CALL YOUR NAME
鳩原未来に彼氏ができたという話を聞いたのは、本人からではなくクラスメイトからだった。なぁ知ってる? という言葉のあとに続けられたその声が意想外すぎて思わず笑顔が不自然にかたまったのを自分ですら気付いたけれど、動揺を押し込んでどうでもよさそうな声をつくる。
「へえ、そうだったんだ」
「あれ、知らなかった?」
意外そうにきょとんと首を傾げたクラスメイトが告げた名前は、隣のクラスの特に親しくもない男の名前だった。別に目立つわけでもなく浮いているわけでもなく、友達がいないわけでも多いわけでもない、言ってしまえば犬飼にとってのその他大勢。彼を思い浮かべてみようとするけれど、顔すら随分と不鮮明だ。
大しておいしいわけでもないノンシュガーのカフェオレを飲み切ってから、へえ、と明るい声で犬飼は言った。
「鳩原と付き合うとか、そんな物好きいるんだ」
「え、鳩原さん別に悪くはなくね? そりゃ地味だけど、意外に話面白いし、よくわらうし」
貼りついたような作り笑いでね、と心の中で付け足してから、からになったカフェオレの容器をゴミ箱に投げる。かん、と軽い音を立てて縁にあたって跳ね返されて、「うわ」と思わず声が出た。ごみ箱の近くにいたクラスメイトに「ごめん、捨てといて!」と手を合わせると、くすくす高い声で笑いながら「犬飼くん、ノーコン」とたのしそうに揶揄う。
そうだよおれはノーコンだよ、あの変態スナイパーとは違うからね。そんな言葉をのみこんで「ありがとう」と軽薄な声がそう言った。
その日の放課後。授業の終わった教室からさっさと抜け出したものの個人戦をする気分にもなれなくて、怠惰に過ごす作戦室。隊長として課せられた任務かあるいは講義のレポートか、何かの書類に目を落としていた二宮が「そういえば」と顔を上げた。
「鳩原に恋人ができたのか」
「それ聞かれたの今日五回目ですよ」
仏頂面のまま投げつけられた言葉に苦笑を返す。昼休みにその話を聞いてから、なぜか隊員と出くわすたびにそれを聞かれた。北添に国近、当真に氷見、人の恋愛事情に興味があるとは思っていなかった荒船まで。なぜ本人に聞かない、と思いながら律儀に答え続けているのにも疲れてきた、そんな午後六時の出来事。
部下の恋愛事情について聞いているとはとても思えないほど真面目な顔をした二宮に向かって、犬飼は頷いた。
「できたらしいですねえ」
「ボーダー隊員か?」
「違いますよ。おれの隣のクラスのやつ」
どんなやつだ、という問いに、仲良くないんでよく知らないです、という端的な答えを返すと「そうか」と表情の読めない声。
顎に手を当てながら少し逡巡するような沈黙を経て、二宮は平淡な声で言った。
「奴の狙撃の腕は鈍るか」
「かわんないと思いますよ」
案じているのはそれか、と少しおかしく思いながら即答すると、二宮はふうと息を吐きながら腕組をした。
「そうか」
安堵したような、そして安堵したことを恥じるような声だった。この人は生まれつきの隊長だなあとおかしく思いながら、「鳩原に直接聞いたらいいのに」と笑ってみせる。
「さすがにそれはデリカシーがないだろう」
「いや、そんなことないでしょ。隊長として隊員のプライベートを把握するのも義務ですよ」
「……そういうものか」
納得したような声のあと、すこしためらったあとに「恋人は、いるのか」と生真面目な声が問うたから、この人に一生ついていきたいなあと思いながら「いませんよ」と生真面目な声でこたえる。
* *
『鳩原の彼氏』とは、二度か三度かとるにたらない会話を交わした覚えがある。隣のクラスと合同の体育の授業であったり、選択授業であったり。会話の内容は記憶にも残らないほどだけど、会話したという事実自体はそれでもうっすらおぼえている。
つまらない人間だった。凡庸な自尊心と人並みの虚栄心とありきたりな劣等感を、十七歳の身体の中にかくそうとしながら生きている。
ありふれた、ただの、人間。
「鳩原って彼氏になんて呼ばれてるの」
二宮も辻も氷見もまだ来ない部屋で唐突に投げかけた問いに、鳩原はおどろいたように顔をあげた。
「え、なんで」
「興味あるから」
「言わないよ」
「なんで」
端的な言葉の応酬に、困ったような苦笑い。少しだけ眉を下げて笑って、鳩原は言った。
「犬飼ってひとのレンアイに興味とかあるんだ」
「誰よりも隊員の恋愛事情に精通し、ボーダーの恋愛マスターと呼ばれたおれに何言ってんの、鳩原ちゃん」
「ほんと適当なことしかいわないよね」
へらりとわらって会話を終わらせようとした鳩原に対し、そうはいかないとばかりに追撃をかける。
「で、何て呼ばれてるの」
「それそんなに気になる?」
口元だけの作り笑いは明らかに誤魔化したがっていた。なんでおしえてくれないの、と末っ子らしく甘えたような声を出してみせると「きもちわるい」と一蹴されて、そのにべもない言葉に反射的に唇が尖る。
「けち」
まるで子どものような悪態に笑ってから、鳩原はふいに犬飼から目を逸らした。黒髪からわずかに覗いた耳はすこしだけ赤くて、ちいさなこえがささやくように告げる。
「やだよ、はずかしいから」
鳩原未来らしからぬ言葉だった。その言葉を聞いた瞬間、こころのどこかがすうっと冷えた。何がとはっきり言えるわけではないけれど、それでも自分の知る鳩原にはひどくそぐわない声色がなんだか気持ち悪くて。
普段なら考えるよりも先に浮かんでくるはずの揶揄の言葉も冗談も、なにひとつ口から出てこない。それでも何か言わなくちゃとむりやり開きかけた口から言葉が出てくるよりもはやく、音を立てて扉が開く。
入ってきた辻を見て、鳩原がほっと息を吐いた。ようやく犬飼の追及から逃れられるという安堵だろうが、救われたのは犬飼も同じだ。「辻ちゃん、やっほー」とわざと明るい声を出して手を振ると、ぺこりと頭を下げてから鳩原に向き直る。
「鳩原先輩、穂刈先輩が探してましたよ」
「あ、そういえば約束してたんだった」
僥倖と言わんばかりにスマホを掴んだ鳩原が、「いってくるね」と手を振った。慌ただしく出ていった後ろ姿を見送ってから、「辻ちゃん」と呼ぶ。
「なんですか?」
「約束とかないんだったら、おれとしようよ個人戦」
「いいですけど……珍しいですね」
いやなことでもあったんですか、と無表情が問うたから、なんにもないよ、と笑顔で無意味な嘘をつく。
* *
このグレープフルーツジュースは二度と買わない、と心の中で決意しながら眺めていた、いやに晴れた昼休みの空。風の吹き抜けていく音を聞きながら、まずいせいでやたら多く感じる500mlの紙パック飲料を義務のようにただすする。
天気がいいというそれだけの理由で外に出たくなって、申し訳程度の屋根だけついた渡り廊下の柵にもたれていた犬飼は、ふと下を歩いていく隣のクラスの生徒達の声を聞いた。
一年のとき同じクラスだった顔なじみが、『鳩原の彼氏』の肩に手を回しながら「それにしてもお前に彼女できるとはなー」と感慨深げに言う。
「しかも、鳩原さんかぁ。お前仲良かったっけ? 全然知らなかったんだけど」
「春の遠足で一回班一緒だったでしょ、あのときから、地味に」
「距離つめてたわけね、水面下で。むっつり」
「うっせーよ」
男にしては線の細い彼は、困ったように笑った。
「付き合ったって言っても、まだ遊びにいったりしてないしさ」
「まあこれからだよね。ねえところでどこが好きなワケ?」
にやにやと、楽しそうな問い。それおれも訊きたい、と階上の渡り廊下から耳を澄ます。野次馬の存在などまったく知らない『鳩原の彼氏』は、少しだけ首を傾げた。
「どこがって言われると難しいけど。俺の話楽しそうに聴いてくれるし、よく笑うし、仲良かったし。付き合うならこの子かなあって」
「あー、なるほど。まあおまえ彼女欲しがってたもんね、とてもね」
「人聞きの悪いこと言わないでくれる?」
笑い声が青空に響く。
そのあとの会話はもう聞きたくはなかった。興味もなかった。すっぱくて苦い、それなのに妙に甘い液体を無感動に喉に押し込みながら、ただひとつ耳に残った言葉を反芻する。
『好きっていうか、付き合ったら好きになれるかもって思ったから』
くだらない、と吐き捨てた。空になった紙パックを八つ当たりのようにぐしゃりと潰した。
もしかしたら、と犬飼はぼんやりと思う。もしかしたらこれを嫉妬と名付ける人もいるのかもしれない。けれどそれはちがう。嫉妬とは決定的にちがう。もしそう呼ぶ人がいるとしたら、うしろからそいつを撃ち殺してやりたい。
青空に響いた耳障りな笑い声と、黒髪の合間からほんの少しだけ見えた赤い耳と、鳩原未来らしからぬ言葉がぐるぐると回って気持ちが悪くなる。
『やだよ、はずかしいから』
あの言葉があんなにも鳩原に不釣り合いだったのは、自分が鳩原未来の性別を認識したくなかったからなのだと、鳩原に『女』なんて感じたくなかったのだと、その時ようやく理解した。
* *
好きだという確かな気持ちからではなく惰性で付き合った恋人たちが別離を選ぶまで、そう時間はかからない。例に違わず一か月もしないうちに別れた彼らの話は、やっぱり本人からではなくて他人から犬飼は聞いた。
「別れたんだって?」
放課後の教室、やわい水色の空に浮かぶもくもくとした雲は、まだ来ない夕陽の色をほんの少しだけ帯びている。日誌を書いていた鳩原は突然の問いに顔をあげて、ふたつ瞬きをしてからまた視線を落とした。
「うん」
哀しみも切なさも何も滲まない、端的な答えだった。「そっか」と言葉を返し、鳩原が几帳面に書く日誌へと目を向ける。文系と理系では随分と授業の配分が違うようで、古典に現国に日本史に政治経済という、犬飼であれば昼寝コースまっしぐらの授業を鳩原とクラスメイト達は今日こなしたらしい。
生真面目で筆圧の濃い字が日誌の欄を埋めていくのを眺めながら、犬飼は平淡な声で問いかけた。
「おまえから振ったの?」
「そんなわけないでしょ」
苦笑とともに顔をあげて、鳩原は困ったように小首を傾げた。
「ふられたよ」
何の感慨もない声だった。平淡で、静かで。かすかに微笑みすら浮かべながら吐き出されたその言葉には、犬飼の思う『鳩原らしさ』がきちんとある。まっすぐに犬飼を見つめた静かな瞳と口元にはりついたつくりわらいを見ながら、「そっか」と静かな声で言う。
「彼氏に何て呼ばれてたの」
過去形になった問いを投げた。あれから何度も投げかけたけど、そのたび「いやだ」とか「はずかしい」とか誤魔化し続けられた問いに、ふたつ瞬きをしてから鳩原は事務的にこたえる。
「みらい」
なんの面白味もないこたえだった。ふつうで、くだらなくて、ありふれた呼び方。ありきたりな付き合い方をして、つまらない時を過ごして、あたりまえのように離れていく。そんな鳩原未来を見たくないなんて、たぶん、こどもみたいな我儘だ。
ふと視線を落とす。相も変わらず筆圧の濃い字と、機能性重視の黒いシャープペンシルと、お手本のように正しい持ち方をするしろい指。随分涼しくなったとはいえ夏の暑さの残るなか、まくったシャツから伸びる折れそうなほど細い手首。重たい狙撃銃を担ぐ腕が随分と頼りないことも、正確無比な狙撃の引き金を引く指が犬飼のものとはずいぶん様子が違うことも、ずっと知っていたはずなのにそのときようやく初めて知った気がした。
まだゆうぐれにはならない放課後の、長い西日が鳩原の顔を照らす。目を伏せた睫毛が日に透けてきらきらひかる。みんな適当にこなしているはずの日誌を生真面目に書き終えた鳩原が、「ごめんね、お待たせ」と顔をあげた。「行こう」という声がなんだかいつもと違うようで腹が立ったから、わざとやさしい声をつくる。
あまい声で彼女を呼ぶ。
「みらい」
きょとんと顔をあげてから、鳩原未来は露骨に顔をしかめた。それも一瞬だけで、すぐにいつものつくりわらいでへらりと笑う。
「やめてよ」
悪趣味だなあ、と困ったように。
おまえのその笑顔には負けるよ、と思いながら犬飼澄晴は立ち上がる。さっきとは打って変わって気分がいいのは、はりついた笑顔すらないしかめっ面を見られたからだろう。出入り口の引き戸に手をかけて振り返り、とびきりの笑顔を浮かべてみせる。
「冗談だよ、怒んないでよ鳩原」
「怒ってはないけどさ」
「二宮さんがそろそろコワいよ、はやくいこ」
教室の時計を見上げて、「あ、ほんとだ」と鳩原は言った。待たせてごめんね、と駆け寄ってきて並ぶ低い位置の頭を眺めていたら、さっきの苛立ちの残滓がふわりと降ってきたから、なんの意味もなくふくらはぎに軽く蹴りをかましてやる。
「うわっ。え、なに、いたい」
「うん、なんかむかついて」
「理不尽すぎておどろいた」
動じた様子もない、軽口の応酬。ようやくほっと息をついて、いつも通りのただの会話を交わしながら犬飼澄晴と鳩原未来は帰路をゆく。