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 思い返せば幼少期、明美はあまりましろと一緒に出掛けた記憶がない。
 家の中ではひとしきり、常に一緒に過ごしていたものの、日常的に必要であろう外出などはほぼ共にすることなく、彼女はいつも明美を玄関先で見送り、そして出迎えてくれていた。
 しかし家に彼女ひとり残して外出することは、幼い明美に少ないながらも心苦しさを覚えさせた。
 おかえり、という言葉にこれほど申し訳ない気持ちを覚える子供は、果たして世界にどれだけいるのだろう。






 そんな最中、珍しく両親、明美の三人揃っての外出をしようか、という時。
 これまた珍しくましろが出掛ける身支度を整えているのを見て、明美は大層驚いたのを覚えている。嬉しくなって彼女が支度している間中、親鳥を追いかける雛のようについて回った。
 支度ができないから離れて頂戴、と困った顔をしていた彼女が準備万端になったころ、明美はとうとう喜び勇んで抱きついた。






「もう…ちゃんと大人しくしてなさいよ」


 この日、明美はましろに大層怒られた。
 父母の知人であった出島社長の事務所で、明美が巻き起こした失せ物騒動は、結局微笑ましい子供のいたずらで収まったのだが、ましろはそのあともしばらくぷりぷりと苛立ちを滲ませていた。人をむやみやたらと困らせるものじゃない、と珍しくつり上げられた柳眉に、少々怖い思いをしたのが正直なところだ。





 その後、明美とましろは大人たちが話をしている間、アシスタントの二人が手持ちの資料や私物の中からかき集めてくれた子供向け雑誌や本で時間を潰していた。


「ローティーン向けの雑誌って……マセガキばっかり」


 面白くなさそうにしながらも、割と時間をかけてページをめくっているましろの横で、明美は挿絵の美しい童話集を眺めていた。
 ふと、題字に林檎の木々とその実が縁どられた物語へ行きつく。


「りんごちゃんがいっぱい」

「林檎が載ってるからって、白雪姫と私を結びつけるのはやめて頂戴」

「ねえねえ、このお話、明美の知ってるのと違うよ」

「…どれ」


 童話集の白雪姫は、紐と櫛と林檎と多様な方法で殺されようとしていた。あとから思えば、かの有名なアニメーション映画と、原典のストーリーの違いでしかないのだが、幼い明美には新鮮に映った。


「三回やって駄目なんて、この女も詰めが甘いわね」

「イノシシって何?かんぞーっておいしいの?」

「…明美、ツッコむべきところはそこじゃないわよ」


 そうぼやいた後、イノシシの説明をしようとましろがせっせと描いたイラストは、控えめに言っても上手くなかった。
 何でもそつなくこなしていた彼女の意外な一面だったため、不思議と明美は今でも鮮明に、その不格好な絵を覚えている。
 











 明美の部屋のベッドで寛ぐ、あの不細工そうでいて、どこか愛嬌のあるぬいぐるみ。
 町中でうっかりショーウィンドウ越しに目があってしまった、あの毛玉のようなイノシシから明美が目が離せなくなったのは、あの時の絵を思い出したからなのだろうか。


 そんな明美を見て、連れ立っていた男は一瞬考え込んだ後、徐に姿を消した。
 ボーっとぬいぐるみを見ていた明美は、すぐにはそれに気づかず、ふとした時には既に彼はショーウィンドウの向こうの店内で、店員と何やら話し込んでいた。
 暫くして彼がそのイノシシを抱えて店から出てきた時には大層驚いたが、直後に「諸星大がぬいぐるみを抱えている」という今までにない珍妙な組み合わせに、思わず笑ってしまった。


「大君、なんで急にそれ買っちゃったの?」

「欲しかったんじゃないのか?」

「うーん…まあ…うん。そういうわけでもないけど…」


 存外、触り心地の良いそれを手渡され、思わず抱きしめる。店内の香りだろうか、お日様のような匂いが明美の鼻をくすぐった。


「それに、」

「?」

「ちょっとアイツに似てないか?」

「…それましろちゃんに言ったらすごい怒ると思うよ」
 

 雰囲気の話だが?と不思議そうに首をかしげられるも、そもそも人間とイノシシだ、似ている訳もない。このぼさぼさと、あのお人形のような彼女の雰囲気が似ているとは、明美には到底考えが及ばなかった。
 けれど同じぬいぐるみに対して二人、思い至る人物が同じだったという事で、先ほどまでなかった愛着という感情がむくむくと明美の内に湧いてきた。
 アイツに会ったら二人と一匹で写真でも撮るか、とさも妙案のようにのたまう彼の言葉から、大層ご立腹になるであろうましろの様子が容易に想像できて、二人の間に笑いが落ちる。


















 そんな穏やかな日々の、懐かしい思い出だった。
 思いを馳せながら明美は、カートに乗せたスーツケースへそっと手を添える。



 もしも万が一、自分が帰れなくなった場合の保険を、遺すべきものの手がかりを、あそこへ残してきた。
 彼女ならきっと気づいてくれる。


「気づいてくれなきゃ怒るわよ」


 

 ふとこぼれた独り言は、地上フロアへの到着を告げるエレベーターのチャイムに、あっさりとかき消された。







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