたものをことごとく邪魔するのだろうか。
そうまで考えてから私は、唇を裂けんばかりに噛みしめた。
小賢しいはずの私の頭は、こういう時に限ってうまく働かず、役に立たない。
彼女の平穏が叶わなくなったのはやはりバーボンの言うとおり、あの赤井秀一という男と出会ってしまったからなのだろうか。
戻ってこない己の記憶は、些細な確証すら得ることを阻んだ。
「私もあのジンが素直にやってくれるとは微塵も思ってないよ。けどやらなきゃ…私だってやってみないと。私なんかの手じゃ、ましろちゃんみたいに、かっこよく出来たもんじゃないけど。でも、」
「…明美」
「大君みたいに上手くはできない、けど」
「ねぇ、駄目だよ明美、」
「でも、志保をっ…、守らなきゃ…!」
明美は絞り出すように、かすかな悲鳴をあげる。
硬質だった声音はいつの間にか、たった一人の家族を守る姉のそれへと変わっていた。
「駄目だよ明美。明美には、」
「できるできないとかじゃないのよ…やらなきゃ、私が」
彼女は昔から優しかった。それこそ組織の関係者とは思えない程に、清廉とした人だった。
だからきっと、彼女の本質は計画に支障をきたす。
そして万一失敗すれば、今の立場の彼女がどうなるかなど、火を見るより明らかだった。
「っ失敗したらどうなると思ってるの…明美。ねえ…私が何とかしてあげるから、だから、」
思わずついてでた言葉に自分でも驚くが、それに構っている余裕はなかった。
この際、私の立場など最早どうとなっても良い。
止めなければ彼女はどこか、自分の預かり知らない得体のしれないところへ行ってしまうような気がして。踏み入れてほしくなかった組織のあの、暗澹とした澱みの中へ沈められてしまうような気がしてならなかった。
きれいなままで、いてほしいのに。
「それじゃ意味ないのよ。貴方がやってのけても、意味がないの」
「…どうして」
「ましろちゃんにはね、もうたくさん助けてもらってるから」
私が生まれてから今まで、ずーっとね。
どこか穏やかに言葉を使い始めた明美には、もう自分の言葉は届かないということを悟る。己の唇が微かに震えるのを感じた。
そして彼女はちゃんと気づいていたのだ。私が彼女のために、組織の中において可能な限り手を回した過去を。
完全に自己満足のつもりだった。
たとえ友人であったとしても、恩着せがましくなるまいとひた隠しにしてきたそれを、至極あっさりと、しっかりと彼女は受け止めていたのだ。
ならばどうして、今の私の思いは酌んでくれないくれないのか。
「それに、もう計画は動き出してしまったの。止められない」
まって、
まって。
私、あなたに聞きたいこと、たくさんあるの。
話したいことも、たくさん。
ねぇお願い。明美。
長らく会うことができなかった分だけ、私の胸の内には零れんばかりの想いがあった。
言葉をのせるのがもどかしい程にひたすらに言いつのっても、こちらの気を知ってか知らずか、再び穏やかな声が返ってくる。
「これが終わったら、また三人で出かけようね」
だから待っててね、ましろちゃん。
その一言にブワリ、と総毛が立った。
「何…言ってるの」
死ぬ気じゃないでしょうね
さすがにこの言葉は、口にのせられなかった。
よくある映画のような台詞を聞きたいわけではなかったのに。
しかしそんなことはお構いなしに強情にも、けれどその下に気丈に心を押し殺したまま、彼女は言ってのけたのだ。
「私、死なないわ」
貴方たちを助けるまでは。
なんだかホント、電話じゃ話しきれないね…と悲しげに漏らす彼女の声は、一層酷くなった雨脚にかき消される程に微かなものだった。
受話器とスピーカーは、互いの息遣いを実にリアルに伝えた。けれど所詮その程度だ。
手を差し伸べたくとも、届きはしない。
触れたくとも、この手はただただ空を切った。
約束は、叶わないのか。
埋められない距離感は得も言われぬ感情となり、波となり、静かに私を呑み込んでいく。
視界の端で、光をたたえた赤いプラスチックが微かに揺らいだ。