五月二日、午前二時。


 だれかのことを忘れるとき、にんげんはそのひとの声から忘れていくのだと、そんなことばをきいたのはいつのことだっただろうか。ゆうぐれにかわるほんの直前、あわい空色が透明に染まってほんの少しの橙を帯びる、そんな空を背景にした横顔の表情は犬飼澄晴には見えなかった。へえ、と気のない声で返事をすると、こちらをむいた笑顔は鳩原の顔に貼りついた例の冴えない笑顔で。

 ―――どうでもいいよね。ごめん、犬飼。

「どうでもいいよ、ほんとうに」

 もう電気も消してしまった部屋のなか、ベッドの上に寝転がって犬飼は独り言ちた。すぐそばに放り出していた端末の画面にふれるとディスプレイに灯りがついて、とっくのとうに日付がかわっていたのだということを知る。
 五月二日の午前二時過ぎ。ばか騒ぎを終えてようやく帰宅してきた疲れで、からだがひどく重たい。
『二十歳にもなれば誕生日なんてめでたくもなんともない、ただの平日だ』
 隊室に入ってくると同時に立て続けに鳴らしたクラッカーの、色とりどりの飾りを頭から垂らしながら仏頂面で言われたそんな言葉を思い出す。あのときの二宮よりもいくつか年を重ねたが、生来の性質かそれとも別の理由か未だに誕生日がくるとそわそわするし、祝ってもらうのは嬉しいものだ。頻繁に集まることのできなくなったメンバーの顔や会話、なぜか誕生日でもないのに(犬飼の手によって)顔面にケーキを投げつけられたゾエを思い出して、自然と頬が緩む。
 灯りのついたディスプレイにふれて、パスコードを入力する。寝てしまう前にしなければならないことがあった。だれに強制されたわけでもないし別に好んでしたいわけでもないけれど、それでもやらなければいけない、そんな種類の。
 端末を操作して、連絡先のアプリを呼び出す。下へゆっくりスクロールしながら、知っている名前やもう忘れてしまった名前を辿る。忘れてしまっていればいいとおもっていたのだけど、残念ながら記憶はどうにも正確だ。ただしく名前を探し当てた指先で、そのまま躊躇いもなく削除を選ぶ。

 ―――本当に削除しますか?

 画面に一瞬だけ戸惑って、けれど次の瞬間にはYESを選んだ。
 端末に残されていた鳩原未来のデータは、生真面目に、そしてあっさりと、きえた。


 ひとは二度死ぬ、と何かの本で読んだ。
 一度目は肉体が死んだとき。二度目はそのひとが誰の記憶からも消えたとき。
 ただいなくなるだけですむかと思っていたのだけど、ひとが完全に死ぬのは随分と面倒なんだなと思う。いなくなったひとが死ぬのも同様で、もう戻ってくるはずもないのに七年というながい年月を待たなければならない。法律がそう定めている、らしい。

 鳩原未来が消えてすぐ、彼女が映った写真をデータも含めてすべて消した。
 一年後、数は少ないがもらったものを全部捨てた。

 それ以来、誕生日の日付を跨いでから眠るまでの間に、彼女と彼女の記憶にまつわる何かを消すのが毎年の恒例となった。ゆっくりと鳩原未来の存在をけしていくように。鳩原未来という人間の存在をころしていくように。
 そんな自分だけの儀式を重ねながら、ひとをけすのは、しんだことにするのは、ずいぶんとむずかしいことなのだと知った。
 暗い部屋の中、眩しいディスプレイの奥で消えていった鳩原未来に告げる。

 お前はもうしんだよ。戻ってくる場所は三門のどこにだってないよ。
 だからはやく記憶からも消えていなくなってよ。

 だけど。

 ―――誕生日おめでとう、犬飼。

 鳩原が消える直前にみせた、いつものはりついたような笑顔じゃなくてただ微笑んだ表情も、かたちばかりのはずなのにひどくやさしかった言祝ぎの声も。

 まだしみのようにこびりついている。