恋じゃないなにか


 それを恋と呼ぶのはたやすかったと思う。

「……誕生日?」
 我ながら露骨に訝しげな声を気にすることなく、雑誌をぎゅっと抱き締めながらあんずは深く頷いた。
 口数が少ない、といえば少々控えめな表現になってしまうくらい寡黙なわりに、その表情は立派に仕事を務めあげている。まるで失敗の許されない一世一代の大イベントを間近に控えたかのような真剣さで、あんずは重々しく口を開いた。
「いまから、準備しようと」
「……何カ月先だと思ってんの?」
 あんずはただふるふると首を振った。知り合ってばかりのころはいまいちわからなかったこの子の表現を、今の凛月なら手にとるようにわかる。
「準備期間は長ければ長いほどいい、って?」
 我が意を得たりとばかりに、あんずはこくこくと何度も頷いた。
 彼女の想い人の誕生日は、まだ何カ月も先だ。

 いつかの放課後、どうしてだったか忘れたが、凛月はあんずと二人きりになった。暑くなってきた夕暮れにうだるような夏の予感を感じながら、凛月はふとあんずに問うた。
「セッちゃんのこと好きなの?」
 別にこれ幸いとその話を持ち出したわけではない。ただずっと前からそうではないかと考えていて、せっかくなら訊いておこうと思っただけの話だ。
 その程度の軽い気持ちの質問に、あんずの顔は真っ赤になった。そのあと真っ青になった。目を見開いておろおろと狼狽える寡黙なプロデューサーの姿は非常に珍しく(凛月は初めて見た)、逆に問いを投げかけた凛月の方が驚いてしまったくらいだ。
「……どう、して」
 絞り出すような声が答えだった。『どうしてわかったの?』
 狼狽えた理由がわからないほど馬鹿じゃない。彼女はあくまで『プロデューサー』で、『アイドル』にそんな私情を抱くなど不適切この上ない。
 所詮高校生なのだから別に構わないだろうと凛月などは思うのだけど、真面目の上に真面目を重ねたあんずのことだ、生まれてしまった想いをどうにかこうにかやり過ごし、蓋をして、学院から卒業するまでの数か月間ひた隠しにしようと決めたのだろう。
 それをあっさり見破られたあんずの顔は真っ青だった。
 ふうとひとつため息をついて、凛月はあんずの顔を覗きこむ。
「どうしてって、あんず、俺のこと馬鹿にしてるの?」
 勢いよく首を横に振る仕草は『してるわけがない』の意だ。彼女の心情をちょっとずつわかるようになってきた自分になんだか苦笑しつつ、凛月は言った。
「俺、結構察しがいい方なの。だから気づいちゃった」
 ナッちゃんもス〜ちゃんも本人も、たぶん気付いてないだろうけどね。と続けると、ようやくあんずはほっとしたように息を吐く。
 ややあって、あんずはぽつりと言った。
「……つよいひとなの」
 凛月はただ黙って聴く。あんずは俯きながらたどたどしく、けれど一生懸命ことばを探す。
「じぶんがどう思われるか、じゃなくて、自分がどう思われてもいいから、その人にとって最善になるように行動してるの」
 だから、好きなの。
 凛月は「そっか」と微笑んだ。

 それを恋と呼ぶのはたやすかったと思う。おそらくそれを恋と呼んで大事にはぐくむ人もいるはずだ。
 けれど凛月はそれを恋と呼びたくなかった。恋よりもっと大事で、恋よりもっといとおしい。
 周りの単純な生徒たちみたいに、こんな大事な気持ちをそんな容易い言葉で片付けたくはなかった。

 だからその言葉は本心だった。
「協力しよっか?」
「え?」
 きょとん、とあんずは目を見開く。
「セッちゃん、3月には卒業だよ。そこまでになんとか距離を縮めておかないと」
 だいじょうぶ、と凛月は笑う。
「セッちゃんがとっとと外にいってくれたら、あんずを責めるやつなんて誰もいないよ」

 大事にしたい。幸せになってほしい。
 自分のいちばん傍にいなくていいから、願う場所でどうか笑っていてほしい。

 他人のために何かをしたいと思うきもち。
 人生で二回も味わえるなんて、そうそう出逢える僥倖じゃない。

 それから時が少し流れて、何カ月も先の誕生日に向けて悩むふたりに声が降った。
「何してんの?」
「あ〜、セッちゃん」
「瀬名先輩」
 ぶっきらぼうな言葉とともに現れた泉を、それぞれ自分なりに弾むふたつの声が呼ぶ。
 ちょうどよかった、とあんずは(そうとは見えない無表情で嬉しそうに)言った。
「あの、借りてたCD、かえしたいです」
「あ〜、後でいいよ。それよりアンタ、守沢が探してたみたいだから早く行った方がいいんじゃない」
「え」
 途端にプロデューサーの顔になるあんずに向かって、泉はしっしと犬を追い払うようなしぐさをする。
「CDはあとでいいから、先に教室の方に行って。俺は学校に残ってるから、用事が終わったら連絡ね」
 こくんと大きく頷いて、あんずは走っていった。後ろ姿を見送る泉の視線はあくまで優しい。
 本人の前では絶対に見せないくせに、と凛月は肩をすくめる。どう考えたって犬も食わない例のアレだ。
 ふと振り返り、泉は「どうでもいいんだけどぉ」と慎重に前置きをした。
「あんずと何してたの?」
 凛月の口角は意図せずしてあがる。

 少しだけの意地悪なら、許されてもいいでしょう?
 だって俺、こんなに一生懸命尽くしてるんだから。

 ふわりと吹いた風を見送り、凛月は笑った。

「……ないしょ」