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動揺し困惑し、感情のままに歪んだシードルの顔は、それでも精巧な美しさを損なわない。
瞳を揺らす彼女を前にして、そんな場違いな考えが降谷の思考に水を差した。
彼女は今、目に見えて不安定になってしまった。
考えられる原因は、先ほど見つけ出したリンゴのキーホルダーか、それとも己が口に乗せた「宮野」の名か。
何かを頭で整理したのか、おもむろにスマートフォンを取り出したシードルは、一瞬逡巡してから画面を操作し始める。
「いま彼女に連絡を取るのは、やめた方がいいかもしれませんよ」
「……なんで」
最初はベルモットに電話をかけるのかとも思ったが、この状況でまず無いだろう。一番親しげなのは勿論だったが、彼女は今遠くアメリカにいる。
逡巡したのはそれが要因だと、降谷は読み、そうすると電話の相手はただ一人である。
「彼女、今だいぶ厄介な扱いを受けていますからね」
宮野明美とは降谷も少々既知の間柄ではあった。しかし手づから今の状況を打開してやれる程、自分の手筈は整っていない。首をもたげる少しばかりの罪悪感を誤魔化すように、シードルから視線を逸らした。
「もともとは大した人物では……おっと、失礼。ですがあの一件依頼、進退窮まってらっしゃるようですし」
「…あの一件」
急いたように廻る口が、うっかり余計な単語を放り出す。
けれども今日に限って彼女はそれにも気づかないようで、代わりに柳眉が疑問符を湛えるかのごとくひそめられた。
「今日はいつにも増して鈍いですね」
「言葉で遊ばないで。あなたの話、わかりづらい」
「あの忌々しい裏切り者を引き入れてしまったせいで…可哀想に、という事です。貴方もあの時、実害を被ったんだから…もっと怨んで然るべきなのでは?」
宮野明美。あの可哀想な女性。
出会っていなければ、監視は受けつつもまともな生活がおくれていただろうに。そもそもあの家に血縁者として名を連ねてしまった事が、彼女の最大の不幸なのかもしれない。
「待って、誰の事を話してるの」
今度は降谷が眉をひそめる番だった。
「明美は誰かに嵌められたの」
不意を衝いて耳に飛び込んできたシードルの言葉は、一瞬にして降谷の思考を乱れさせた。
「誰って、あなた…ちょっと待ってください?」
寝言は夜に聞かせてください。そう軽口を叩きつつも、頭の中では今までの彼女の違和感を総洗いしあらゆる可能性を考えだしてはそれを潰す作業が始まってしまった。
本当に、こういう時でもよく働く頭でよかった。
向かい合った彼女の首元にそっと手を添える。少し顔を近づけてから、視線を合わせれば、シードルは動揺こそしているものの、あの虚偽を装う特有の仕草は微塵も見られなかった。
何も言わずに降谷の手を受け入れている彼女の眼は、どいうことだと言わんばかりの色で睨めつけてくる。少しうるんだ虹彩には、ゆるく笑みを浮かべる己が映っている。
一体全体どうしたことか。
彼女は赤井秀一のことを忘れている。
輝かしくも憤ろしいあのフォーマンセルの頃の記憶は、もはや彼女の中にないのだろうか。
よりにもよってあの男を! あの赤井秀一をだ!!
突然のこの事実は降谷零にとって、またとない僥倖だった。
「ちゃんと話してあげますよ、あの男の事。それこそ余すことなく、全部ね」
嗚呼。今、己の顔は微笑みの容でいるだろうか。
愉悦に煽られた全神経が、ぞわぞわと降谷へ快感をもたらす。
この事実を、利用しない手はない。
2年前は失敗したが今度こそ、あの男を出し抜き、目に物見せてやるための絶好の舞台を作ってやろう。
吸いつくように滑らかなシードルの頬を撫ぜる。
酷く火照ったそこは、冷たい手に不思議としっくり馴染んだ。