白旗
恋愛というのを自分は数多く経験してきたと思っている。
女の子が好きで、楽しい会話が好きで、笑顔を見るのが好きで、触れ合うのが好きで。
たとえ心の奥の奥まで入り込めなくたって、一緒にいれば何かが通じ合ったような気がするのが心地よかった。耳障りのいいだけの言葉をきいて、居心地のいいだけの関係を築いて、ただ表面上で笑いあって。
「そういうのが恋だと思ってたんだよ」
かすかに秋の匂いを運んでくる風の中、入道雲が浮かぶ夏空を見上げながら羽風が言うと、無口のうえに無口を重ねて言葉少ななプロデューサーは、ぽわりと浮かんだ言葉をそのまま口から出したみたいにやわらかなこえで応える。
「自分が恋だと信じるのなら、きっとなんだって恋ですよ」
能天気な声に、なんだか胸が痛かった。
俺の恋は恋といっていいのかわからなくなっちゃったんだ、という心の底からの本音はとても口に出せなくて。
代わりに「じゃあ俺と恋しようよ」と軽薄の鎧に包んだ声でそう言うと、あんずはいつものように「お断りします」とすげなく言って、脱兎のごとく逃げ出した。
唯一の『親友』の男の子は、かつて羽風薫の恋をこう評した。
「かおるのこいは、『やきはたのうぎょう』みたいですね」
そう言いながら水面を撫でた奏汰の手から跳ねた水が眩しくて、羽風は目を細める。
「奏汰くん、難しい言葉知ってんじゃん」
敢えてからかうような口調で言うと、奏汰はむっと唇を尖らせた。
「そんなの『ちゅうがっこう』でならいますよ?」
「そもそも奏汰くん、中学校なんて行ってたんだね……」
現に夢ノ咲高校に来ているのだから、中学校に通い高校生入試を突破し中学校を卒業するというプロセスを踏むのが当たり前なのだが、どうにもこのふわふわした御仁が義務教育を越えてきたところを想像するのは難しい。
機嫌を損ねた親友の、お気に入りのちょうちんあんこうのぬいぐるみを弄びながら続きをうながす。
「で? 俺の恋がなんだって?」
「『やきはたのうぎょう』です」
「言葉が足りなくて全然わからないんだけど」
羽風が思わず苦笑すると、「ん〜」とのんびりした仕草で顎に人差し指をあてる。
「焼き畑農業ってあれだよね。アフリカとかで、一定期間作物を育てて土地がやせたら焼いて別のとこいくってやつ」
「そうです、かおるは『はくしき』ですね〜」
中学で習うっていってたやつは誰だ。
笑って流し、続きをうながす。
「それと、俺の恋のどこが似てるって?」
奏汰は慎重な仕草でクリオネを水に乗せた。ぷかりぷかりと浮いていくそれを、やわらかな目で見守っていた。そのまま穏やかに言う。
「ぜんぶです」
穏やかながらきっぱりと言い切る言葉の強さに、羽風はおもわず黙り込む。
「かおるはひとの『やさしさ』をかてにして、その『やさしさ』がつきてしまってだめになるまえにわらってにげて、ほかの『やさしさ』をさがしてるみたいにみえます」
「…………………」
どきん、と心臓が跳ねた。けれどその当の犯人は柔らかな表情でクリオネを見つめながら、まるで何でもないことを言っているみたいな脳天気さで。
「『えいよう』と『やさしさ』のためにこいをしたって、たぶんきっとなんにものこりませんよ」
何も言うことができなかった。だからせめて用意していたタオルで親友を隠すと、タオルの下からやわらかな声が「『たいよう』のにおいがしますね」と微笑んだから、どうにかこうにかいつもの笑顔を取り繕う。
たったひとりのプロデューサーは、今まで羽風薫が接してきた女の子とは何もかもが違っていた。趣味嗜好、会話のパターン、うれしそうに笑うのがどんなときなのか。それらをひとつずつ知るたびに、どこか普通の女の子からずれたその子が可愛くて、もっともっと知りたくなった。
たとえ心の奥の奥まで入り込めなくたって、一緒にいれば何かが通じ合ったような気がするのが心地よかったはずなのに、触れて、体温を感じるだけでもよかったはずなのに、それさえも必要なかった。彼女の性格を垣間見ることのできる企画書ですら面白く思うのは、さすがに自分でも気持ちが悪いと思ったけれど。
知りたい、と思う。
そばにいたい、と思う。
それをひとが何と呼ぶのか、羽風はよく知っている。けれど今までそう名付けてきた感情とはあまりにも違い過ぎて、恋と呼ぶには違和感があった。恋じゃない。ただすきなだけなんだ。一緒にいられればそれでいいなんて、ばかばかしくて笑われてしまいそうだけど、でも、それだけで。
―――なんて。
(……うそじゃなかったんだけどなあ)
まいったなあと心の中で独り言ちて、教室の窓から噴水を見下ろす。心地よい日差しとあたたかな気温はいかにも水浴び日和で、例にも洩れず深海奏汰がちゃぷちゃぷと噴水に浸かっている。いつもと違うのは噴水のへりに彼女が腰掛けていることで、羽風の胸をもやもやとさせているのは彼女の笑顔が羽風に見せるものとまったく違うという、それだけのことだ。
(付き合ってもないのに、嫉妬なんて)
重たすぎるでしょ、なんて自嘲の言葉は自分の気持ちを軽くなんてしてくれない。地上九メートルの距離からは穏やかな会話なんてきこえないけれど、表情は意外とよく見える。目を細めて屈託なく笑う奏汰と、あんずの笑顔はよく似ていた。言葉をかわせるのがうれしいような、それは、まるで。
前も似たような光景に出くわしたことがある。そのときは苛立ち紛れにごみをぶつけてやったけど、今回はそんな気になれなかった。手元に手頃なごみがないというわけではない、ただその光景を、彼女のために邪魔したくないというそれだけで。
手を伸ばすことすら躊躇うような、そんな気持ちを初めて知った。知りたくなかったとも思った。こんな年になってそんな中学生みたいな恋なんて、格好悪くて仕方ない。
声は聴こえない。笑顔が、とても可愛い。見ていたくなんてないのに目を逸らすこともできなくて、羽風は貴重な放課後の空き時間をひたすら無為に費やしていた。はやく帰ろうとおもうのに、からだを動かす気になれない。
いつか夏空の下、彼女が浮かべた笑顔をおもいだす。自分が恋だと信じるのなら、きっとなんだって恋ですよ。なんでもないことのように言った、あの声をおもいだす。
彼女に言わせれば、これも恋なのだろうか。格好悪くて情けない、こんな、ただ見ていたいだけの気持ちすら、恋と名付けられるべき感情なのだろうか。
頬杖をついて見下ろすだけの羽風に、ふと校舎を仰いだ奏汰が気付いた。まっすぐに視線がぶつかって、屈託のない笑顔がぶんぶん大きく手を振る。きょとんとしたあんずが奏汰の視線を追って、
―――視線が合う。
驚いたように目を大きく開いたあと、口元がふわっと緩んだ。目を細め、まっすぐに上を見上げて、くしゃりとおおきく破顔する。さきほどまで届かなかったこえが、今はただしく耳に届く。
「羽風先輩!」
おおきな声で名前を呼んでくれる、それだけで、こんなにうれしいだなんてばかみたいだ。いつもならそんなふうに思うはずなのに、頭の片隅では確かにそう思っているのにどうしようもなく嬉しくて、そしてまるで負けたみたいな気分だった。
白旗を振るような気分で、大きく彼女に手を振る。
「誰の許可を得ていちゃついてんのって、前も言ったじゃん!」
眼下の彼らにそう言って、いつかのようにガムの包み紙を投げつけた。