雪を待つ人


 ふと気が付けば、私は硬い窓硝子にもたれかかるようにして眠っていた。がたんごとん、と電車の音が響く。倦怠感にまかせて一度目を閉じたけど、それでもやはり目を開いた。窓硝子の向こうに広がるのはまるで血のように赤い夕焼け空で、淡い紫色の雲が絵具で引かれた線のようにいくつもいくつもたなびいていた。
「起きた?」
 目の前から響いた声に反射的にそちらを見ると、にっこりとフィガロが微笑んでいた。ひとつ、ふたつ。ぱちぱちと瞬きをしてその光景を受け入れようとして、だけど上手に受け入れられなくて、私は問う。
「何してるんですか、フィガロ」
「それはこっちの台詞だよ。賢者様こそ何をしてるの、こんなところで」
「えーと……何してるんでしょうね」
 くるりとあたりを見回すと、想定どおりそこはまったく見覚えのない場所だった。古めかしい内装の電車。窓枠はステンレスではなくあたたかみのある茶色の木でできていて、その下半分は手で開けることができる。照明は白く明るい蛍光灯ではなくやわらかなオレンジ色で、深緑色のシートとよく調和していた。
 クロスシートの電車って、久しぶりに乗った気がする。そんなことを思いながら向かい合ったフィガロに問いかける。
「フィガロは何してるんですか?」
「うーん、何をしてるんだろうね」
「…………」
 どうやらまともに話してくれる気はなさそうだ。にこにこといつも通りの胡散臭い笑顔を浮かべながら――とそこまで思ったところではたと気が付く。『いつも通り』? いつも通りといえるほど、私とフィガロは会っていただろうか。顔を見たらすぐに思い出すことができるけど、でも普段は思考の海から除かれている、そんな場所にいたような気がする。
(……そもそも、ここはどこなんだろう)
 電車であるからには目的地があり、目的地に向かうために私はこれを利用していたのだと思うけど、でも見回したところで路線図も次の駅を示す液晶も何もないし車内放送も流れない。ポケットを探ったところでICカードも切符もない。鞄も持っていない着の身着のまま、私はどこへ行こうとしていたのだろうか。……そもそもどこにも行けないだろう。
「……ていうことは私、無賃乗車になるんでしょうか」
「おや賢者様、切符持ってないの?」
「そもそも自分がどうしてこれに乗っているのかもわからないので……」
「そっか。じゃあ次車掌が回ってきたら俺が代わりに買ってあげよう。なんてったって俺はいい人だからね」
「今回ばかりは全力で同意します」
 ぺこりと頭を下げて、車窓を流れる景色を眺める。綺麗だね、と目の前の人が温度の通わないやわらかな声で言って、そうですね、と私も答える。どうやら随分と田舎道を走っているらしく、野草の生い茂る草原だけがずうっと流れていく。揺らめく太陽だけが世界の中で唯一白くて、空は燃えるような赤、草原は逆光で黒い影のように窓の外を走る。さきほどは紫だった雲も空より一段階濃い赤と黒に近いグレーで、なんだかわけもなく胸の寒くなる夕暮れ空だ。
「……フィガロ」
「ん?」
「ひさしぶり、ですよね?」
 疑問形になったのは、自分の記憶になんの自信も持てなかったからだ。けれど目の前の自称優しいお医者様は感情をうかがわせないいつもの笑顔で微笑むだけで、肯定も否定もしなかった。
 ただ一言だけ、言った。
「きみがそう思うなら、きっとそうなんだろう」
 煙に巻くような言い方だ、と私は少しだけ不満に思う。だけど文句を言おうにもその顔があまりにもさみしそうだったから、私は何も言葉にできなかった。
 この人のさみしそうな顔に弱いのはずっと前からだ。ひとりでも大丈夫だよ、なんて澄ました猫みたいな顔をして、事実ひとりで何でもこなせてしまうくせに――生きていくだけなら他人なんて必要ないくせに、この人のすべてにはいつもさみしさが影のように付きまとっていた。ひとつだってかわいそうじゃないくせに、人が周りにあふれているくせに、誰もが彼を好きだといっても、そのさみしさはまるで彼をひとりにしないと決意したひとりの従者であるかのようにくっついて離れなかった。その人はよく笑い、よく冗談を言い、よく誰かとともに笑っていたけど、だからこそそのさみしさは色濃くなっていく。
 そうだ、だから、私は――。
「賢者様」
 呼ばれてはっと顔をあげた。いつのまにか電車はそのスピードを落とし、夕暮れはもう終わろうとしていた。がたんごとんと重たげな電車の音がかたんかたんと軽やかになり、橋を渡っているのだとわかる。窓硝子に映る自分の姿越しに外を覗いて、私は「わあ」と声をあげた。
「綺麗だね」
「はい。……灯篭流しでしょうか」
 橋の下を流れる黒い川に、オレンジ色の茫洋とした光がいくつもいくつも流れていく。淡い光は川のさざなみに揺られ、隣同士にいたものもゆっくりと離れていき、小さな光がひとつ、またひとつと広がっていくのがとても綺麗で、私はひとつ息を吐いた。
「綺麗……」
 橋が終わり、また電車の音ががたんごとんと重たげに戻っても、私は名残惜しむように何度も後ろを振り返る。目に焼き付いた灯篭のオレンジ色の光がやわらかで慕わしかった。フィガロはくすりと笑い、「賢者様って光るものが好きだよね」と言った。
「え、そうでしょうか」
「うん。ワルプルギスの夜のときもそうだったし……ああ、中央の栄光の街のお祭りの時もそうだった」
「うーん、昔からそうなのかもしれません。花火とかも好きだったし。あと、灯篭流しは母の実家で毎年見ていたんです」
「そうなんだ。微笑ましいね」
 橋を渡るからなのかと思っていたが、橋を降りても電車はずっとスピードを緩めたままだ。それどころかだんだんとスピードを落としていく。次の停車駅が近いのだろうか、とちらりと思い、早く車掌さんが回ってこないかな、とも思った。不可抗力とはいえ無賃乗車の状態で宙ぶらりんでいるのはやはり精神衛生上よろしくない。
 けれど結局車掌さんは回ってこないまま電車は速度を落とし、ついには静かに停車した。車内放送も何もなかった。誰も下りなかったし(乗客は私とフィガロしかいないのだから当然だけど)、誰も乗ってこなかったのに電車はそのままぴたりと止まる。時間合わせか何かで何分かここに停車するのかもしれない。
 窓から駅の様子を見ると、駅名標はあったけ薄汚れたその看板に書かれた文字は半ば剥げていたのでわからなかった。改札もあったけど改札口はオレンジ色の明かりに照らされているだけで人っ子一人いない。改札の奥には小道が続いていて、両脇に可憐な白い花が群生している。下向きで小ぶりな、あれはスノーフレークだろうか、スズランだろうか。……いや、葉っぱの感じからしてスズランではない。そして花は真っ白で、水玉のように見える緑色の斑点がないから、あれは、
「うん、スノードロップだね」
「あってます? よかった」
「別に間違っててもいいと思うけどね。……綺麗だね」
「そうですねえ」
 煉瓦の敷かれたレトロな道に、その花はよく似合う。できるなら近くで見たいなと思ったけど、時刻表がないから電車がいつまで停車を続けるのかわからない。知らない駅にたったひとりでおいてけぼり、なんてことほど心細いことはないだろう。そんな葛藤を何も言わないまま結論付けた私に向かって、フィガロは言った。
「摘んできてあげようか」
「え」
「あの花。近くで見たいでしょう?」
「うーん……」
「電車なら心配ないよ。ちょっと止めておいて、すぐに摘んできてあげられるよ」
 にこにこと、笑顔で彼は言う。多分純然たる親切心ではあるんだろう。それに応えるべきか少し悩んだけど、結論はすぐに出た。
「いえ、私はあそこに咲いているのが綺麗だと思ったから。……せっかく綺麗に咲いているのに、手折るのは可哀想です」
 だから、気持ちだけ。
「ありがとう」というと、彼は少し片眉をあげるようにして私を見た。せっかくの親切心をふいにしちゃったかもしれないな、とちょっとだけ後悔したけど、でも手折られた花を綺麗だと褒め称えて、そんなことになんの意味があるだろう。ただでさえわけのわからないこの旅路に連れていくのもちょっと可哀想だし。
 もう一度電車が走り出してからも、長い間、フィガロはずっと黙っていた。私も口を閉ざしたまま夜の群青色と野草に流れる車窓をただ見ていると、彼はぽつりと呟いた。
「……うん」
「はい?」
「綺麗に咲いているものを手折るのは、確かに可哀想だと思って」
「ああ、その話」
 とっくに終わったと思っていた話を、彼は考え込んでいたらしい。私は「真面目ですね」と笑い、彼も笑った。そして、言った。
「賢者様。俺の手を見てくれる?」
「へ? 私、手相とか見られませんけど」
「うん、手相は別に見なくていいよ」
「はあ」
 よくわからなかったけど、差し出された彼の手のひらをじっと見つめる。指の長い、手のひらの大きい、男の人の手だ。目立った肉刺や胼胝はないけど、長い年月を経て少しずつ持ち主の用途に適応していった、無駄のないしなやかな手だ。わけもわからずその手をじいっと見つめながら、そういえば車掌さん来なくて大丈夫なのかな、と思い、そういえばこの電車に乗る前何をしていたんだっけ、と考えて――。

 けれど思考はひとつに留まらず集中は靄のように霧散して、そして私は眠りについた。


  *   *


 何をしてるの、こんなところで。その言葉は本心だった。きみは本当に、何をしているの。こんなところで。意識を失ってだらんと頽れた身体を抱きとめながら、フィガロは小さく息を吐いた。それにしても魔法使いとは不便なものだ。軽い気持ちで交わした約束が、何年も経ってから履行の義務を迫りに来る。
「……せめてゆっくり眠らせてもらいたいものだけど」
 とささやきながら、彼女の頬をするりと撫でた。オレンジ色の光に照らされたその頬は、それでも血の気を欠いた白い色をしている。
 ここは彼女の夢の中の世界。彼女が目覚めればいずれ霧散するはずだけど、いまだ世界の構造は保たれているから現実世界の彼女は目覚めていないということなのだろう。物言わぬ彼女の唇を親指の腹でなぞりながら、交わした言葉のことを思い出す。ひとりでいかないでください。息を荒げながら請うような、あるいは祈るような彼女の言葉を。そしていつか交わした約束を。

 ――どうか守ってください。私のことも、あなた自身のことも。

 つくづく約束とは厄介なものだと思う。ミスラなどは約束しなければよかったと毎日未練がましく言っていたが、その気持ちも今ならわかる気がする。どうしようもなく天災のように目の前に落ちてきて拒む隙も言い訳も与えずに結ばれてしまったそれは、彼女が自分の世界に帰ってもなお未だ機能し続けている。
 ――その約束の片割れが、ふたつの世界のどちら側にもいなくても。

(……それにしてもきみは、かわらないね)

 せっかく綺麗に咲いているのに、手折るのは可哀想です。まっすぐで真摯な声を思い出しながら、眠る彼女の頬をまた撫でる。明るく朗らかな彼女は、その芯から誠実で正直な性質をしていた。それが時折眩しくて、時に――妬んだ。どうやっても彼女のようにはなれなかったから。まっすぐに誰かといたいと伝える彼女に、孤独が染みついたフィガロではどうあがいてもなれない。なりたいとも思わないけど、それでも時折ひどく羨ましく思うのだ。きみのように生きていけたら。
 あるいは、その生き方を捻じ曲げてしまうことができたなら。
 花を手折ると彼女が言ったなら、彼女ごと手折ってしまおうと思っていた。けれど彼女は望まなかった。だからフィガロは返すしかない。彼女の生きる場所へ。彼女の魂を。
(……だけど、ほんとうは、)
 群青色の空を見上げる。抱きとめた彼女の身体の重みやあたたかさがまるで雪の融けるように失われていくのを、ほんとうの望みを、目を閉じて何も感じないふりをした。


  *   *


 どこが痛いのかもわからないほど全身が痛い。意識が浮上すると同時に襲ってきたそれに耐えかねて目をゆっくりと開くと、見知らぬ白い天井が目に入った。頭を少し動かすだけで気の遠くなるような痛みが意識を焼いたけど、意識を手放さないよう必死で横をどうにか見ると、自分の身体に繋がる点滴類。
 それと同時に記憶が戻る。飛び出した猫、考えるよりも先に動いた身体、急ブレーキが地面を焦がすひどい臭いと音と衝撃。
 それから夢で見た、もう二度と会えない人。

「……ごめんなさい」

 と私はささやいて、ほんの少しだけ、泣いた。