15
生まれてこの方、神様などという不確かなものを信じた事は無かった。
けれど今回に限っては、その存在を引き合いに出さざるを得ない程、この上ない仕合わせに感謝した。
ベルモットとの一仕事を終えた後。
電話でウォッカから約束の情報をせしめた私は、早々にハワイを発った。
その内容は目論んでいたものとは全く毛色の異なるものだったが、内容としては実に良い知らせだった。
明美が任務に成功した、と。
いったいどうやって天を味方につけたのだろうか。
昔から思っていたが、時折彼女が発揮する豪胆さには舌を巻く。
問い詰めたところによれば、十億円輸送車を襲った際、仲間の1人が警備員を射殺してしまったというイレギュラー以外は、特に問題も無く、明美に怪我も無かったという。
あの日眠れぬまま、信じてもいない神にすら縋るように祈りを馳せた。事が終わってしまえば、それにすら効果があったのかもしれないと、呑気にも思えてしまう自分の俗さに、少し嗤いがこぼれる。
その一方で少し疲労感が募ったのも確かだ。
何せこの十数時間、独り相撲をとっていたことになるのだから。
「おかえりなさい、シードル」
「……あなたやっぱりストーカー気質、あるわよね」
少々の倦怠感と共に、再びの成田の地を踏みしめる。
そんな私の前へ、何の前触れも無く現れたバーボンは、私の膨大に増えた荷物の隙間から、嫌味なくらい得意げな笑みを覗かせた。
「失敬ですね。ちょっとした情報と、ほんの些細な推測を駆使しただけ…まさに探り屋の手腕じゃないですか」
「そういう事を言ってるんじゃあないのよ」
「ウォッカの様子が目に見えておかしかったので少々鎌を」
「やっぱり彼、おバカよね。ほんと」
ハワイでの滞在時間はおよそ10時間あまり。
夜通し任務をこなしたうえに、時差のおかげで同じ朝日と二度もまみえる事になった私は、体内時計の大混乱により少々苛々している。
そもそもここ数日、一連の様々な事柄によって否応なしに神経が逆立たせられている気がしてならない。極論を言えば、ハワイの任務も含めて大変な引き受け損である。あまり余計な事を言わないで欲しいのが本音だった。
荷物の積み上げられたカートを、小さな身体で億劫そうに押す私を見て、バーボンは徐に役目を代わってくれるが、首をかしげる。
「なんだってこんなに…荷物が多くなったんです?」
「Sag nicht…ベルモットのせいよ」
帰りがけに、土産と言わんばかりに彼女から渡されたブランド物の袋の数々。搭乗前にチラリと中身を確認したが、詰め込まれていた子供服の数々が視界に入り、ありがたみを通り越して別の感情が生まれそうだった。
ちなみに預入手荷物になってしまったこれらの荷物は、急ぎ足の私をあざ笑うかのように、例の如く受け取りに時間を要した。
普段、私はクラシカルな大層可愛らしい恰好をしているが、これは己の好みというわけではない。
誰かしらからただ与えられたもの、特にベルモットから幾度となく大量に贈られるアンティークなテイストの衣服が、私のワードローブを構築していた。もともと服装には頓着が無い。こういった性質の人間のワードローブが、たとえば無難な揃いだったとすれば、シンプルイズベストに滞りなくコーディネートが進むのだろうが、如何せん、私の手札ではそう上手くいかなかった。
かつてはベルモットが残していった組み合わせのままに、上下を整えていた。
しかしある日、うっかりごちゃ混ぜになったクローゼットから、自ら服を選んでみせた時のバーボンの表情は、何か突然、とてつもなく可哀想なものを視界にうっかり入れてしまった時のそれだった。
曰く、私にはセンスがないらしい。
その日以来彼は、髪の手入れのみならず、コーディネートにまで口をだすようになった。
「おや、フサエブランドの新作。しかもこれ、海外限定モノじゃないですか」
「…あなた何でそんなに詳しいのよ」
袋を覗き見、これでまたお洒落がはかどりますね、とのたまう彼にチラリと視線をやる。勝手にやってくれ、という言葉は面倒なので呑み込んだ。
「さてバーボン」
「なんでしょう」
「わざわざ迎えに来てくれたってことは、足になってくれるのよね」
「とうとう直接的な表現になりましたね」
苛々してるからねと返せば、車にお菓子がありますよと宥められた。少々不服だが、しかし甘やかされるのは悪い気はしないし、なによりお菓子に罪はない。自然と顔が綻んだ。
「銘柄にはうるさいわよ、私」
「勿論。存じておりますPrinzessin」
「…調子いいんだから」
「貴方の様子から察するに、どうやら無事に宮野さんの情報は得られたみたいですね」
「知ってるくせに一々聞くの?」
「概ね推測でしかありませんよ。まあ、彼女が任務を成功させたのは存じてますよ」
そりゃあそうだ。それくらいの情報なら、既に紙面のトップを飾っている。
外へ出た瞬間にひんやりとした空気に中てられ、条件反射でくしゃみが飛び出す。半日にも満たない滞在だったが、それなりに過ごしやすかったハワイの環境に少し後ろ髪をひかれる思いだ。
「…明美の家に行くわ。話さなきゃならないことがあるの」
「だと思いました。ウォッカから合鍵を預かっています」
「Oh ScheSie…不法侵入しろっていうの?外で待つわよ」
「念のためです」
「なんの念なの」
バーボンとの会話の応酬は、時折らちが明かなくなる。駐車場に到ってからも続いたそれを、断ち切るようにして車のドアをひらく。真っ白なRX-7のボディは、最後に乗車して以来それほど時は立っていないのにもかかわらず、妙に久方ぶりの気分だ
「東沢袋よ」
駅前に着いたら起こして、と言い残してからシートを前へ引き、背もたれを後ろへ倒す。
機内で多少の仮眠をとろうとしたものの、やはりあの振動と特有の呻りが耳につく窮屈な空間では、ゆっくりと眠れたものではなかった。RX-7もそれなりの狭さではあるが、乗り慣れている分、体の落着け方の要領は得ている。
バーボンは座席後部の、もはや何のためにあるかわからない謎の手狭なスペースから、徐にブランケットを取り出して私の膝へ広げた。
「ありがとMutti」
「お母さんになった覚えはないんですが…」
せめてVatiにして頂けます?とぼやくバーボンを無視して、私は目を閉じた。
そこはなんの変哲もないただのアパートだった。
否、アパートにしては少々規模が大きいのでコーポといったところか。いずれにしても、セキュリティ面になかなか不安を覚える佇まいだ。
バーボンから受け取った鍵で、二階の中ほどの部屋の扉を開ける。当然の如く、人の気配はなかった。
何故結局、部屋に上がることになったのかといえば、単純な話、コーポ周辺に全くと言っていいほど車を止めるスペースがなかったからだ。そして如何せん、扉の前で二人佇んで待つのも限界があった。
「生活臭はまだ残っているようですね」
「バーボン、あなた車で待ってても良かったのよ。終わったら連絡するから」
「ただのハイヤーに成り下がった覚えはないんですが」
「あんな乗り心地のハイヤー、需要ないわよ。まあスイカを買った時には重宝しそうだけど」
「シードル、」
RX-7の圧倒的狭さの象徴ともいえる、“高級なスイカ置き場”と揶揄された窪みのようなリアシート。それついて言及すれば、バーボンの口元がヒクついた。
玄関にはプレーンなパンプスとつっかけサンダル。傘立てには見覚えのある水色の傘がささっている。
部屋に上がるとすぐに目に入る水回りとキッチンには確かに、そこに彼女が少し前まで滞在していた、という僅かな空気感が漂っていた。
1Kの生活スペース部分はおおよそ8畳ほどの広さで、さして特徴的でない家具でまとめられた空間である。壁沿いに並んだそれらに近づいた。小ぶりのキャビネットの中段に写真立てがいくつか並んでいる。
そのうちの一つ。ガラス製の写真立てに意識が引き寄せられる。何に目が引かれたかといえばもちろん、明美の隣で笑う私が写っていたからだ。
しかし加えて、その私の隣に写り込んでいる黒髪の長髪の男が目にとまった。
遊園地と思しき遊具を背景に、少し引きのアングルで撮られたその写真を、もっとよく見ようと顔を近づける。
顔色は悪いがなかなかに渋みのある、彫の深い顔立ちだ。この男の写真はこれ以外には見当たらないが、もしやこの男。
「ていうか私、遊園地行ったことあるじゃないの…」
しかしこれもまた例の如く、全くもって記憶にない。
考えにふけっていれば不意に、写真立てが褐色の手によって視界からさらわれた。
「Was machst du gerade?」
「お忘れのようですので教えてさしあげます。この長髪が赤井ですよ」
「…厭味?」
ひらひらと、それを私の頭上で掲げてみせたバーボンを押しのけ、傍らのベッドに腰かける。それを見て興が削がれたのか、彼は写真立てを伏せて棚へ戻した。
「シードル、」
「なあに」
「今ので何か思い出したことは?」
「…Nein。何にもよ」
顔を見てみれば何か思い至る事があるかも、とは考えていたが、全くもってその兆しはなかった。少し懐かしいような心地もするが、それがどういった感情に基づくものなのかすら分からず、持て余すしかない。
その気になれば幾らでも、組織に残る彼のデータを検索することもできた。しかしそれをしなかったのは、このよくわからない感情が自分の中に渦巻いているからなのかもしれない。
そのまま体をベッドへ投げ出せば、視界に茶色いイノシシのぬいぐるみが入り込んだ。枕元に鎮座しているそれは、おおよそ70センチはあるだろうか。抱えてみれば、私の腕には少し余った。
「Uh…あんた中々ぶさいくね」
ぬいぐるみの顔つきはどうにも平たく、本来ならつぶらであろう黒々としたビーズの瞳は、もさもさとした毛で半ば隠れてしまっている。しかし抱きしめたそれへ顔を埋めてみれば、陽光を思わせる煙たげな匂いが鼻をくすぐった。
何故かその腹にはファスナーとポケットがついており、徐にそれを開けば中からコロン、と何かが転げ落ちた。
「林檎…」
「キーホルダーですね。貴女のものと同じ」
宮野さんのものでは?と、バーボンは私の胸元に転がったそれを拾い上げる。
「こんなとこにしまうかしら…」
「そうですね…失せ物をしやすい貴方じゃあるまいし」
「うるさいわよ」
零れ落ちた林檎には、もともと付属しているキーホルダー部分に、材質の違う丸環が二つつけられている。金メッキの輪っかにぶら下がった鈍色の丸環が、少々不格好である。しばらくそれを眺めるも、答えが出ないことを悟った私は、それをもとの居場所に戻した。
「……そもそも今日本当に帰ってくるという確証もないのよね」
「事後処理の算段にかかる時間を考えると、まあ今日の夜中には片が付くと思いますけどね」
「な、が、い」
「連絡がつかないんだから仕方がないでしょう」
それに事を急いだのはシードル、貴方でしょう?というバーボンの言葉も、聞かなかったふりをしてスマートフォンを確認する。ハワイを発つ前に明美へ送ったメールには未だに返信がなかった。
「一度車に戻ります?ここではどうやら貴方、落ち着かないようですし」
「Hmm……――――!」
私が呻いた直後、握りしめたままだったスマートフォンが着信に震える。
「…ウォッカ」
着信画面に表示された名前を口に乗せた瞬間、何故だか言いようのない、嫌な予感が体中を駆け巡る。こういう時の勘は不思議と当たるのだ。
そうとは知らず、でないのか?という表情のバーボンと視線がかち合い、グっと不安感を押し殺す。
画面をタップする指が少し揺らぐ。耳に押し当てたスマートフォンの画面は存外ひやりとしていて気分が悪かった。
「―――……なあに、ウォッカ」
「よぉ、シードル」
「Du Dreck」
聞きたくもない男の声に、思わず手を握りしめれば、スマートフォンがぎしりと呻いた。自分のスマートフォンからかけてこない事も、不遜な声音も何もかも、彼の行動全てが私の全神経を逆なでる。
「おいおい、ご挨拶だなお嬢ちゃん。せっかくわざわざ電話してやったんだぜ?」
「ジン、爆発物を送り付けられたくなかったら、さっさと用件を言って頂戴」
私の悪態によって電話の相手を察したバーボンが、僅かに眉をひそめた。おそらく私はひどい顔をしているのだろう。
「奴の仲間が飛んだ」
「Was?冗談……」
嫌な嗤いが耳を打ち、それが微塵も冗談でないことを悟る。そもそもこの男が冗談などを口にするわけもなかった。ウォッカの話では、明美は三人がかりで事を成したというが、その一人が逃げうせたという事は、もしかすると奪った現金も無事ではないのかもしれない。嫌な憶測が次々と浮かんでは消え、徐々に手足から熱が奪われていく感覚。
うまくいったと、天が味方したと思っていたのに。
「待ちぼうけのテメェには悪いが、あの女は残業だ。―― 始末をつけさせる」
その無情な一言に、遂に全身から血の気が引いた。
「やめて!!!明美にそんなことさせないで!」
ベッドから跳ね起きた私はそのままの勢いで玄関を抜け、外へ飛び出す。
タイツごしに、砂利道とコンクリートの硬さが皮膚を穿つが、そんなことに構っている暇はなかった。
「もう遅い」
やっぱり神様なんていない。