きみとおはよう


 講義はなく、バイトも夜から。いつ起きてもかまわないのだからと目覚まし時計をつけることなく早々に布団に潜り込んだ次の日、あたたかさとほんの少しの狭さを訝って目を開けたわたしが見たのは、眠りについたときにはいなかったはずの恋人の姿だった。
「いくや?」
 おもわず呟いた言葉は郁弥の夢の中までは届かなかったらしい。ゆっくりと息を吸っては吐く規則正しい呼吸音、きちんとしめることを怠った遮光カーテンから漏れる朝の光に照らされるふわふわの黒髪。いつでも潤んでいるような瞳は今はまぶたに隠されて、長いまつげが時折ふるりと気まぐれに揺れる。寝る前にわたしが読んでいた本は丁寧に机の上に載せられてはいるものの、見覚えのない折れ目がカバーについているので昨日寝落ちてからぶん投げてしまったのだろう。間抜け面で本を投げ出し眠る自分を見た郁弥の顔はどんなだっただろうか、まったく見たくないようで、すごく見てみたい。
 郁弥を起こさないように、そうっとベッドから降りる。ちょっとだけふくらはぎを蹴ってしまったけど、んん、と唸り声をあげて寝返りをうっただけだったから思わず笑いをかみころす。折れ目のついている方を下にして、ついでに他の本を重石がわりに上におき、ケトルに水をセットしてから洗面所へと向かう。ちらりと見えた玄関に、郁弥のキーケースが見えた。誕生日に合鍵とセットであげたものだった。
 顔を洗って戻ってくると、お茶を淹れてベッドを背もたれにスマートフォンを操作する。昨日わたしが寝落ちたであろう時刻よりもずっとあと、郁弥から『おきてる?』というメッセージが入っていたらしい。いつまで経っても返事がないから焦れて直接来たのだろうか、意外と郁弥はそういうことをする。猫のように静かに部屋に入り、シャワーを浴びて、そして布団に潜り込む。普通気づくよね、という呆れ顔を、最近はもう見ない。いろんなことに慣れてきたんだろう、まったく違う日々を過ごしているようで、わたしたちも。
 ぎし、とベッドが軋んだ。振り向く前に腕がのびてきて、柔らかな髪がすり、と首筋を撫でる。「おはよ」というと、「ふわあ」と欠伸がかえってくる。
「おはよう…………」
 寝起きの掠れた声が、わたしをうしろから抱きしめたままで言う。
「昨日飲み会じゃなかったの?」
「うん、二次会で抜けた」
「おつかれさま」
 後ろの髪をわしゃわしゃ撫でると、ぐでんと体重が乗せられる。やっぱり猫っぽい。可愛いなあなんて、言ったらすこし不機嫌になるからいわないけど。
「あさごはん、たべる?」
「うん」
「どいてくれないとつくれないんですけれども」
「………………」
「おーい、桐嶋郁弥くーん」
 無視を決め込む気らしい。触れる髪から、わたしのシャンプーの匂いがふわりと香る。それがいつもなんだかとても嬉しくて、にやけてしまう自分がすこしきもちわるいとおもう。
 耳の後ろを猫にするように撫でながら再度スマートフォンに手を伸ばせば、後ろから容易く奪い取られた。ふは、と吹き出す。
「かまってほしいってことですか?」
「………………」
「おーい、桐嶋郁弥くーん」
「………べつに」
「ねえ郁弥、かおがみたいな」
「ん」
 腕の力がゆるんで、わたしはくるりと後ろをふりむく。こぼれそうなほど大きな瞳が、朝の光をいっぱいに湛えているのが、とても綺麗だ。ふわりと匂いが近づいて、触れ合うだけのキスをする。胸に顔を埋めると、郁弥のものとはちがう、嗅ぎ慣れた自分の柔軟剤の匂い。
「洗濯機回しちゃいたいからさ、そろそろあさごはんにしよ」
「天気いいもんね」
「郁弥のこれも洗うから」
「わかった、ありがとう」

 繰り返したやりとり、慣れた生活リズム。
 いろんなことが、あたりまえになっていく。それがいいのか悪いのかはわからないけど、少なくともいまは、それが心地いい。