かみさまの言葉
「蛍」
静かな声がほんとうの名前で呼んだことに気づかなかったふりをして黙殺しようかと思ったが、ちらりと窺った彼の青い瞳はまるで夕暮れの海のように凪いでいたから抑えた声で「どうして?」と問う。
どうして知ってるの。言外の意味を正しく理解したタルタリヤは「ははっ」と愉快そうに笑って、ファデュイの執行官を舐めてもらっては困るよ、と言った。
「でも私は誰にも言わなかった」
「誰かの心から一歩も出ない秘密なんて世界のどこにもないさ。言葉にしなくても情報はありとあらゆるところに転がっている。そう、たとえば今まで君のことを名前で呼んだり旅人って呼んだりしていたおチビちゃんが頑なに君を旅人としか呼ばなくなったこととか、それと時を同じくして君がおチビちゃんを見る瞳に今までと違う色が混ざるようになったこととかね」
「…………」
「あとは、そうだな。ホタルを追う君の瞳に映る感傷とか、そういうところからの類推だよ。君は幾分わかりづらいけれど、何一つ心から出さないようにするのは熟練のスパイでも難しい」
「よく喋るね、公子」
「知ってるだろ?」
穏やかな闇の中、清廉な小川のせせらぎがやわらかに響く夜。数だけは多く交わすけれど信頼と友愛を欠いた言葉は空虚に軽く、続けているとその無意味さについため息をつきたくなる。ふう、とひとつ息を吐いてつくってくれたホットミルクをすすると、砂糖をひとさじ加えただけで舌がとろけそうに甘い。
ファデュイの執行官たる彼と旅を始めていくらか経つが、彼は最初からこうやって必要以上に子供扱いをする。戦いを求めはするが、何かを与えようとするときは大概甘いものや優しいものを蛍に与えたがった。砂糖を入れたホットミルクもココアパウダーからつくるホットココアも特段好んではいなかったが、弟妹を甘やかしてきた名残りか、あるいは蛍をその代替として見ているのか――――まあいずれにせよ、特に不都合があるわけでもないから何も言わないが。
熱いホットミルクの表面にふうふうと息を吹きかけるとさざなみのように表面が揺れる。丁寧に、慎重に。それを繰り返す蛍をやわらかに細めた瞳でじっと見つめ、タルタリヤは口元を緩めて微笑んだ。丁寧に前髪を一筋掬い上げる彼の青い瞳の中に、自分だけが映っていた。彼は躊躇うように目を閉じて、けれどすぐに口を開いてささやいた。
「アヤックス」
「え?」
「君に呼んでほしいんだ。……他の誰にも秘密だよ」
「…………」
真意を測りかねて蛍は彼をじっと見た。悪戯っぽく肩をすくめて両手を広げ、「そんな目で見ないでほしいな」とタルタリヤは言う。
「何でもないよ。捨てた名前だ」
「…………」
「なんだって薄れていくし、なんだって忘れていく。捨てたものなら尚更だ。だけど、君は俺と違って捨てたわけじゃないだろう? そう呼んでくれる人がいるだろう? それが……まあ、羨ましかっただけだよ」
せせらぎが、先程までとは違う響きできこえた。焚き木の崩れる音、静かに燃える音、かすかな火の匂いとホットミルクの甘い匂い。自分の喉からこぼれ落ちた音は、砂糖をひとさじ加えるよりもよほど甘く味蕾を刺激した。
「アヤックス」
「……ありがとう」
声以上の何かを感じ取ろうとするみたいに目を閉じて、彼は微笑む。それからからりと雰囲気をかえて、「そろそろ君は寝る時間だ」と明るく言った。
「夜は大人の時間だよ――君にはまだ早い。歯を磨いてもう寝るんだ、虫歯になっちゃうからね」
「…………」
彼が手から取り上げようとしたマグカップを取り返しながら、ふと気が向いて「公子」と呼んだ。
「なんだい?」
「秘密をひとつ、教えてあげる」
年と経歴のわりにあどけない瞳をきょとんと見開いて、彼は蛍の言葉を待つ。
別に、ただの気紛れだった。ほんとうのことを言った彼に、ほんとうのことをお返ししようと思ったわけじゃない。ただ彼の反応が知りたかった。どんな顔をするか知りたかった。
(――――私が)
私が、たとえば。
こくりと一つ息を呑んで、高い位置にある彼の瞳をじっと見据える。
「私は、虫歯にはならない」
きょとんと見開いた目をくしゃりと緩め、「なんだその子供じみた言い訳は」と彼は笑った。