触れたら最後


 暗い教室、人のいない夜の学校で、高峯翠は何度目かのため息をついた。電気は点かず真っ暗闇の中、窓ガラスを突き破るんじゃないかと思うくらいの雨音が乱暴に響く。白い閃光が走って雷鳴が轟くたびにビクリと大きく身体を震わせ、無表情ながらも涙目で小動物のように怯えるあんずを横目に見た。
 どうしてこうなったのか。
 何度言葉を繰り返したところで、答えが返ってくるはずもない。

 話はつい数十分前に遡る。
 部活を終えた倦怠感に包まれた身体を引きずるように歩きながら、高峯は昇降口で靴を履き替えていた。部活の後片付けは後輩の仕事だし、部長がいるとそれはそれで面倒なので先輩達に先に帰ってもらうのが常の事だ。朝からテレビで『雷雨になる』と散々言っていたからなのか、今日は人影も見当たらない。
「たかみねくん」
 ふと後ろから声をかけられて、振り向いた先にたったひとりのプロデューサーが立っていた。無口無表情と言われる彼女は特に感情を映さない目できょとんと高峯を見つめる。
「今日は遅いね」
「あー、久しぶりにボール拭いたりしてたんで……。あんずさんも今帰りですか」
 こくんとひとつ頷いて、頭二つ分くらい小さい彼女は高峯を見上げる。自分を指差す仕草が『一緒に帰る?』の意味であることを、部長に言われて初めて知った。何でもないような声であんずは言う。
「おくっていこうか」
「いや、俺これでも男なんで……。むしろ送らせてください、危ないし、不安なんで……」
「あぶなくないよ」
「いや、女の人が夜に外で出歩くなんて危なさの極みじゃないですか」
 そんなくだらない言葉をかわしながら、一歩外に踏み出した瞬間のことだった。

 まるで昼間かと錯覚してしまうくらいの雷光が閃く。間髪入れず、凄まじい轟音が響きわたった。耳に直接響くような、音と言うよりは衝撃に似たその雷鳴に呼ばれるかのように、地面を穿つほどの雨が降り始める。
「うわ……びっくり、」
 した、と言いながらあんずの方を向いた時だった。いきなり腕をぐいっと引かれ、あんずが高峯を校舎の中に連れ戻す。焦ったような声が言う。
「外にいたら、雷が、高峯くんに」
「俺は避雷針っすか」
「危ないから、はやく、建物の中に」
 靴を履き替えないまま昇降口から廊下に一歩踏み出しかけたあんずの腕を今度は高峯が引いて、「落ち着いてくださいよ」と言いながら顔を覗きこんで――絶句する。無表情だと誰からも言われるあんずの顔は蒼白で、身体は小刻みに震えていた。
 高峯が思わず言葉を失った瞬間、もう一度閃光が空を走って雷鳴が轟く。「やっ」と小さく声をあげて、とうとうあんずはしゃがみこんでしまった。
 このひと、苦手なものなんてあったのか。そんな間抜けな感想がまず頭に浮かんで、それからはっと我に返って施錠を忘れていたらしい教室にあんずを放り込んで。
 そして現在に至る。

「………………」
 暗い教室の中、高峯はもう一度ため息をつく。雷はだんだん遠くなっているものの、雨は強く降りやまない。スマートフォンでちらりと時刻を確認すると九時過ぎで、何件か連絡がたまっている。
 不意に、くい、とカーディガンをひっぱられた。
「たかみねくん」
 ごめんね、と泣きそうな声が言う。
「謝んなくていいっすよ」
 思わず出た言葉は思っていたより優しくなかった。つっけんどんにも響く声にあんずは俯いて、もう一度「ごめんね」と小さな声で言う。

(あ、失敗した)

 こんな言い方がしたかったんじゃなくて―――と言葉を重ねようとしてもきっと言い訳にしか聞こえないから、高峯は切り口をかえる。
「あんずさん、苦手なものなんてあったんすね。……意外だし、かわいい」
「……なんか、それは、やだ」
 さっきみたいなか細い声じゃなくて、ちょっと憮然とした声が言う。
「俺にかわいいって言われるの、嫌ですか?」
「そういうことじゃなくて、なんか、ばかにされてるっていうか……」
 電気のつかない真っ暗闇の中、囁くような声で言葉をかわしあう。瞬間また稲光が走って、あんずは声にならない悲鳴をあげた。びくりと大きく震えた身体を高峯の方に寄せたから、ふわりと匂いが鼻腔を充たす。

(あんずさんの、におい)

 ぎゅっと寄せられた身体は頼りないぐらいに細くて、服越しに伝わる体温は少しだけ低い。小刻みに震えながら高峯に縋るその体温に、自然と手を伸ばしていた。

「こうすればきこえませんか」

 ぐいと片耳を自分の胸に当てさせて、もう一方の耳を手で塞ぐ。驚いたように一瞬身体を固くしたけれど、あんずはすぐに力を抜いて、小さな声で「うん」と応えた。「ごめんね、ありがとう」とも言った。
 髪からあんずの匂いがして意図せず鼓動が跳ねあがる。その細さに、低い体温に、心拍数があがっていく。

(やばい、かも)

 こんなに近づいているのだから、きっと心臓の音もばれている。もう一度響いたかみなりからあんずを隠しながら、高峯はごくんと唾を呑み込む。


 触れたら最後、きっと、もう戻れない。