煙に巻けるなら
暮れなずむ空にたなびく紫がかった灰色の薄雲を眺めながらぼんやりと廊下を歩いていると、縁側に座るひとりの少女の後ろ姿を見つけた。短刀を含め上背のない者は多くいるが、頼りなく薄い肩と骨の浮いた小さな背中は見間違いようもなくこの本丸の主のものだ。いつも何やかやと忙しく動き回る彼女にしては珍しくぼうっとただ空を見上げて、そしてぽかりと息を吐いた。白くぼんやり浮かんでは薄れて消えていく紫煙を感情の薄い瞳で見つめながら、ひとさし指と中指で挟んだ煙草をまた口へと運ぶ。目に見える呼吸がまたひとつ、空へと滲んで消えていく。
ぎし、と廊下が軋んだ音を立てた。
「お前さんは未成年だろう。感心しないな」
後ろからの言葉に驚いた様子もなく「あなたがそんなことをいうなんて意外」と感情の薄い声で言って、彼女は形ばかりの微笑みを浮かべた。たかだか十数年しか生きていない人間の幼生が浮かべるにしてはやや不釣り合いな笑みだった。その隣にどっこいしょと腰を下ろして手を差し出す。
「どれ、口止め料だ。僕にも一本寄越すといい」
「お年寄りの喫煙は感心しませんね」
「うはは、よく言う」
こちらに差し向けられたわかばの箱から一本取り出し口に咥えて彼女を見ると少し肩をすくめて火をつけてくれた。息を吸い、ふうと長く吐き出してから「あれはしてくれないのか?」と揶揄うように笑いかけると怪訝そうに彼女は首を傾げる。
「あれとは」
「なんだ、知らんのか。やはり子供だな。シガレットキスというやつだ」
「知っているけどやりません」
「うはは、それは残念!」
「いいこと教えてあげますね、それセクハラっていうんですよ」
「うはは」
笑って文字通り煙に巻くと、議論しても無駄だと思ったのだろう、彼女はまたぼんやりとした瞳で夕空を見上げる。そしてひとりごとのようにささやいた。
「こんなものを望んで吸う人の気がしれない」
追及するには平淡で、聞き流すには切実な声だった。「望んで吸っているんじゃないのか」と問うと「それはそうなんだけど」と困ったように笑う。
「でも、こんなの吸わずにいられたらいいのにって思う」
まだ幼い面立ちの少女が、年齢にそぐわない諦念と憂鬱に曇った目を伏せながらゆっくりと紫煙を吐き出す。やめられなくて、とささやいた声は言い訳にしてはあまりにも情念が薄かった。
「呼吸をしている確かな証左がほしいんです。私はここで生きている、息をしている、って」
「………………」
彼女がすべての肉親を失っている、と聞いたのはそう遠くない過去のことだ。「いなくなってしまったんです」と、彼女はやはり平淡な、感情の薄い声でそう言った。歴史がかわって、それを正して――――そしたらどこかが狂ってしまったんでしょう、私の家族はみんな、存在しない人になっていた。語る乾いた瞳の横顔に、もう悲しみはどこにもなかった。
――――仕方がないんです。北京の蝶が羽ばたけばニューヨークで嵐が起こるのがこの世界なんだから。
「だから私はもうどこにも帰る場所がない。まあもともと審神者なんかになったんだからどこにも帰れないんだけど、……それでも」
帰ることは現実にはできなくても帰るべき場所があることと、帰るべき場所が世界のどこからも失われてしまったことは全然違う。そう続くはずだった言葉をまるごと呑み込んで、諦念の少女は「しゃべりすぎましたね」と力なく微笑んで首を振った。
愛しい人の生の痕跡さえも失って生の実感が薄い少女は、ごほ、と痰の絡んだ咳をした。咳き込んだあと「やっぱりこんなのやめたいな」とため息をつく。だけどきっと彼女は自分の呼吸を確かめることをやめられないだろう。忙しい日常の中にふと忍び込む死の気配から逃れるために、可視化された呼吸を眺めて安堵の息を吐くだろう。
(――――そんなのは、あまりにも)
「……則宗さん?」
訝しげにこちらを覗きこみながら名前を呼んだ少女の頤をついと持ち上げ唇を重ねる。抵抗らしい抵抗もないので苦い舌同士を絡めると、そこではじめて逃げようとして身を捩ったので後頭部をぐっと押さえつけた。すべての呼吸を奪うように執拗に舌を絡め、息のあがったあたりでようやく解放してやる。
頬は赤く、うっすらと目じりに涙が滲んでいた。それを拭ってやりながら、「呼吸を確かめたいならこういう方法はどうだ」とささやくと、「それもまたセクハラなんですよ」と感情の薄い声が指摘した。