つかのま、きみのてのひら。
1
魔法舎の日常がただ平穏に過ぎていく中、あまりにも唐突にそれは起こった。賢者の耳がきこえなくなってしまったのだ。ネロがつくったシュークリームをにこにこ嬉しそうに食べていた、その次の日のことだった。賢者を起こすために部屋を訪れたヒースクリフが、泡を食ったようにフィガロの部屋の扉をどんどんと激しく叩いていた、ひどく騒々しい朝だった。
何かの病気か、はたまた毒か。賢者の身体を一通り診たフィガロはいつもの飄々とした口調で「どちらでもないね」と断定した。
「おそらくストレスだろうってことくらいしか言えないな。なおるかどうかも未知数だ。ただ当面は無理は禁物、できるだけ平穏な生活を送らせてあげよう」
フィガロの言葉を理解しない賢者は、困ったようにただにこにこと微笑んでいた。
それからの日々の変化は各国から依頼を引き受けた賢者に同行することがなくなったくらいで、元々気ままに魔法舎にいたりいなかったりするオーエンには特にかかわりのないことだった。南や中央の小さな魔法使いは彼女に花束を贈ったり一緒に遊んだりといろいろ心を砕いていたし、他の魔法使いたちもあきらかな気遣いが感じられた。もちろんスノウやホワイトを例外とした北の魔法使い以外は、ということだけど。
耳が聞こえなくなっても彼女は相変わらず例の間抜けな笑顔を絶やさない。それがオーエンにとってなぜか不快で、魔法舎からは一層足が遠のいた。
その一方で、赤髪の律儀な騎士はオーエンに会うたびに彼女の容態について訊いてもいないのによく喋った。まだ彼女の耳は聞こえない、中央の国の医師にもみてもらったが匙を投げてしまった、まあフィガロがわからないくらいだから当然だとは思うが。でも晶はこちらがやきもきするくらい元気で、いつもにこにこ笑ってるんだ、なんて、返事をしなくても延々とひとりで喋っているものだから、オーエンはその口を縫い付けてしまおうかなんて思う。
たまには会いにきてやれよ、晶だっておまえに会いたがっているんだ。そんな言葉をおいて去っていく後ろ姿に雪玉を投げつけたが、ひょいと軽くよけられたのでオーエンはますます不機嫌になった。
その次の日オーエンが魔法舎を訪れたのはカインの言を聞き入れたのではなく、ただ無様な賢者を笑ってやろうと思ったからだ。きこえない耳にありったけの呪いと侮蔑の言葉を流し込んでやりたいと思っていた。だけど魔法舎に到着した瞬間すっと気持ちが萎えて、賢者なんかに会いたくないと踵を返して裏庭に回った。
会いたくなかった彼女は、日のよく当たる裏庭で芝生の上に座り込んでいた。ちちち、と鳴きながら遊ぶように飛び回る小鳥を眩げに見つめて微笑んでいる。
彼女はよく猫や鳥とお喋りをしていた。もちろん獣と獣の言葉を理解しない彼女とではきちんと会話として成立してはいなかったけれど。「おなかすいた」「きょうはあったかくて昼寝日和だねえ」「パン屑をちょうだい」「明日も晴れそうだね」なんてまぬけな会話が滑稽で、遠くからよく見ていた。オーエンに気付くと彼女は「ギャッ」と悲鳴をあげて、見てたんなら声かけてくださいよ恥ずかしい! なんて大きな声で怒った。
今はもう会話はなく、飛べない一羽の小鳥のように彼女は何もかもを諦めたような笑顔で空と小鳥を眺めている。オーエンはゆっくりと後ろ姿に近付いて、ごく近くに腰を下ろした。気付いた彼女はびっくりしたように目をまんまるにして、でもにっこりと微笑んだ。いつもならきっと弾んだ声で「オーエン」と馴れ馴れしく名前を呼んだだろうけど、その耳には自分の声すら届かないから喋ることもできない。可哀想だな、と平淡に思った。
だからオーエンは歌った。彼女の耳には届かない声で。小鳥が応えるように声を重ねた。踊るように飛びはねながら、この上なく幸せそうに。歌いながら彼女の肩にとんと体重を預けると、彼女もオーエンにその肩を委ねた。そしておそるおそるといった様子で手を伸ばしたので、その手をつかんで喉に触れさせてやった。耳が聞こえなくても触覚が失われていないなら、音は振動に感じられるはずだから。しっとりとつめたい手はすこしだけ震えていて、一瞬だけ彼女は泣きそうに顔を歪めた。
だけど涙はこぼれなかった。そのかわり、彼女も歌をうたった。久しぶりに出しただろう声は掠れてひび割れて、音量も音程もまるで不適切だった。オーエンが今まで聞いた中で一番ひどい歌声だった。あんまりそれがひどかったので、オーエンはくすくすと笑った。
「ひどい歌だね」
どろどろのクリームよりも甘い声でささやくと、彼女はとろけるような笑顔を浮かべる。オーエンの歌と小鳥のさえずりに、彼女の声が醜悪に重なる。
聞くに堪えない二重奏は、おひさまが山の向こうに沈んでしまうまで続いていた。夜の帳が落ちるまえにオーエンは賢者の手を引いて、帰るべき場所へと導いた。それはまるで死体のようにつめたい手であった。
彼女が視力を失ったのは、その夜のことだった。
2
物音一つしない夜明けの魔法舎は、まるで墓場のように静まりかえっている。猫のように静かに部屋に入り込んだオーエンは、ベッドですうすうと丸くなって眠る賢者を揺り起こした。かすれた声で唸っていた賢者が身体を起こすと、腰を引き寄せ立ち上がらせて、その手を引いて歩き出す。
足音がやけに大きく響く。五感のうちの二つを失ってオーエンに問いかけることも表情を窺うこともできない賢者は、それでも特に戸惑うことなくついてきた。
きみを逃がしてあげる。彼女には届くことのない声でオーエンはささやいた。魔法を使えばその痕跡をたどられてしまうから、どこまでも歩いていくつもりだった。そして魔法舎の建物を出たときに、ばったりとミスラに出くわした。眠たげな顔でがしゃがしゃ頭をかきながら、面倒臭そうにミスラは問う。
「あれ、こんな朝っぱらからどこにいくんですか」
「おさんぽ。朝日を浴びれば回復するかもしれないからって」
「はあ、そうですか」
見られたのがミスラで幸運だったな、とオーエンは思った。こまかいことを気にしない。オーエンと賢者をちらりと見て、ミスラは「それじゃあ俺は寝てきます、どうせ寝られないけど」と空間の扉の向こうに消えていった。誰にも悟られていないのを確認して、オーエンと賢者は帰る道のない片道の旅を踏み出した。
彼女は本当に何も言わなかった。何かを訝ることもなく、怯えるわけでもなく、ただオーエンに手を引かれて日々歩き続けた。だからオーエンも何も言わないまま手を引いて歩き、食事を手ずから与えてやり、夜は彼女を抱きしめて眠った。しっとりとつめたい手は片時も離れることはなかったが、温度はいつでもかわらなかったから、ひょっとしたらこれは死体なんじゃないかと疑いもした。だけど甘いものに顔を綻ばせ、水を与えれば従順に嚥下し、横になって抱きしめれば数分後には穏やかな寝息をたてる彼女は死体とは到底おもえなかった。―――あるいはよくできた死体だった。
歩き続けながらオーエンの見た世界はきらいなものに満ちている。たとえば曙光に照らされて赤色にきらめく朝露のひかり、雨粒の滴る木々と雨上がりの澄んだ空、緑萌える春の芽吹き。
彼女の声もきらいなもののひとつだった。弱いくせに、何も知らないくせに、臆面もなくきれいごとばかりを口にする。耳障りなその声を二度と聞かずにすむように、その口を縫い付けてやろうかとおもったことは一度や二度ではすまなかった。
(だけど)
オーエンは後ろを歩く女をちらりと見遣った。目を閉じて、ただ自分の手を引くオーエンの手だけを信じている愚かな人間の顔にはなんの不安も恐怖も浮かんでいない。いつかオーエンの喉に触れた手は、かわらずずっとしっとりとつめたい。
(あの日の、うたは)
目を閉じて、オーエンはあの日を思い出した。たのしげな小鳥を、とろけるような笑顔を、戸惑いながらオーエンに触れた細い肩を、きらきらとひかる葉々の隙間から覗いたやさしい木漏れ日を。
すべてがやさしかったあの空間にひびいた、きらいな声の持ち主の、音程のはずれたあのひどい歌は。
「きらいじゃなかったよ、『賢者様』」
3
昼も夜もわからずにただひたすら暗闇のなかを歩き続ける夢の中みたいなうつつから、抜け落ちるように夢を見た。慣れ親しんだ、だけどもうよく思い出せない魔法舎の一室、朗らかな笑顔で「きみは呪われたのさ」とフィガロは賢者に言った。
「呪いだよ。ひどく迂遠な呪いだ。きみは自分自身に呪われたんだ。もう何も聞かなくても、何も見なくてもいいように」
きこえなくてもきこえているでしょう。まるで謎かけのようなことを言って南の医者は椅子の背もたれに体重を預け、だから話すよ、耳に痛いかもしれないけれど、と微笑む。
「訳のわからない世界に望まず連れてこられて、日々を楽しく過ごしながらもきみの心はひび割れた。帰りたい。でも帰れない。周りはきみを褒めたたえ、自分達を救ってほしいと身勝手に願う。きみは神様じゃないし、瞬きほどの命しか生きていない人間だ。帰りたくなるのも道理だよ。だけどかなしいことにきみはただの人間であると同時に責任感の強い女の子だった。だから呪った、自分自身を」
助けを求める声も、自分を利用しようとする甘言も。
何もきかなくていいように。
「逃げたいと願うきもちと、逃げたくないと願うきもち。きみはふたつに引き裂かれてなお、この自家撞着に苦しんだ。何もきこえないというそれだけではまだ不十分だったんだ。だからきみはさらに呪った。もう何も見なくてもいいように。……かわいそうにね」
軽やかな声に、彼女はかえす言葉を持たない。フィガロはやわらかに笑う。
「きみの視力や聴力には何の問題もないけれど、それらの情報を処理する機能が塞がれている。体系づけられた呪いじゃないから、むりやり解けば絡まった糸を引きちぎるみたいに、きみの感覚は永遠に失われてしまうだろう。試してみてもいいけれど、多分ミチルもリケも泣くからあまり気が進まないんだよ。長くは待ってあげられないけど、少しくらいならきみに時間をあげられる。
……きみが自分を赦せるといいね」
彼女はゆっくりと身体を起こした。自分の手をずっと引いてくれていた人は、まるで棺に眠る貴人の死体のように白くはかなくうつくしい。薄明の空は淡い群青と薄紅のグラデーションに染められて、ああきっとこれは夢なんだな、と彼女は思った。こんな景色が現実にあるわけがない。ほんのりとあかく染まる白磁の頬に触れながら、これが死後の世界ならどんなにいいだろうかと考えた。あなたに手を引いてもらえるなら死出の道だってわるくはない。きっと楽しい旅になる。
最後に残された夢を見るために彼女はひんやりとした手を握り、横になって目を閉じた。
4
「どこまでも、あるいていけたらよかったね」
5
あの日から醒めたオーエンは、己の腕の中に彼女がいないことに気がついた。彼女のいない腕の中はつめたくじめじめ湿っている。彼女は目の前にぼんやりすわっていた。オーエンのきらいな朝の光に照らされた横顔はひどくさみしくうつくしかったから、ああ、もうおわりなんだってわかってしまった。
「賢者様」
オーエンがそう呼びかけるとさみしい彼女は世界でひとりぼっちの賢者になって振り返り、そしてやわらかな顔で微笑んだ。
「かえりましょう、オーエン」
もう手を引いて歩かなくてもどこまでも歩いていける賢者様は、オーエンのきらいな声でそう言った。