つないだおもいでいきている


 カーテンの隙間から差し込んだ月の光が青く室内を照らし出す。夜も更けて草木も眠るこの時間、おそらく魔法舎で起きているのは眠れない自分だけだろうと、あたたかなベッドに寝転がったままミスラは思った。
 慣れ親しんだ北の国の凍てつくような寒さとは違い、魔法舎の冬はどこか物足りなさを感じるようないい加減な寒さだ。あくびが出た先からしゃりしゃりと音を立てて涙が凍ることも、長く外気温に触れた手先が石のように硬くなることもないのに、それでも服に服を重ねて寒いと震えていた賢者は、今はミスラの腕の中で満ち足りたような間抜けな寝顔をさらしている。間抜けな頬をつついたり引っ張ったりしながら、そういえば、とミスラはふと考えた。チレッタの寝顔をついぞ見ることはなかったな。
 厄災の傷で眠れない夜は、彼女のことを思い出す。ミスラが寝付けないで身じろぎしたり、ふと真夜中に目覚めてこっそり師匠の顔を窺おうとすると、彼女はぱちりと目を開けて「ねむれないの」と微笑んだ。記憶の中の彼女は、いつでもわらっている。

 彼女の笑顔しか思い出せないと気付いたのはつい最近のことだった。ふと彼女の言葉を思い出し、あのときの彼女の表情を思い浮かべようとしたのに、わらった顔しか思い出せない。べつに何ら不都合はないし特に意味などないのだが、随分と長い時を一緒に過ごしたはずなのに記憶が薄れていくのはこんなにもあっという間なのだと、なんだか空腹に似たきもちだった。
 わらった顔しか思い出せない彼女は、本当はころころと表情を変える人だった。自由で、奔放で、感情のままに笑ったり怒ったり泣いたりした。そして表情と同じくらい口もくるくる回るものだから、その分ミスラの口数が少なくなったのもやむを得ないことだろう。好きなものを好きだと言い、嫌いなものを嫌いだと言い、泣いたり笑ったりしながら、それでも彼女は笑顔の似合う人だったように思う。
 笑顔のなかでも特に記憶に残っているのは褒めるように笑った顔だった。よく喋る彼女は、ミスラを褒める時だけ寡黙になった。どこがよかったか、なにがよろこばしいのか。そうしたことは一切口に出すことなく、ただ『さすがわたしの弟子』というような笑顔でにっこりと、満面の笑みを浮かべるのだ。ミスラは随分と彼女に振り回されたが、離れることがなかったのは、多分、その顔がみたかったからなのだろう。
 放任主義の師は日常を気ままに過ごしていたが、夜だけはミスラと同じベッドで眠った。そう広くないベッドの中に、チレッタとミスラはまるでかくあれかしとつくられた対偶のようにぴったりとおさまった。それはミスラが幼くチレッタの腕の中に軽くおさまるこどもの頃から、大きくなって腕の中に彼女をとじこめることができるようになってからも同じだった。ぴったりと重なるように寄り添いながら、かすかにきこえる寝息と、律儀に一定のテンポを刻む鼓動の音と、腕や背中や足先に伝わる体温とともにミスラはいつも眠りについた。

 今腕の中にいるのは彼女じゃない。眠れるかもという一縷の希望をかけて抱き枕にした賢者は、ミスラを眠らせることができないまま間抜けな寝顔でゆっくり呼吸を繰り返している。かつて腕の中にいたチレッタと今腕の中にいる賢者の、そのさわり心地やあたたかさをくらべてみようとしたけれど、今腕の中にある温度しかミスラにはわからない。
 きっと、と思った。きっと、この瞬間もいつか遠い記憶になるだろう。つかの間の来訪者であり魔法使いのような長い命を持たない賢者では、大魔女と呼ばれたあの人と過ごした年月の半分も一緒にはいられまい。ミスラがチレッタの笑顔以外を思い出せないように、今腕の中にいる人間の何もかもを思い出せない日がそう遠からずやってくる。長い時間を生きすぎて、混濁した記憶は風雨にさらされた石みたいにさらさらと崩れていく。
 それをミスラは少しだけ惜しいと思った。このまま記憶を凍らせて、いつでも取り出せるようにできればいいなと考えたけれど、腕の中にあるぬくもりがようやくもたらした束の間の微睡みが、そんな思考の何もかもを春の雪のようにとかしていった。