神様のいない街


 たとえば仕事でミスをして上司にこっぴどく怒られたり、部下がやらかしたことを収束させるため奔走したり、妻と喧嘩をしたり、娘と言い合いをしたり。
 日常の域外を出ることのない困難は、あの日を境にまとめて吹き飛ばされてしまった。異世界への門があいたなんていう古臭い三流SF映画のような現実は、降り注ぐ瓦礫や潰れた道路、鳴り止まない警報として私の前に現れた。家族を守らなければならないとおもったし、普段法事でしか会うことのない遠縁の親戚に片っ端から連絡をして、どうにかここを出る手段を模索していたさなか、娘はまっすぐな瞳をして言った。
「わたし、ボーダーに入る」
 それを聞いた瞬間、正気を疑った。娘ではなく、そんな言葉を耳に入れてしまった自分の。娘の瞳は正気そのものであったから。
 私は助けを求めて彼女の隣に座る妻を見た。まっすぐ私を見据える娘と違い、妻はひどくちいさくなって俯いていた。
「どうしてだ」
「みんなを守りたいから」
 賢い子だった。そして臆病な子だった。けして危ないところにはいかなかったし、優等生の枠をはみ出たことのない子だった。そんな娘のことを私は誇りに思っていたし、高校生とはいえその聡明さに感嘆させられることもあった。
 その彼女が、自分からこんなことを言い出す日が来るなど思ってもみなかった。頭がくらくらして、耳鳴りがごうっと低く揺れる。
 言葉を失っている私に、娘は矢継ぎ早に続けた。
「戦闘員じゃないのよ。わたし、たたかうのにはむいてないみたい。だけど、戦う人たちを支援する、その才能があるんだっていわれたの。大変なときだからこそ、自分のやれることをやりたい」
「おまえが」
 喉がからからに乾いていた。誰かのからだにおさまっていたはずの体液がどろどろに濡らす道路。ひとを風雨からまもってくれるはずのものに潰されて、瓦礫の隙間から垣間見えるだれかの一部。泣き叫ぶひと。雨に濡れることさえ厭わずに、もう二度と動かぬと一目見てわかる亡骸の名前を呼び続けるこえ。
「おまえが、やる必要はない」
 娘の瞳に浮かんだのは失望だった。それでもよかった。何度も電話を掛け続け、何度も打ちひしがれそうになりながらも、ようやくきけた「こっちに避難しておいで」という言葉。手に入れたガソリンに非常食。
「お父さんの、卑怯者」
 射抜くような目、鋭い非難の言葉。それでもいい、と吐き捨てた。妻は私を見なかったが、俯いたままぽろぽろ涙をこぼしていた。かすれてきこえないようなこえで「あなた」と呼んだ妻は、幾重にも積まれた感情でもはや身動きができなくなってしまったようだった。
「なんとでもいえ」
 卑怯者と蔑まれてもいい。これから先ずっと、失望と侮蔑の目でみられることになっても構わない。そんなことは重要なことではなかったのだ。私にとって重要なのはただひとつだけ。
 おれは、

(…………なつかしい)

 ゆめをみていた。酩酊の末知らないあいだに眠りについた頭はひどくぼんやりして、からだを起こすと強く痛む。打ち捨てられた家の中、埃のたまった布団を見つけ包まったのはいいものの、底冷えのする一月の気温は穏やかな眠りを許してはくれなかった。
 もう一度目を覚ましてしまったことに、私はひどくがっかりしていた。埃臭い布団は不愉快だが空調など効くはずのない廃墟のなか、唯一頼れるのはこれだけだ。自分の体温を吸い込んであたたかくなった布団が、こんな状況でもひどくありがたいと思う。
 妻は死んだ。第一次大規模侵攻と後に呼ばれたあの惨劇から少し経ち、街が次第に落ち着いてきた頃のことだった。
 妻を殺したのは近界民ではなく人間だった。幸いにも倒壊することのなかった家で、見つかり自暴自棄になった強盗に殺された。私はすべての気力を失い、もはや三門を出ることさえもままならなかった。娘は笑わなくなり、ボーダーの活動にのめりこんでいった。最早止めることもできなかったし、母を失った彼女の、それはある種の復讐だったようにおもう。
 起き上がる。久しく誰も使わなかったマットレスは軋んだ悲鳴をあげた。皺になってはいけないと脱いだジャケットを羽織り、ネクタイを締め、コートを着る。家の中ではたぶんだめなのだと思った。外に出なくてはならない。
 警戒区域内の冬空は、外とかわらず綺麗だった。澄んだ群青色の空には星がちかちか瞬いて、しらずしらずのうちに涙が滲む。
 世界が綺麗であることがつらかった。綺麗なものを綺麗だと感じる、目と脳がいまだ機能していることがかなしかった。
 かみさまなんてものがもしいるのなら、守りたかったもののかわりに、どうか私を死なせてほしいと心底願う。こんな体ごと引き裂かれるようなかなしみに、耐えられるはずもないのだから。
 もう一歩もあるけなかった。声にならない声がしらずしらずのうちに喉からもれて、私は座り込んでしまった。
 その瞬間、知らない声がきこえた。

「おじさん、酔ってる?」

 遠慮のない、若い女性の声だった。顔を上げると、セーラー服の女の子が怪訝そうな顔をしながら私を見下ろしていた。
「ここ、警戒区域よ。入っちゃダメなの、知ってるわよね?」
 責めるような口調だった。自分はどうなんだ、と声が出かかってから、きっとこの子はボーダー隊員なのだと知れた。娘のかつての同胞だ。
「…………ああ、すこし、よってしまって」
 一日ぶりに出した言葉はひどくかすれて消耗していた。それを酒焼けととったのか、眉間に皺を寄せて「あっそ」と言う。ひどく苛立ったような声だった。
「さすがにあたしじゃ運べないわよ。迅、このおじさん運んであげてよ」
 そう言いながら振り返った先に、ジャージ姿の青年がいた。「おれ?」と自分を指差して、こまったようにわらってみせる。
「トリガー使ったらいけるでしょ」
「なんでこんなことで使わなくちゃいけないのよ。いいから、運んで!」
「へいへい」
 苦笑しながら近寄ってきて、「立てる?」と手を差し伸べられた。過ぎたる酒で頭は痛いが、歩けないほどではないし、まして立ち上がれないほどではない。突然の闖入者に驚いて、打ちひしがれた気持ちはどこかへいってしまったようだ。「立てるよ」と断るも「遠慮しなくていいよ」と立ち上がらされた。間近で見た彼の、まるで明るい湖面のような瞳にひどく疲れた顔の自分が映る。
「小南」と彼は隣の少女に呼びかけた。
「悪いけど、一旦戻って嵐山に送ってもらってくれ」
「なんでよ? あたしも一緒にいくわ、そのおじさん、心配だし」
「おれの、…………勘」
 ひどくあやふやなことを言っているわりにその声は自信満々で、それを聞く小南と呼ばれた少女も一瞬顔をしかめただけで「わかった」とうなずいた。
「おじさん、気を付けて帰ってね」
 笑わないままそれだけ言って、彼女は元の道へ引き返していった。風になびいたセーラー服は、娘が着ていたものとおなじだったなと、今更ながらに気がつく。
「さて」と彼が言った。
「おじさん、家どこ?」
「いいや、本当に大丈夫だよ。実はそこまで酔っているわけじゃないんだ」
「いいからいいから」
 にこっと人懐こく笑い、鼻歌でもうたいだしそうな雰囲気で「さむいね」という。そういうわりには薄着だと指摘するか否か、迷った末にしなかった。彼の歩幅は少し大きく、すこしずつ距離は離れていく。背中と、夜空と、星々。
 これは現実だろうか、と不意に思った。ほんとうは私はもう死んでいて、彼の背中についていけば行き着く先は死後の世界で。
 そうであればいいと願った。家にはもう帰りたくなかったから。
「ねえ」
 能天気な声の呼びかけに気のない声でこたえる。振り向いた彼は、無数の星を散りばめた暗い夜空を背負っていた。
 やさしい笑みをたずさえて、なんでもないような声で彼は言った。

 首吊り自殺は失敗するよ。

「自重に耐えられず木の枝が落ちておじさんは助かる。おれの勘はよく当たるから間違いない」
「どう、して」
 喉がからからにかわいていた。『どうしてわかったのか』。その言葉に薄くわらって、彼はまた歩き始めた。
「どうしてボーダー隊員が警戒区域内を巡回してるのか知ってる?」
「………………」
「一番大きな理由はね、死にたくて警戒区域に入ってくるひとを見つけて保護するためだよ」
 荒れた部屋の中、ホームセンターで買ったロープを思い出す。当初は家族との想い出のつまった家のベランダから飛び降りようと思ったのだが、夜にひかる星々を眺め、ぽつりぽつりと灯るあかりをかぞえていると、どうしようもなく泣けてしゃがみこむことしかできなかった。つぎに考えたのが警戒区域内で近界民に殺されることだったのだが、おもっていたより近界民の現れる頻度が低いのか、それとも不運な幸運か、私は無事のままだった。
 どうしてだろう、と嘆いた。
 どうして私だけが死ねないのか。臆病者の怯懦ゆえか。死にたいと願ってもその実なによりも死を恐れ、生に執着するがゆえなのか。
「娘は」
 ぽつりとことばがもれた。吐けば自分を容赦なく損なうための毒がうすれていくとわかっていたのに、もう吐かずにはいられなかった。
「私みたいな臆病者とは違った。四年前、壊滅状態にあった街の中で、誰よりもはやく前を向いた。…………きみたちの仲間だったんだ」
「……………」
「たくさんの人が死んで、母親は騒動の中にんげんに殺されて。それなのに、塞ぎ込むこともなくあの子は前を向き続けた。戦い続けた。私はそんな娘が心配で、あぶないことはやめてほしくて、だけど、あの子が、」

 誇りだったのだ。
 誰しもが傷つき苦しむ街の中で、たとえそれが現実に打ちのめされたがゆえの一種の逃避であったとしても。
 他人のために必死に歯を食いしばるあの子が。
 自分がわらえなくなっても、せめてこの街で生きるだれかの日常を守るために自分の生活をなげうったあの子が。

 どうして。

「どうして死ななくちゃいけなかったんだ」

 三門市やばいですよ。娘さん大丈夫ですか。
 部下に耳打ちされるまで、私はまったく知らなかった。定時が終わり、帰り支度をはじめた頃のことだった。訳がわからずニュースを見ると、体が凍った。
『近界民、襲来。怪我人多数、死者6名』
 娘は何も言わなかった。後に知ったことだが、その侵攻は予期されていたことで、娘も勿論知らされていた。私に何も言わなかったのはどうしてなのか、彼女に問うすべはもう残されていない。
 昼間に送った『悪いが今日は食べて帰る』という連絡を、見ることなく彼女は無惨に殺された。彼女の死に顔は、わずかな希望も感じさせなかった。私の娘は苦しみながら、痛みに悶えながら死んだのだ。母親と、私の妻と、同じように。
「かみさまが、もしいるのなら」
 吐き出すような声が遠くに聞こえた。
「あの子を見捨てる代わりに、おれを死なせて欲しかった」
「……………………」
「あの子が死ぬ必要なんてなかったんだ。おれが死ぬべきだった。あの子はきちんと前を向いて生きていて、誰かを助けることができて、そして…………」
 ぼたぼたと涙が垂れる。御託はもうたくさんだった。もうこの世からいなくなってしまった、たったひとりの家族。誰が何と言おうが守りたかった、娘。もういない最愛の人と、何に代えても守ると誓い合ったかけがえのない子。
「…………おじさんは」
 ぽつりと彼はつぶやいた。
「あなたの娘を救えなかった、かみさまをうらんでいますか」
 か細い声だった。背中に無数の星を背負って、わらっているのにないているような、そんな不思議な顔をして。
 ああ、とおもった。彼もまた、だれかの日常を守るために自分の生活を擲ったひとなのだ、とそのときようやく思い当たる。サバイバーズギルト、わけのわからない侵略者との戦いに身を置く彼等は、きっと守られているだけの私達よりもずっとそれに苦しんでいるのだろう。
 うらんでいる、そう言えたらきっと楽なのだろう。だれかのせいにして、自分は悪くないとそう言って、ただ苦しみや悲しみのなかに安穏と埋もれていれば、きっとそれは幸福だ。
 けれど。
「…………ちがう。それは、ちがう」
 感傷に浸っているのかもしれない、死ぬと決めて、けれど死ねなくて、そんな中途半端な自分が情けなくて、不必要なほど。あるいは酒のせいだろうか。
 ただ。
「おれが許せないのは、おれ自身だ。かみさまじゃなく」
 彼の顔が、泣きそうに歪む。
 似ていたのだ。妻が死に、娘が死んでから、むりやりにでもふたりを連れて三門を離れていたならばと何度も思い、ふたりを殺したのは自分の怯懦だと責めていた、自分の顔に。

 彼の背後を彩る無数の星が、彼の背負う死者たちの魂のように思えて。

「ここまででいいよ」
 きっぱりと言い切ると、青年が何か言いたげに目を細める。このあとすぐに私が死ねば、彼がその背中に負う死者達の仲間入りをするのだということが、なんとなくわかっていた。私の死に彼がひとかけらも介在せず、ただ一瞬すれ違ったのだという、ただそれだけで。
 これからのことなどなにもわからない。予定通り用意したロープで首を吊るかもしれないし、きらきらひかる街の灯りに衝動的に身を投げるかもしれない。あるいは抜け殻のような自分のまま、いきていくのかもしれない。わからないけれど、すくなくとも、すれ違っただけの彼の背負う魂のなかに仲間入りしたくはないなとおもった。
 目を細めていた彼は、やがてあきらめたようににこりとわらう。
「そう。わかった。気をつけてね、おじさん」
 さようなら、会えてよかった。
 そういって踵をかえし、彼は無数の死者が浮かぶ夜空の方へあるいていく。
 さて帰るか、とおもい、ふと娘の言葉を思い出した。『友達に美味しい紅茶もらったから、興味あったら飲んでもいいよ。』綺麗な缶に入ったそれを、そういえば一度も飲んでいないなと気づく。
 生きていくにせよ死ぬにせよ、それを飲んでからでも遅くはないだろう。そう考えて、もうだれも待たない家路を征く。