アイスブルーを仰ぐ
まだ蕾の、けれどやわらかに花の色を映す枝と雲一つない青空のコントラストを見上げながら、あんずはひとつ息を吐いた。
返礼祭も終わり、めでたく3年生が卒業することになった今日。
英智にはよくわからない言葉で翻弄され、日々樹にはあわや餌になるかと危惧するほど鳩を出され、守沢には背骨がみしみし言うほど抱き締められ、蓮巳には何を泣きそうな顔をしている度し難いと彼の方が涙目の状態で怒られた。
『卒業式』というすこしだけ非日常の、けれどいつもどおりの大好きな日々が今日で最後になってしまうのだということが、ひどく胸に重たい。今日会えた人も会えなかった人も、たくさんの思い出をあんずに残したまま去って行ってしまうのだということがとても理不尽に思えた。
「……せなせんぱい」
ぽつりとひとつ、一番会いたくて一番会いたくない人の名前を呼んでみる。空を見上げるとやわく綺麗な水色で、ああ彼の色だと目を細めた。
いくつもの想い出を残し、無責任にあんずをおいていく先輩たち。何度も嫌味を言いながら、理不尽に怒りながら、それでも決してあんずを見捨てずいつでもどこでも助けてくれたひと。
「……ひどい、ばか、わかめ、前髪バナナ」
「へーえ、随分だねぇ?」
「ひ!」
後ろから聞こえた声に思わず声が裏返った。振り返ると、悪口の相手がにっこりと、いつもは見られない綺麗な笑みで立っている。思わずじり、と一歩下がると「いじめないからこっちおいで」とやわらかい声。
「い、いやです」
「ふうん。先輩の言うことが聞けないのぉ?」
絶対いじめられるじゃないですか! とは口に出せないまま逡巡していると、はあとひとつ溜息をついて瀬名は卒業証書の入った筒でとんとんと肩を叩いた。
「この学校ともおさらばだねえ」
彼にしては珍しく、感傷の沁みた声だった。卒業なんてただのステップアップの過程のひとつってだけでしょう? そんな言葉を予想していただけに、あんずの心にじんと響く。
「……さみしくなりますね」
「そういう社交辞令いらない。ようやっと目の上のたんこぶがいなくなるんだから、喜んだら?」
「いえ……ほんとうに」
さみしいです。
続けようと思った言葉は言葉にならず、震えてくずれてほどけていく。ちらりと瀬名はあんずを見ると、「ばかじゃないの」とやわらかな声で呆れた。
「別に卒業しても死ぬわけじゃないから。様子は見に来るし、ちゃんと嫌味もいってあげる」
「嫌味はあんまり」
「はぁ? 生意気いうようになったよねえ」
自然な仕草で歩み寄って、瀬名はあんずの頭をぐしゃぐしゃと撫でた。ただなされるがままに頭を垂れて俯いて、少しじわりと浮かんだ涙をそのままなかったことにする。
それを自覚したのは、いつのことだっただろう。
小姑かと怒り出したくなるような嫌味や意地の悪い言動に隠されたやさしさを見つけるたびに惹かれた。圧倒的な存在感とパフォーマンス、それらを裏付ける確かな努力を間近で見るたびに心臓が跳ねた。
自覚したのはいつかなんて、そんなことは憶えていない。けれど、ずっとずっと好きだった。
とはいえ高望みをしていたわけではない。叶わない恋であることをちゃんと理解して、それでも傍にいることをあんずは選んだ。
だから自分を憐れむことなんて、一切なかった。一緒にいるだけで幸せで、過ごす時間は飛ぶように過ぎていくのにそれでもすべてが記憶の中に焼き付いて、かわした言葉をきっと全部憶えている。一緒に帰る夕空に映える白い肌、意地悪な言葉に目を剥いたあんずを笑う無邪気な笑顔。頭を無造作にかき回す骨ばった手と、「いい子、いい子」と降ってくるこの上なく優しい声。
この上に、いったい何を望むことができるだろうか。
「あー、あんたの髪さらさらでいいね」
「……ありがとうございます」
生まれてこの方染めたこともパーマを当てたこともない髪の毛は、少しの手入れで素直になってくれて扱いやすい。ぐしゃぐしゃと、少し乱暴な仕草でかき回すように撫でたあと、卒業証書を鞄にぽいと突っ込むと瀬名は優しい手つきであんずの髪を梳き始めた。からまりももつれも少し梳いただけでさらりと通り、そのまま毛先までを撫でていく。
するりと一筋髪をとって、瀬名はにこりと微笑んだ。
「枝毛」
「!」
思わず身を引こうとするも、ぴんと張った髪に邪魔された。猫のように目を細めて「ほんと騙されやすいよねえ」と意地悪く笑う瀬名から、あんずはむくれて顔を背ける。
「先輩、意地悪です」
「最後まで?」
「………………」
「あーあ、また泣く」
「ないてません」
顔を背けたままでいると、「生意気」と頬を挟まれた。強制的にぐいと瀬名の方を向かされ、否が応にも目が合ってしまう。
奇しくも今日の空に似た、どこまでも透明なアイスブルー。
「―――――……」
顔面偏差値でいえばトップクラスの人間達が集まるこの夢ノ咲の中でも、言葉を失うぐらいに整った顔が間近であんずをまっすぐに見ていた。強烈な既視感に頭がくらくらする。
「あんず」と低い声が呼んで、ゆっくり顔が近づいた。ぞくりと背筋を何かが這っていく。
たった一度だけキスをした。
個々人の取材を基にKnightsのイベントの宣伝記事を書くという仕事を任されたあんずは、隙間時間をぬってそれぞれのメンバーの話を聞きとっていた。なかなか捕まらない月永も含め他のメンバーは案外すぐに時間を見つけられたのだけど、モデルの仕事が立て込んでいた瀬名だけはどうしても都合がつかず、どうにか練習前の三十分を空けてもらえた。
ちょうどよく誰もいなかった2年A組の教室で、短い言葉を交わし合う。
「趣味は」
「後輩イビリ」
「ちょっとそれ外聞が悪いです」
「何それ、チョ〜生意気な言い草っ」
「趣味が遺憾なく全面に!」
鼻をぎゅっと掴まれたから思わずあんずがそういうと、「あんた、実はもっとされたいんでしょ」と鼻を引っ張られた。いたいですごめんなさいいたいですと首を振ると、ぶはっと噴き出してから片方だけ口の端を持ち上げ意地悪な笑顔を作ってみせる。
「ブスな顔」
「だれのせいですか?」
「さぁてね〜」
くっくと喉を鳴らして笑い、間近に見つめる顔がふと真剣さを帯びた。笑わないままあんずの目をまっすぐに捉えるアイスブルーに、わずかに映る自分の姿が見える。
何度も何度も繰り返し確認してきたことではあるが、改めて本当に綺麗な顔だなあ―――…とあんずが思っていると、「ねえ」と瀬名があんずを呼んだ。
「俺が今考えてること、なんだと思う?」
「え」
思わぬ質問にきょとんと目を丸くする。
「早くレッスンいきたいな、とか……?」
「残念、ハズレだねぇ」
「明日のスケジュールについてとか……?」
「違ーう」
「……お腹すいたな、とか……?」
「喧嘩売ってるわけ?」
だんだん目元が険しさをおびてきた。こうなったときの瀬名の面倒臭さはキャラの濃い3年生たちの中でさえ群を抜いている。この先一切の言葉に逆らうまいと決めたあんずに対し、瀬名ははあとひとつ溜息をついた。
「わかんないなら、胸に手ぇ当てて考えてみな」
「はいっ」
機嫌を損ねないよう元気よく返事をして、あんずは胸に手を当てて俯き目を閉じる。実は髪の毛を切っていたのだろうか。それともお水を買いにパシらせたいのだろうか。はたまたシャンプーの匂いでもかえたのだろうかいやいや女子じゃあるまいし―――と考え込むあんずの鼻腔を、ふわりとかすめる匂いがあった。
あ、と思った時にはもう目を開いていた。先ほどより間近に迫ったアイスブルーに、自分の間抜けな顔が映っている。
ぽつりと声が囁いた。
「あんた、ムードってものを知らないわけ?」
うんとかすんとか答える前に、骨ばった手が目元を覆った。角度をつけたのか目隠しを器用に避けて、唇がほんの少しだけ触れる。思っていたよりずっと柔らかくて、そしてずっと温かかった。
ふわりと目隠しが外されて、渡した書類を退屈そうに見ながら瀬名は言った。
「料理」
「え」
「趣味ね。料理ってことにしといて」
カロリー計算とかもしてるし、そこからスタイル維持の話にもつなげやすいでしょ? といういつも通りの声に、「あ、はい」と間抜けな声を返す。さらさらとノートに書き込んで、眩しい西日に目を細めた。
たった一度だけのキスは、それから先の関係性に何も変化をもたらさなかった。きっと気まぐれか、あるいはおふざけか、それとも単なる揶揄いか。いずれにせよきっと「あれは何だったんですか」とか「わたしは好きなんですけど瀬名先輩はいかがでしょうか」なんて言葉を言うことさえも無駄な行為で、もしかしたら彼はもう忘れてしまったかもしれない。
でも、と思う。
あんずだけは、その記憶を、その感触を、そのしあわせを忘れない。
たとえこの想いが叶わなくても、卒業してから彼と二度と会うことさえなかったとしても、これからずっとこの想い出だけで一生いきていける気がした。
それなのに。
いつかのように、互いの姿が互いの瞳に映るほどの近さで見つめ合いながら、瀬名はくいとあんずの顎を固定した。
「……せなせんぱ、」
「黙って」
言葉を低く封じて、ゆっくりと顔が近づいてくる。ふわりと香る、いつかと同じ匂い。
「………………」
けれど唇が重なることはなかった。ふうとがりがり頭をかいて、瀬名は目を細め袖であんずの目を拭う。
「……泣くほど嫌だったわけ?」
「………あ」
慌てて目元をこすった。それだけで止まると思いきや、溢れてあとから止まらない。ぽたぽたと涙だけが垂れるので、ごしごし両手で目を拭う。
「ちが、うんです、わたし……」
意味もない否定の言葉をただただ重ねながら、溢れては零れる涙を止めようとぶんぶん頭を振った。
『たった一度だけのキスは、それから先の関係性に何も変化をもたらさなかった。』
ほんとうに?
『これからずっとそんな関係がなくたって、この想い出だけで一生いきていける気がした。』
うそだった。
これからずっとそんな関係がないからこそ、たった一度きりの奇跡だけを胸に抱いて生きていける気がしたのだとそのときようやく理解した。『もう一度』という期待をわずかにでも抱いてしまえば、簡単に崩れ去ってしまうほどの脆い決意だったのだと。
しゃくりあげながら「せなせんぱい」と自分でもうんざりするほどか細い涙声が言った。
「ごめんなさい」
「何が」
「わたし、せんぱいが好きです」
「……うん」
「せんぱいは」
嗚咽交じりに。
「わたしのこと、ちょっとだけでも好きになってくれませんか……?」
瞬間、でこぴんが炸裂した。
「いっ………!」
涙目で額を押さえるあんずに対し、「ばかじゃないのぉ!?」と容赦なく怒号が浴びせられる。
「あんたさぁ、俺がそんなほいほい誰にでもこんなことするとでも思ってるワケ!? 俺のことを何だと思ってんのかなぁ、そんなにいい加減な奴に見えるってこと!? いい加減にしてよ、普通わかるでしょ、俺があんずを好きだって!」
「……………」
気圧されるように一歩下がったあんずの肩を、瀬名は乱暴に抱き寄せた。肩に頭をうずめるようにしながら、囁くような声が言う。
「キスしても何の反応もしないし、嫌とも嬉しいとも言わないし」
「だ、だって……すぐに話が別の方向にいっちゃったし……」
「それから態度が何も変わらないし」
「それは瀬名先輩も一緒です」
「俺のせいって言いたいわけ?」
口調が一気に不機嫌になった。それには何も答えないまま、あんずはおずおずと瀬名の背中に手を回す。