午前零時の道をゆく
人通りのない午前零時の夜道に、車輪の音がやけに響く。頬にあたる風は日中よりもはるかに冷えていたけれど、微妙な傾斜のまま延々と続く坂道をのぼるにはむしろちょうどいいぐらいの気候だ。ただ無造作に伸ばしただけの長い髪をうしろへとさらっていく風に目を細めて、鞄につっこんだままのスマートフォンのことをおもう。
『借りてた漫画、いまから返しにいくね』
端的に送り付けたメッセージの返事はあえて見ないまま、言うが早いか家を出てあんずは自転車に飛び乗った。返事を見なかったのは、その内容の想像がいともたやすくできるから。こんな時間に女が出歩くんじゃねーよ。今度でいいよ。あぶねえだろうが。
きっとピンポンを押したら呆れ顔で出てきて怒られるんだろうなあ、とおもう。経験則は堅実だ。今度じゃだめなのはわたしだよと心の中で呟いて、あんずはペダルを踏む足に力を入れる。
「こんな夜中に女の独り歩きなんて危ねえだろ」
ため息とともに出迎えた呆れ声は概ね予想通りで、思わずくすりと笑いがもれる。
「自転車だから独り走りだよ」
「かわんねぇよばか」
選りすぐってきた紙袋を差し出して、「面白かった、ありがとう」と言えば「おう」とぶっきらぼうな声が返る。「次からはちゃんと昼に持って来いよな、急がねえから」とも。
あんずが何食わぬ顔で「そうするね」と言うと、何かを言いかけた晃牙はあきらめたように目を閉じてやれやれと首を振った。
「帰るぞ。送ってってやっから」
「え、いいよ。自転車だし」
「独り走りでも夜は危ねえんだよ。鍵持ってくっからちょっと待ってろ」
そう言いながら漫画の紙袋とともに奥へ消えた晃牙は、小さな鍵と上着を持って戻ってきた。自分が着るのかと思いきやあんずに上着を着せかけて「風邪ひくから貸してやる」と胸を張る。
「ありがとう」と言ってほんの少し俯けば、柔軟剤のにおいがふわりと香った。
群青の空にぽかりと浮かぶ黄色の月が照らす夜道に、よっつの車輪がからからと回る軽い音が響く。車通りのほとんどない道はわずかな音すらひびかせるから、自然と声はささやきかわすようになる。
会話の内容は共通の知り合いのことであったり、互いの生活のことであったりと、当たり障りのない、けれどふたりとも楽しめるであろうことだけ。知らない人が会話に現れることも、なんてことない小さな出来事が現れることも、ほとんどない。
自分の自転車を押しながら隣をちらりと眺めると、視線に気づいた晃牙が「なんだよ」と眉を寄せる。
「どうせ歩くならなんで自転車もってきたのかなって」
「歩きだと帰りが遅くなるじゃねぇか」
「じゃあ今も自転車乗った方がいいんじゃ」
「あんずじゃ俺様が漕ぐスピードについてこれねーだろうが」
「どんなスピード出す気ですか」
自転車を押しながら、一歩ずつ。
踏み出す歩幅は違うけど、でもきっと歩みを遅くしてくれているんだろうなあとわかるぐらいのスピードで、一歩ずつ堅実に踏み出す足を眺める。当然だけどあんずの足よりずっと大きくて、羨ましいなあと思いながら見ていると、「あんず」と名前を呼ばれた。
思わず顔をあげると案外真面目な顔があんずをじっと見つめていて、「なんかあったか」と思いのほかやわらかな声にそう問われる。
「え、なにかって、なにが」
「知らねーけどよ。いきなり来るし、さっきから俯いてるし、心配になるだろうが」
まさか靴のサイズを見てたなんて言えなくて笑って誤魔化そうとすると「まあ無理に聞き出そうとは思わねぇけどな」と軽い声が言ったから、なんだか罪悪感が募る。
いっそ何かあればよかったのに、と思った。悩みとか相談とか、そういうなにかがあって会いにきたならよかったのに、ただの衝動だけであんずはここにきてしまったから。
なんとなく言葉を交わさないまま家についてしまったから、エントランスの前で「心配してくれてありがとう」と笑う。
「でもほんとになんでもないんだよ」
「そうか? まあそれが一番だよな。じゃあな、ゆっくり寝ろよ」
そんな言葉とともにくるりと背中を向けてひらひら片手を振ったから、ただ会いたくなっただけだったんだよなんて言葉は胸の奥にしまいこみ、「またね」とあんずは手を振った。
「駄目ねェ」
女の子たちのはしゃぐ声が溢れるカフェの中、アイスティーをすすってから鳴上嵐はそう言った。ふわふわのパンケーキに生クリームをつけながら、あんずはこたえる。
「だめですか」
「うん、ダメダメよぉ。晃牙くんに会いたくて、ぐらい言わなくちゃ!」
「それが言えたら苦労しないよ」
口にいれるとほどけていくようなやわらかい生地と程よい生クリームの甘さを、舌の上で転がしてから呑み込んだ。
「だってずっとともだちだし、今更そういうかんじになるの、晃牙くんいやがるかも」
「そうかしらねェ? アタシはそうは思わないけれど」
甘ったるくなった口の中に、レモンの香るアイスティーがひどく爽やかだ。嵐ちゃんが通う気持ちもよくわかる、と思いながらストローから口を離す。
「だって。晃牙くん、ずうっとかわらないもん」
ずっと。夢ノ咲の校舎に通っていた時からずっと、ふたりの関係性はかわらない。彼はぶっきらぼうに不器用にやさしくて、あんずはいつも関係を変えたくなくて臆病だ。
あっさりと嵐が気付いたようにあんずの気持ちは隠そうとしてもきっと透けていて、だからこそ臆病は加速する。彼が気付いていて敢えてやさしくしてくれているのなら、それを崩そうと試みるのはきっと彼に対する裏切りだ。そんなことはしたくなかった。
「いまの関係が崩れちゃうくらいなら、いまのままがいいんだよ」
あんずの言葉に肩をすくめて、「まあそれでいいならいいんだけどね」と嵐はパンケーキの最後の一口をぱくりと頬張った。
どうにかなりたくないわけじゃない。むしろずっとどうにかなりたくて、でもいまの距離感を手放すこともこわくて、あんずは高校生の時からずっと足踏みをしていた。いまのままがいいんだよ。嵐に問われるたびにそうこたえていたが、そしてそれは決して間違いではないのだが、でも勇気が出ればいいと、ずっとずっと願っている。
願い続けたまま、何年が経ってしまったのだろう。
「………………」
夜十時、すこしだけ酔った自分の顔が鏡の中に映り込む。買い物をして、パスタを食べて、バーでかわいい名前のお酒を呑んで。
たのしい時間だったのに、会話がぐるぐる頭を巡る。
(どうにか、なりたいけど)
ずっと、臆病風に吹かれている。出会って、仲良くなって、恋心を自覚したときから、ずっと。
一生このままでいいのかなんて、答えは決まってる。このままでいいわけがない。いや、真実この関係がずっと続くのであればこのままでいいけれど、この関係は、いつか終わる。
いつか晃牙に大事な人ができたとき、となりはその人のものになり、あんずは。
(そんなの、)
じわりと涙が浮かんだ。ごしごしとぬぐい、鏡に向き直った。化粧をなおし、髪型をなおし、今日買ったばかりの服の値札を切る。嵐が見立ててくれた、Aラインの花柄のワンピース。
それを着て、カーディガンを羽織り、家を出る。自転車の鍵を持っていこうとして、飲酒運転だと諦めた。歩く速度は最初はふつうだったのに、だんだんと早歩きになって、気が急くのにあわせてなかば走るように夜の道を行く。
そのとき、端末が震えた。ぱっと取り出せば、画面にはいままさに向かおうとしている人の名前があらわれていた。
「晃牙くん?」
『あんず、今大丈夫か?』
「びみょうかも」
息が上がってきた。電話の先の晃牙も気付いて、『今外か?』と気遣わしげな声になる。
『したらまた掛け直すわ』
「いや、大丈夫」
はっ、はっ、と自分の息の音が聞こえる。夜はひどくつめたくて、なのに体の中心が火照っているみたいにあつい。
「晃牙くんはいまおうち?」
『あ? ああ、そうだけど』
「三十分でそっちにいく」
『はあ!?』
「そしたらまたあとで」
言うが早いか電話を切って、今度こそスマートフォンをかばんにしまって走りだした。ワンピースにあうとおもった、赤のバレエシューズでアスファルトを蹴って。
さっき鏡で確認したのにきっと髪はもうぼさぼさで、もったいないとはおもったけれど、それより早く会いたかった。臆病風に吹かれる前に、現状をもどかしく思いながらもいつもどおりの安穏に沈んでしまう前に。
すきだって、いいたい。
思い出した。はじめてすきだときづいたとき、あんずは確かにそのきもちをうれしいと思ったのだった。思い出した。優しいところを知るたびに、もっとすきになるたびに、それは、とてもしあわせで。
そのしあわせを、つたえたくて。でも、やさしい彼があんずを傷つけないために、あんずごと遠ざけてしまうのが怖くて。
すきっていいたい、しってほしい、自分がどれだけ晃牙にすくわれてきたか、どれだけしあわせをもらったか。
ひた走る。寒い夜がひどくあつい。頬の冷たさと切るような末端の冷えと、それらを吹き飛ばすような中心の火照りがあんずの足をうごかしている。
大声で、呼んだ。
「晃牙くん!」
走ってきたらしい晃牙はあんずを見つけてぎょっとしたように目を剥いた。途端にいままで走り続けた疲れがどっといきなりやってきて、肩で息をしながら膝に手をつく。からだの芯だけひどくあついのに触れる空気はつめてくて、心臓の音がひどく鼓膜にうるさくて、それなのに、「どうしたんだよ」とおこったような心配なような、そんな声はただしく届く。
「なんかあったか?」
「なんにも、」
ぜえぜえと、息は収まらない。途切れ途切れに言葉を返す。
「ないよ」
「なんにもないわけねえだろ。どうしたんだよ」
ずるずるとしゃがみこんだあんずの肩に手を置いて、そんな声が問いかける。ただしくきもちを伝えたいのに、言葉が、喉が思う通りにならないことが歯痒かった。
肩に置かれた手を掴む。おもったよりも間近にあった、晃牙の顔をまっすぐにみつめた。
軽くきこえればいいと思ったはずの声は、ずっとずっと切実に響いた気がした。
「ただあいたかっただけだよ」
眉を顰めて反射的に何かを言おうとした晃牙は、刹那なにかに気付いたように目を瞠り、口から言葉は出てこない。戸惑ったようにあんずを見つめ、もういちどひらいた口を何も言わずに閉じたから、あんずは臆病風に吹かれるまいと言い募る。
「あいたいだけだよ。いつも、あいたいだけ」
理由なんてないよ。初めて言葉にしたそれは、泣きたいくらいに胸を締め付けていたかった。しあわせなのになきたくなるきもちがなんなのか、初めて知った気がするのに、あんずはずっと知っている。
はっきり言葉にするよりも、伝わることはきっとある。真っ赤な顔をした晃牙の顔の、瞳に浮かんで揺れる感情は、いままでみたことのない色をしていた。