21


『バーボンはこっちに渡してもらうわ』








 嵐のようなドライブに耐え、ようやく研究所に帰り着いたものの数分後。
 私のスマートフォンが着信を告げた。
 








「どういう事」

『Fraulein…悪いけどボスの指示よ』






 こちらが口を開く前に告げられた言葉に、表情筋は平素より格段に軋んだ。そろそろ眉間に皺が刻まれるのではないかと不安になる。
 至極申し訳なさそうな物言いだが、おそらく腹の内は微塵もそのような感情は無いに違いない。ハワイで別れたはずのベルモットの声を、こんなにも早く再び耳にするとは思いもしなかった。
 


『私と組んで一仕事。だからこっちに寄越して頂戴』

「嫌よ」

「シードル、どうしたんです」



 停車したにもかかわらずシートベルトに手をかけずにいる私へ、バーボンの訝しげな声がかかる。答えることもできず、私は虚空を睨みつけた。



『…It's about time to go home』

「………」

『言伝よ』



 誰からとは言わずもがな、私に大人しくしろと命令できる人物などほんの一握りだ。聞き入れないわけにはいかない。
 平素ならば。



「…そんなのは私が、決める事よ」

『聞き分けのない子ね。ジンには私から…言っておくから』

「嫌よ。あの男信用ならない」

『…シードル。二度はないのよ』

「何ですって?」



 また一つ、唐突に飛来したエニグマが私を殴りつけた。
 二度、とは何の話だ。
 頭が揺らいだような感覚に襲われ、私は思わずこめかみを撫ぜた。



「また、あの方の憂いを増やそうっていうの?」



 完全なる指弾だった。
 遂に彼女までも、全てを心得たかの如く兎や角と、私の知らない私を言い募った。
 息をするように自然に、まるでそれが当然に真っ当な意見であるかのような物言いで。私には全くもって、それは当然ではないというのに。全くもって何も、覚えがないというのに。

 言い聞かせるような口ぶりで、しかし声音は硬質だ。
 かつて昼下がりに見たあの、懐かしむような色合いは微塵も感じられず、ただ符号化された声が、私をザクリと斬りつけていく。



「――― やめてよ」

『シードル?』



 他でもない彼女からの、私をこんなにもよく知る彼女からの予期せぬ糾弾は、私の体中へ、まるで煮え滾ったかのような身震いを呼び寄せた。



「私の知らない話を!!しないで!!!」



 衝動的にスマートフォンを振りかぶり、すんでのところで思いとどまる。薄暗い駐車場内のフロントガラスに、うっすら反射している軟色の髪に気付いたからだ。軋むような指どりで、未だ微かに合成音声の欠片を溢す通話を切りあげた。
 唐突にバーボンを掻っ攫われる事に加え、彼女の言葉のお蔭で急激に思考が荒れていくのを感じる。ここへきて漸く、目に見えて欠けた記憶への苛立ちを、ハッキリと認識してしまった。



「シードル、大丈夫ですか?」



 こちらを覗きこむ顔は、既に胡乱げな物へと変わっていた。その最中、不思議と煌く蒼い目に映りこむ己を捉え、不意に体が強張る。美しい色合いをした、視線すらもしなやかな佇いのそれは、しかしどこか温かみを欠いていた。
 先日の、赤井秀一という男を語った、あの時の目だ。同じ温度をしている。


 どうしてかれは こんなめをして わたしをみるの


 次第に硬質なもののように思えてきたそれは、私の沸き立った心の内で酷く膨張して弾けていく。水蒸気が爆ぜたようなそのちりつきに耐えかね、言い知れぬ不安感を覚えた私はそのまま視線を逸らした。
 そのまま極力彼へ視線を向けないようにして、動揺を悟られぬよう慎重に口を開く。



「あなた、これからベルモットと任務になったわ」



 一度染入った畏れは私に、これ以上彼へ余計な情報を与ることを躊躇させた。それは恐らく一過性の、ベルモットによってもたらされた心騒ぎからくる用心に他ならないが、見当違いというものでもないだろう。
 本能的な防衛意識には、極力従っておいた方が長生きできる、というのが私の持論だった。



「??…聞いてません」

「でしょうね」



 今決まったことだもの、と小さく毒づく。片や、バーボンは困惑を通り越して、少しばかり苛立ちを露わにしているようだった。当然だろう。散々振り回されてこれでは、誰だってそうなる。
 引きとめられないように手早くシートベルトを外して車を降りるが、ほぼ同時に反対のドアも開いた。



「一人でどうするつもりですか」

「別にあなただけじゃないわ。足になってくれる人」

「くだらない事を言ってる場合ですか! それに…今、あなた…何ともなかったとでも言うつもりですか」



 ちょっと、聞いてます?というバーボンの言葉が耳に飛び込んでくるも、私はその場で降り立った状態のまま、微動だにしなかった。
 振り返らなかったのは、なんとはなしに、今振り向いたら顔を取り繕う余裕がないと感じたからかもしれない。
 無風の筈の地下駐車場はまるで、風が吹き荒んだ名残りの如く、ひやりとした空気に満ちていた。


「別なんとも。それに…さっきも言ったけど、あなたには関係のないことだったもの」

「ねぇ、ちゃんと聞いてください。 僕は、」

「Vielen Dank fur die mir eine Fahrt」

「………」



 取ってつけたような謝辞を述べたところで、バーボンが引き下がる筈もなく、再び私の名を呼ぶ声が背を打った。
 しかしこれ以上何も言えない。
 言いたくなかった。



「早く行きなさい。でないと私が文句を言われるんだから」



 居心地の悪さを悟られないように、背中に受ける視線を振り払うように、私は手近の階段を駆け上がった。

























「それで?ここ数日引きこもってるのはその所為ってわけか。呼び出しておいて情けねぇなぁ、シードルさんよ」



 長い手足を縮こませるかのようにして座るアイリッシュへ、苛立ちをそのまま勢いにして、私はお茶請けのマドレーヌを投げつけた。



「俺もそれなりに、やる事があるんだが」

「どうせピスコでしょう」



 難なく左手でキャッチしてのけた彼の反対の手には、私のお気に入りのティーカップが握られている。微かな木の芳香を揺蕩わせる琥珀色の液体が、先の衝撃でタプンと揺れるのが目に入った。
 熱をじんわりと孕んだそのまろい曲線はさわり心地がいいのだろう。先ほどから幾度となく、細く長い指先が花模様を撫ぜている。



「ロイヤルウースターの一揃いにオータムナルのダージリンか…あの女狐もなかなか凝るもんだ」

「……ここは私の部屋よ」

「センスに関してお前が木偶の坊なのは、みーんな知ってることだろうが」
 


 ベルモット様様の癖して、と哂ったアイリッシュはクイ、と紅茶を煽る。図体の大きさに比例して、それは随分と洗練された仕草だ。
 今は極力、彼女の名前は耳にしたくなかった。苛立ちを悟られぬよう、彼から視線を外し、バターの芳香へ吸い寄せられるようにマドレーヌへかぶりつく。



「その木偶の坊が淹れた紅茶を毎度、旨い旨いって飲み干してるのは何処のどいつかしら」

「宝の持ち腐れってヤツに巻き込まれなくて助かったよ」

「Halt den Mund。急いでるのにわざわざ淹れてあげたのよ」



 心配しなさんな、とアイリッシュはマドレーヌを千切って口へ放り込む。



「ここ一週間ジンには動きが無い。それこそ、そのお嬢ちゃんに至っては探偵に依頼して裏切り者を探し回っているときた。随分アイツも温いことを見過ごすもんだぜ」

「…機会をうかがってるだけよ。だからこそ急いでるの、私」

「いいからとっととそれに目を通しちまえ。バーボンがいなくて淋しい淋しいお前さんのために、せーっかく調べてきてやったんだから」



 私の座る正面に、無造作に置かれた数枚の紙と写真。それをトントンと指差したアイリッシュはどうだ、と言わんばかりに再び笑みを浮かべて見せた。



「前から思ってたけど貴方ほんとに、目上を敬うって言う所作を習っておくべきだわ」

「お前鏡見たことあるか?」

「…バーボンの方が優秀ね」

「どうだか」

「見習って少しは取り繕えって言ってんのよMuppet!」

「その口が閉じてりゃ、少しはその気になると思うがね。それになんだよ、今日はやけに絡むな」

「SchlieS den Mund」

「……可愛くねぇな、ほんと」



 心底腹が立つ、という表情を浮かべたアイリッシュは、小さな欠片に成り果てた焼き菓子を口へ放り込んだ。後押しとばかりに残りの紅茶も綺麗に飲み干した彼は、そのままテーブルの茶器を片付け始める。

 一体全体どうして、私の周りにはこれでもかと言うほどマメな男が揃っているのか。都合の良さを通り越してなかなか嫌になる。

 書類に目を通し始めた私を余所に、勝手知ったると言わんばかりにテキパキと卓上が整頓されていく。飲みさしのカップすら取り上げられ、文句をつけようと伸ばした左手は、大男の機敏さに追い付かず空を切った。
 所在なげに宙ぶらりんになったそれを誤魔化すように、仕方なく私は次のページへ手をかける。

 現金強奪の際における未発表情報や事の顛末。そして当事者たちの情報。しかしそれらの情報も、明美の事について以外は事に及ぶまでのものに過ぎない。行方をくらませた広田という男にしても、今の居所は誰にもつかめていないのだ。取り敢えずこの広田という男の周りを潰してみるしかないだろうか、とアイリッシュに問えば、当然だろと返されてしまう。頭を使うのは好きじゃないんだから、仕方ないじゃないか畜生。

 渡された記録にもある通り、ここしばらくジンは未だにアジトを出ていないという。ベルモットが言って聞かせるなどと宣言してみせたのは本当だったのだろうか。
 言って聞かせるような相手ではないだろう。ひょっとしたらヤツにはまだ何か思惑があるのかもしれないなどと考える事が、望まぬ習慣になってしまった。いっその事、向こうが死に顔を晒してくれるまで止まないかもしれない。
 流しでカップを洗い始めたアイリッシュにジンの動向を強請ってみれば、最近は、別の研究所に頻繁に赴いているらしい。
 大方あの子に接触しているのだろう。



「…志保」



 不幸な星の下だ、と以前バーボンが溢した一言。
 それは明美について言い及んでいたが、虫唾が走る程にしっくりくるその言葉がふと思い出されて、嘆息する。
 生まれたのを見届けてしばらく、一緒には過ごしたものの、物心がついた以降は一切関わり合いになることは無かった彼女。以前、何度か研究所を渡り歩いた際に見かけたローズブラウンが、記憶の中でハラリと揺れる。



「シードル、早くしろ」

 

 物思いに耽っていれば、いつの間にか身支度を整え終ったアイリッシュにコートを放られ、袖を通している最中にわざわざヘルメットを投げ渡される。
 左手でキャッチしてのける事は別段、造作も無かった。











「おい、」

「Was?」

「着信」



 そう言い様、待ってろという手が私の前に翳されて、一人駐車場の入口に取り残された。不必要なほどの薄闇に消えていったその姿を見送って、私はスマートフォンを取り出す。
 到着を告げていたのはコールではなくメールだった。


 手早く開けばアルファベットと簡体字がとめどなく並らんだ本文が飛び込んでくる。
 一見すると嫌がらせのような、無尽蔵かつ無作為な文面とも見える中に、見覚えのある規則性を発見してしまい思わず顔をしかめた。



「暗号にするにも程があるでしょ」



 バーボン。
 そう独りごちて一通り画面をスクロールして暫く。



 “杯戸町○× 4−19−1 202号室

          無茶はしないでくださいね”



 膨大な文字の中に潜んでいた、たったこれだけの情報はしかし、有益なものには違いなかった。口角が不意に、感情に伴って上へ、上へと引き上げられる。



「流石ね」



 どうしたことだろう。顔を見なければ、気を許せるのか。
 先日少しばかり突き放した罪悪感は一体どこへいったのか。随分とお手軽な女だと心の片隅で生まれた非難も、そのままご機嫌な面持ちによって払いのけられていった。我ながら現金な事だ。


 
「ほら行くぞ」



 戻ったアイリッシュは大型のバイクを伴っていた。
 私の呆けた思考と、其処へかかった彼の言葉は、轟に半ばかき消される。音の発生源は言わずもがな、目の前で今か今かと身震いを続けるモンスターマシンからである。

 バイクにはあまり詳しくはないが、厳つく筋肉質な外観が持ち主と似ているようで思わず笑ってしまった。
 大振りの、というよりは私にとってはある一定の大きさのバイクは巨体も巨体、まさにモンスターである。大層値の張りそうな質感だが、乗り心地は良いのだろうか。どちらかというと速さの方にメーターを振ったような顔つきをしているマシンだ。
 クルーザー型からしてハーレーかと思いきや、刻まれていたトライアンフというロゴを発見して閉口する。確かイギリスのメーカーだったろうか。
 ビークル好きどもの嗜好といい思考は、全くもって分からないことだらけだ。バーボンの車へのこだわりも、ジンのあの古臭い車へのこだわりも、未だに見当がつかない。結構な事だが、こういう類の連中は総じて、スピードを出したがるのだ。彼も少しばかり、そういったものを楽しむ男だった。文句を言える立場ではないがしかし、記憶に新しいバーボンの運転を思い出して、自ずと眉間に皺がよる。



「あー…流石ね」

「その顔どうにかしないと後ろに乗せてやらねぇぞ」

「Es tut mir leid」

「絶対思ってないだろ」








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