彼女の世界


 彼女は名前をつけるのが好きだった、のだと思う。
 空間魔法をつかってほしいんです、と言って彼女はよくミスラの元を訪れた。その対価として差し出されるのは厄災の傷で眠れなくなったミスラを唯一眠らせることのできる賢者自身だったので、仕方なくいつも付き合ってやった。それはたとえば魔法舎に舞い込んだ依頼をこなすための下見であったり、あるいは市場への買い出しであったり、あるいはただの気晴らしのための散歩であったりした。
 その先々で、彼女はさまざまの名前を呼ぶのだ。
「あ、まめ太郎、今日も元気だね」と小さな三毛猫を撫でたり、紫や白の花を見て「コスモスが綺麗ですね」と目を細めたり、黄色の果物を見て「おいしそうなオレンジ」と弾んだ声で言うのを見ながら、ミスラも自然とそれらを覚えた。今まで名前のなかったものを、彼女が定義づけていく。
 ある夜、ふたりで箒に乗って空を見た。雲ひとつない群青色の夜空に星のきらきら光る夜だった。
「これらにも名前があるんですか」
 そうミスラが問うと、んん、と後ろで彼女は唸る。
「ある、は、あるんですけど」
「ひとつひとつ、全部に?」
「ええっと、確か観察できる範囲はぜんぶ、なのかな。でも見た感じ、わたしの知る星空じゃないのでまったくわからないですね。北斗七星もないですし、季節の大三角形っぽいやつもないし」
「ホクトシチセイ」
「はい。北斗七星をみつけたら北極星が見つかるんですよ」
「ホッキョクセイ」
「ポラリスともいいますね。道に迷ってしまったら、ポラリスを見つけて北の方向を知るんです。そうやってポラリスは迷った人を導いてくれるんですよ」
 そう言いながら、彼女は夜空をぐるりと見回して「やっぱりないな」と呟いた。心細さの欠片も滲まない、平淡で静かな声だった。
 ――――異世界からの来訪者である賢者の役割は、魔法使いを導くことだ。
(だけど彼女を導くものは、この世界の空にはない)
 故郷から遠く離れた知らない土地で、導くものが何もないまま、彼女はひとり立ち尽くしているのかも知れない。そう思うと、似合わない親切を見せてやりたくなった。
「《アルシム》」
 聞き慣れた呪文を唱え、空に手を翳す。いくつかの星がひときわ強く光を放った。わあ、と感嘆の声をあげた彼女に「名前をつけてください」と告げる。
「名前?」
「はい。あなたの世界と違うなら、あなたが名前をつけてもいいでしょう?」
「えっ、ここの学者さんとかに怒られそう」
「そんなもの捨て置けばいいんです。文句を言われたところでどうせそいつらもすぐ死にます」
「あまりにも横暴」
 そう評してから彼女は声をあげて笑って、そして言った。
「それなら一緒に名前をつけましょう。わたし、あなたと一緒に決めたい」
 適当な草原に降りて、ふたり寝転んで星を指差しあった。あの赤い星は。きらきら輝いているので宝石の名前にしましょう。いちご星はどうですか。宝石じゃないけど、まあそれでいいです。そのとなりのちょっと地味な白い星は。あの儚い感じ、かすみ草っぽいですね。じゃあかすみ星ですね。そんなとるにたらない会話をしているうちに、いつのまにか彼女は返事をしなくなっていた。
 すうすうと間抜けな顔で眠る彼女を眺める。さきに眠るなんてずるいですよ。そうささやきながら、彼女の手をぎゅっと握って目を閉じる。
 暗い瞼の裏側に見えない星空が映るから、そのひとつひとつの名前を諳んじる。

 今までミスラが植物だとか動物だとか星だとか、大雑把に定義していたものひとつひとつに賢者は名前をつけていく。この花はコスモス。これは向日葵。あれはランタナ。赤い小さな花を見ながらこれはなんだっけなあ、と難しい顔をしたのでミスラが「ナンダッケの花」と名付けると、涙が出るほど笑っていた。
 彼女といると、ミスラが薄ぼんやりとしか認識していなかったものひとつひとつが鮮明に浮かびあがる。いつか彼女を欠いた世界がやってきたときに鮮明になった世界が自らをいたずらに傷つけることをミスラは知っていたけれど、いつかがやってくるその瞬間までは、このまぬけな星の名前を覚えていよう、と思った。