同じ雨の下いきていた
1
何かを失うのはいつだって雨降りの夜だ。
故郷を離れてひとりで特に楽しいわけでもない業務を日々こなしながら生きている今、職にせよ家にせよ代替の利く消耗品に過ぎないから、失って惜しいものなんて何一つない。けれど雨は嫌いだし低気圧は頭を重くして不愉快だ。憂鬱な気分でアスファルトを覆う黒い水溜まりを渡りながら狭い道路のごく近い距離を轟音とともに通り過ぎていく乗用車に舌打ちをする。
造られた仮の身体で街を飛び回っていたのはもう随分と遠い話で、あの時の感覚は思い出せない。重たい己の身体で歩きながら、さらに狭い路地へと入る。このままいけば、家はもうすぐだ。早く帰ってシャワーを浴びて、ハイボールを飲んで寝てしまおう。そう思いながら。
ぴたりと足が止まったのは雨のせいでも再び信じられないスピードで通り過ぎていった車のせいでもなかった。ヘッドライトが撒き散らした光は犬飼の行く先にも及び、眼前の人を照らし出す。
雑に切られた黒髪からぽたりと垂れる雫は、朝からさんざん降り続いていた雨だろう。黒いカーディガンも白いカットソーもぐずぐずに濡れて変色している。犬飼ならば誰にも会いたくないと信じてもいない神様とやらに祈るほどの惨めな姿であるにもかかわらず、その表情は案外とさっぱりしていて。
「…………………」
手から、傘が滑り落ちる。アスファルトと傘が接触する『がしゃん』という音が、やけに大きく夜に響く。
その音に初めて気づいたように、彼女がゆるりと面をあげる。
「―――鳩原?」
口から勝手に漏れ出た声は、思っていたよりずっと小さかった。
目を真ん丸に見開いて犬飼を見ていた鳩原は、やがてふわりと目元を緩め、何年も会っていないことを忘れるほどにあの時と同じ笑顔を浮かべて言う。
「ひさしぶり、犬飼」
口元に貼りついているのは、まるで時が巻き戻ったかのような錯覚を起こすほど、記憶と寸分違わぬ作り笑顔だった。
2
「おふろ、ありがとう」
「うん。おれも入ってこよっかな」
久しぶり、と笑ったかと思えばすぐさま「それじゃ」と踵を返そうとした襟元をひっつかんで「家近所なの」と問うと、わかりやすく目が泳いだ鳩原をむりやり連れて家に戻ってきたのがつい30分ほど前。そもそも犬飼が帰ってきたのも終電だし、今からどこに行きようもない。近くに住んでいたのなら生活範囲が重ならないはずがなく、数年ここに住んでいる犬飼が気づかないはずもなかった。
ほかほかと湯気をあげる鳩原がまとう犬飼のシャツは当然ながらぶかぶかで、半袖からのびる腕は折れそうなほどに細い。高校生の時と同じように、あるいはあの時よりももっと、その体は女性らしい丸みもなくただひたすらに最小限の体積だけを空間のなか占めている。
「適当にしてて」
そう言い置いて入れ替わりに洗面所へと向かう。脱ぎ捨てた服を洗濯機に投げ入れて風呂場へ入り、勢いよく頭からお湯をかぶる。先程鳩原が使った名残の匂いが鼻腔を充たすから、殊更水の勢いを強くした。
ぺたりとした髪にシャンプーを泡立てていく。今日長く残業した分明日の出社は遅めで大丈夫だ。明日こなすべきラインナップを頭に思い浮かべ、問題ないと結論づける。
はてさてこれからどうするか。悶々と悩んだものの結論は出ず、ぶっつけ本番で挑もうと洗面所から出てきた犬飼は「鳩原ちゃん」と呼びかけた。けれど返事が返ってこない。
「えー……」
出て行ってしまったのか、はたまた疲れが見せた夢だったのか。眉根を寄せながらリビングへと歩いていくと、ソファの背もたれに隠れていた鳩原未来の姿が見えた。二人がけのソファに寝転んだ、縮こまるような窮屈な姿勢だ。
そういえばいつもこんな風に寝てたななんて、垣間見えたあの頃の片鱗に思わず苦笑して、出しっぱなしにしていた毛布をばさりと掛けてやり自分はベッドへと向かう。
3
雨降りの夜に何かを失うということに気付いたのは高校三年生の初夏だった。姉との喧嘩に負けて新作のゲーム機を奪われたのも、塾の模試の結果に『自分は頭がいいのだ』という確信を奪われたのも、あの人の一番を奪われたのも、思い返せば全部、雨の夜のこと。
なんでも器用にこなせるという自負があった。けれど犬飼は器用なだけで、こなせるだけで、頂点を極めることはできない。決定的な挫折や転機はないまま、その器用さゆえにゆっくりと自分の限界を理解していった。腐ることもなく、その現実を受け入れた。それは、ボーダーでも一緒だ。
技術においても戦略上の重要性においても犬飼の及ぶはずもない精密狙撃のスナイパーは呑気な顔で隣を歩きながら、コンビニで買った棒アイスを食べている。
「鳩原ちゃん、こないだの東さんのログ見た?」
「あ、見てない。どうだったの?」
「すっげー変態だった」
「その、スナイパーに対する褒め言葉として『変態』を選ぶ風習、どうにかなんないかなあ」
鳩原ちゃんも変態じゃん、というと、すごく不本意そうな苦笑いが返ってくる。「勘弁してよ」と言いながら、がり、と大きく一口齧った。
「そういえばさ」
話題を変えた犬飼を、鳩原はきょとんと見つめる。
「今度ゾエがみんなでご飯食べようってさ」
「銃手で?」
「ううん、おれらの代で。カゲんち。国近ちゃんとか今ちゃんも来れるってさ」
「楽しそう」
「楽しいよ」
いいなあ、と言いながら、鳩原は大きく一歩を踏み出した。
「え、いくでしょ」
「ううん、いけない」
「日付もきいてないのに?」
「うん」
一歩先から振り向いて、鳩原はにこりと笑った。質感の重い夏みたいな白い雲と、春の茫洋とした青よりもなお濃い空と、太陽の強い光を背景にして。
「あたし、いけない」
明るい声が静かに告げる。ごめんね。
ごめんね、犬飼。
夢と同じ声が現実で聞こえた。唐突に夢から引き上げられた現実は確かさを欠いていて、ふわふわと落ち着かない。片方だけあけた左目を朝の光が刺して、白い光に浮かび上がるように鳩原未来の顔が見える。
考えるよりも先にその腕を掴んだ。白い光のなかでぼやけた鳩原は驚いたように目を見開いて、けれどまぬけな声で「おはよう」と言う。そういえば挨拶はきちんとする奴だった、とどうでもいいことを思い出しながら「おはよ」と言葉を返すと、ほっとしたように笑う。
「起こしちゃってごめんね。一応7時だし、仕事あるかもって思って」
「あー……」
8時に起きても間に合った、とは言わない。なんだかいい匂いがする気がしてくんと匂いを嗅ぐと、小首を傾げて鳩原は犬飼をうかがう。
「ありものでご飯つくったけど、よかった?」
「うん、むしろたすかる。ありがと。おれ、顔洗ってくる」
そう言って、犬飼は洗面所へと向かう。ばしゃばしゃと勢いよく水で流して、ついでに寝癖も濡らしておいた。寝間着のままリビングへ戻ると、ソファの前においた丸テーブルの上に、いくつかの品が並べてある。おととい買っていたロールパンがふたつずつ、コンビーフの入ったスクランブルエッグ、冷凍庫の底から発掘してきたらしいブロッコリー。マグカップに入っているのはインスタントのコーンスープだろう。
自分で適当にやるのと全然違った出来映えのテーブルに感嘆しながらソファに座る。基本的に自分ひとりで暮らすことしか想定していないこの部屋で、誰かと一緒に朝ご飯を食べるのは初めてだ。
「いただきます」と手を合わせて、コーンスープをすする。基本的にお湯を入れすぎて薄くなる犬飼とは違って、どろりと適度に濃厚だ。スクランブルエッグを口に入れると、バターの風味と黒胡椒が程よく香る。
「おいしい」
「それならよかった」
犬飼の言葉に、鳩原はへらりと笑った。そのゆるい表情とは裏腹に、食べる仕草はてきぱきと効率的だ。要領がいいとはお世辞にも言えない奴だったが、焼肉のときや掃除のときは妙に動きが素早いなと感心したことを思い出す。
「あいかわらずご飯食べんの早いんだね」
「え」
2個目のパンを頬張りながら鳩原は意表をつかれたみたいに目を丸くする。
「そうかな」
「そうだよ。高校の時も言ったじゃん」
「おぼえてない……そうだったっけ」
「そうだよ」
よく覚えてるね、と言いながら2個目のパンを食べ終えて、残っていたコーンスープを片付けにかかる。いつの間にやら皿の上にはもうブロッコリーもスクランブルエッグもない。
「犬飼は今日何時に出るの?」
「んー、9時ちょい前くらいかな」
「じゃああたしも……」
言いかけた言葉を遮った。
「かえるとこ、あんの?」
「…………」
帰ってこない声が答えだ。鳩原が言い訳を考える前に言い募る。
「それなら、しばらくここにいなよ。おれ、仕事あるから、その間家事とかしてくれたら金とかとらないし」
「えっ」
「ここに、いて」
有無を言わさず、という圧を与えたかったはずの声は、予想に反して懇願の響きを持っていた。けれど鳩原には案外こちらの方が効くかもしれないと思いながら、ぐっと顔を近づける。
「……彼女とか、おこんないの」
ごく近い距離で、問われたのはそんな些事だった。被せるように答える。
「いないよそんなの。紹介してほしいぐらいなんだけど」
「…………」
ここまで来れば押し勝ったようなものだ。鳩原未来は観念したようにこくりとひとつ頷いて、「ごめんなさい、お世話になります」と頭を下げた。
4
押しに弱いように見えて自分の意思が強いというのが鳩原未来という人間で、ボーダーで一緒に過ごしたあの頃、鳩原未来が意思を曲げたことなどおそらく一度もなかったんじゃないかと思う。遅めの出社をし、期日の迫る仕事を片付けて、まだ余裕のあるものの準備だけして犬飼は5時で上がった。フレックス勤務は便利なもので、その恩恵を大いに得ている自覚がある。
朝、お世話になりますの一言を犬飼が引き出したあと。洗い物を終えた鳩原は、「じゃあ今日から晩ごはんの用意してもいいかな」と言った。
「いいよ」と答えると、「何が食べたい?」と続けての質問。まるで新婚みたいな言葉のやりとりと、そんな甘さがかけらも滲まない業務的なやりとりがおかしくて、思わず吹き出してから「ハンバーグ」と言った。
「和風ハンバーグがいいな。あと、お味噌汁飲みたい。和食めんどくさくってさ」
「わかった。といってもつくるのあたしだから、期待はしないで」
「するよ、しまくるよ。朝ご飯うまかったし。てかブロッコリーとかコンビーフとかさ、よく見つけたよね」
「ごめん、家捜しした」
責めていない、むしろ褒めているのに居心地悪そうに肩を小さくする癖はかわらない。とりあえずこれ渡しとくねと財布から3000円を出すと、困ったように笑いながら受け取った。
(……いる、かな。それともいないかな)
まだ明るい夕暮れの街を歩きながら、犬飼は思案する。多少強引に言い含めたが、高校の時とかわらなければ鳩原未来の意思は強いし、善良ではあるが嘘をつかない人間ではない。その場を適当に乗り切って、 犬飼がいなくなればハイさよならといなくなる可能性だって十二分にある。むしろ、そっちの可能性の方が高そうだ。
昨日鳩原を見つけた路地に入り込み、自分の家へと向かう。もう鳩原がいなくなっているとすれば急いだとしても無意味だが、それでも足が早まるのは人情というものだろう。自分の家の前で深呼吸をしてからチャイムを鳴らし、しばし待つ。
(……出ない)
鞄からキーケースを取り出して、がちゃりと鍵を回す。隙間を空けたドアから見える景色は暗く、人がいるとは思えない。「鳩原ちゃん」と呼びかけながら革靴を脱ぎ、三和土に揃える。
その時にはもう家の中に人の気配なんかひとつもないことがわかっていて、しゃがみこんだ姿勢のままで「はとはら」とささやく。自分の膝、スーツの生地を見ながら、昨日と今朝交わした言葉を思い出す。
はてさて、あれは現実だったのか。
それとも仕事疲れが見せた夢だったのか。夢だとしたら、何の願望が、何の未練が、犬飼にあの夢を見せたのか。昨日まで当たり前のようにすぐそばにいた彼女が、さよならさえもできないまま眼前から消えてしまった十八歳の誕生日の気持ちをそのままそっくり思い出しながら、玄関で膝を抱えて大きく息を吸って、吐いた。呼吸をした瞬間心臓が氷のように冷えきって、冷たい血液が循環しはじめる。
名前を、ささやく。
「……はとはら」
「えっ」
答えるはずもない呼びかけに、答える人がいた。弾かれるように前を向くと、ドアの前に立った鳩原未来が「体調でも悪いの?」とおろおろと問うてくる。
「……はとはら、おまえ、どこいって」
「えっ、だって」
座り込む犬飼を見下ろしながら、少しだけ瞳に非難の色が混じる。
「お味噌汁つくって、とかいうからお味噌あるのかと思ったら、なかったし」
「……あるよ」
「あったけどゴムみたいになってたよ。いつからつかってないのかこわくて新しいの買ってきた」
「……そっか」
へにゃ、と力が抜けてしまった。冷たい血が心臓を通して全身を巡っていくような気がしたのに、まぬけな声がそれらをすべて溶かしていく。
「そっかぁ……」
「そうだよ。お味噌汁つくるから少し待ってて」
「うん」
ありがとう。
座り込んだまま、万感の思いをこめて囁く。ここにいてくれてありがとう。いなくならないでいてくれてありがとう。いっしょにいてくれて。
けれどそんなこと露ほど知らぬ鳩原は、「居候の身ですから」と苦笑した。
5
それからの日常は驚くほど自然と流れていった。朝起きたら出来ているあたたかい朝ごはんを食べて、鳩原としょうもない会話を交わし、仕事に行って帰ってくる。ご飯を食べて寝るまでの時間をテレビと会話で埋めて、日付がかわる頃には寝て。
何もかもが違うことはわかっている。けれどまるで十七歳の日常が帰ってきたようで、その現実味のなさにぬぐいきれない違和感をおぼえながらも日々はただ平穏に過ぎていく。
「今日の晩ご飯はなにがいい?」
毎日投げかけられるそんな言葉に、ジャケットを羽織りながら今日の犬飼は答えた。
「竜田揚げ」
「わかった」
こくりと素直に頷いて、「いってらっしゃい」と手を振る。そのまま出て行こうとして、ふと思いついて鳩原を振り返った。
「今日さ、たぶん早めに帰れるから酒飲もうよ。おれ、適当に選んでくるから」
十七歳の自分たちではできなかったことだ。きょとんと目を丸くして、けれどへらりと緩ませて、「いいね」と鳩原はわらった。
「苦手なやつとかある?」
「とくにはないかな。ビール、すきだよ」
「はいはい」
頷きながら背中を向けてひらひらと手を振る。駅の道すがら、すべき仕事を手早く終わらせる算段を立てながら、今日は珍しいクラフトビールもおいているリカーショップに寄って帰ろうと考えた。それと、もしあれば鳩原とよく食べながら歩いたソーダ味のアイスも。
終わったはずの日々の、延長線上に生きている。あの頃交わした言葉も声にしなかった言葉も、今の自分達のなかに在ることを、今更のように犬飼は知った。
「かんぱーい!」
声を合わせてビールの缶をぶつけ合う。テーブルの上には竜田揚げをはじめとする料理が色とりどりに並んでいて犬飼の食欲をくすぐる。まずは、と口に運んだ竜田揚げは醤油と生姜の風味が香り、頬張ると鶏もも肉のジューシーな肉汁が溢れ出る。ついで口に運んだオニオンスライスは、しっかり水にさらしたらしく辛味も抜け、ちょうどいい塩味が口に心地良い。はあ、と息を吐きながらビールに手をかけ一気に煽ると、苦みの強い炭酸が喉を通り過ぎていく。
「うま!」
思わず口から飛び出たそんな言葉に、「どうもありがとう」と鳩原は微笑んだ。にら玉、大根の味噌汁、白菜の浅漬け、胡瓜の辣油和えと豊富なメニューをつまみながら、犬飼は言う。
「鳩原の料理ってそれらしくないよね」
「まずい?」
「違うってわかっててきいてるでしょ。なんていうか、主婦みたい」
今まで付き合った女の子に手料理を振る舞ってもらったことはいくらかあるが、それらはたとえばおしゃれに盛り付けたパスタであるとかハンバーグであるとか、あるいは露骨に男受けを狙った肉じゃがなどで、鳩原のつくるご飯のように毎日食べても飽きないものではなかった。
「褒めてるからね」
微妙な顔をした鳩原に釘をさすように言うと、「ありがとう」といささか納得のいかないような顔で頷く。そういえばユズルにも同じこと言われたなあ、とひとりごとのように小さな声で鳩原が言った。
「へえ。そういえばよくご飯作りにいってたよね」
「うん。なつかしいなあ…………」
隣に座る鳩原は目を細め、一度ゆっくりと瞬きをした。ほとんど目を閉じるみたいな仕草に、彼女の睫毛が長いことを改めて思う。かりそめの体で街を駆け回り異世界からの侵略者と戦っていたあの頃は今は何かの悪い冗談みたいに遠いのに、一度目の前から消えた彼女がごく自然に隣にいることがただ不思議だった。まるでいつか見た夢の話をするみたいに、犬飼は呟く。
「二宮さんて、焼き肉好きだったよね」
「にのみやさん」
まるで小学生の頃に読んだ長編小説の登場人物の名前を呼ぶような発音で鳩原は言って、くすりと笑った。そうだね。なつかしげな声に、会話に出すのは不正解じゃなかったんだ、とほっとする。
「お祝いのたびに焼き肉だもんね」
「A級に昇格したときも、誕生日のときもだったよね。でもおれ、二宮さんのおかげでホルモンいけるようになったかも」
「あ、そういえば最初はホルモンだめだったよね。気持ち悪いってすごい拒否」
「だってあいつら見た目からして食えないじゃん。好きだけど」
「好きなんじゃん」
「今はね」
当たり前だけどふたりの記憶は一緒だった。二宮のこと、辻のこと、氷見のこと。同い年の隊員のこと。なんとなくふたりとも避けていた過去の記憶を話すことは思っていたよりもずっと楽しかった。十七歳の日々、楽しかったこと、嬉しかったこと、悔しかったこと、悲しかったこと。遠い故郷においてきたはずの思い出は言葉にするたび湧き水のようにあふれていく。
ビールを一息に飲み込んで、鳩原は目を伏せるように笑った。
「ほんとにいろいろあったね」
「ね。なんでわすれてたんだろ」
「忘れなきゃ生きていけないからじゃないのかな」
そう言いながら眠たげに瞬きをする横顔を眺めながら、不意に胸が苦しくなった。忘れなければ生きていけない。犬飼だって再会するまで鳩原のことを思い出すことはほとんどなかった。思い出すたび痛いから、三門の街を離れるときに、忘れると決めたのだ。精密狙撃のやさしいチームメイトを。人を傷つけることのできない女の子を。遠回しの自殺のように飛び立った鳥のことを。それにまつわるすべてのものを。
忘れると決めたことを間違いだとは思わない。異世界からの侵略者のいない、人間の街で生きていくために必要なことだったと今でも思う。たださみしいとおもった。あの頃を忘れていたことが。あの雨夜、ヘッドライトの先に鳩原未来がいなければ、それらは一生忘却の彼方に追いやられ、二度と思い出さなかったかもしれないということが。
『忘れなければ生きていけない』。それは正しいと犬飼も思う。だけど、とビールの缶を握るとぺこりと少しだけへこんだ。大人になれば気持ちを語る機会なんてもうなくて、本音みたいな建前と本心みたいな与太だけで大概の会話は成り立っている。
だけど言わなければ一生後悔すると思った。声が、震えた。
「はとはら」
目の前の女はきょとんと犬飼の方を見た。「なに?」と答える脳天気な声に、犬飼は言う。「忘れなきゃ、生きていけないけど」と震える声を押し隠す。
できたら一生そばにいてよ、と言った声は思っていたよりもはるかにか細かった。
「もう二度と、わすれたくないから」
鳩原は目を見開いた。ぱちぱちと二度瞬きをして、そしてくすりと微笑む。
「なにそれ」
「茶化さないで」
ぴしゃりと言うと、鳩原の顔から笑顔が消える。ふとカーテンの向こうから、窓を叩く雨音が聞こえはじめた。天気予報は雨なんていってたっけ、と思考の端で考えながら、俯いた鳩原をただ見つめる。
ややあって顔をあげた鳩原は、やわらかな微笑みを浮かべていた。
「わかった」
不意に泣きそうになって、今度は犬飼は俯いた。言葉が詰まって何も言えなかったけど、ただ心の中で何度も何度も祈るように言った。親友とか恋人とか、肩書きはなんだっていい。一緒にいたい。もう二度と、おまえのこと忘れたくないんだ。だから、どうか。
その夜、犬飼は初めて鳩原と同じベッドで眠った。あたたかな体温を微睡みのなかに感じながら、窓越しに響くやわらかな雨音をずっとずっと聴いていた。
6
設定された目覚ましがけたたましく朝を告げる。ゆっくりと目を開いて、犬飼は鳩原の姿を探す。何度も嗅いだ朝ご飯の匂いを探す。けれど冷たい朝の空気ばかりで、犬飼は顔を歪めて起き上がった。冷たいフローリングを踏みながら歩いた部屋は彼女の面影なんて何もなく、まるで昨日までの日々は夢みたいだ。
もう二度と、わすれたくないから。昨日自分の口から出た言葉を反芻する。わかった。彼女の言葉を反芻する。
犬飼澄晴は忘れたくなかった。鳩原未来は忘れたかった。
きっとそれだけの、つまらない話だ。
「だからきらいなんだよ、雨なんて」
呟きながらカーテンを開く。彼女が飛び立った日は、決まって抜けるような青空が広がっている。