さよならでふたをした


 がたんごとん、がたんごとん。
 ゆるやかで静かな音と、かすかにからだに伝わる振動はまるでゆりかごのようで。
 ゆめとうつつのはざま、ながれては消えゆく景色を見ながら数度まばたきを繰り返すうちに、雲のように実体をもたなかった意識が次第にかたちづくられていく。最初はどこにいるのかわからないくらいにぼんやりしていた記憶も流れていく風景をみるうちにゆっくりとかたちを取戻し、そこでようやくなぜ自分が目を醒ましたのかを理解した。
 隣でわずかにあたたかい肩を揺さぶれば、「んん」とうめき声が洩れる。ぱちりと目が開いてあんずを捉え、はくりと口があいた瞬間折よく車内放送が流れた。
『次は、終点です。どなたさまもお忘れ物ございませんようお気を付けください。ご乗車ありがとうございました』
「ああ、……次が終点か」
 そう言いながら、千秋はぐうっと体を伸ばした。重ねながらもつないでいなかった手はあっけなく離れていき、ぬくもりがうしなわれる。
 なにもおくびにも出さないままに、あんずはただ窓の外の見知らぬ風景を眺める。

 電車というのは線路の果てまでどこまでも運んで行ってくれるものだと思っていたんだ、という千秋の言葉がきっかけだった。じゃあどこまでいけるか試しませんか、とあんずが言うと、それはいいなと千秋は笑った。
 普段使う路線の端の端から乗り継ぐローカル線の車両はふたつだけで、ぽつぽつと乗るひとたちは当たり前だけどみんな見知らぬ人ばかりで。
 いくつかのトンネルを抜け、うっそうとした山道を横目に見ながら言葉をかわさないままに重なるだけの手の温度を想う。見知らぬ人が見知らぬ地名で乗ってきては降りていくのをただ眺めながら、となりのあたたかな人をおもう。

 いくつめなのかもう数えるのをやめた停車駅で、扉が開いた瞬間にふと香った春の匂いをかぎながらあんずは問うた。
「お茶飲みますか」
「ん? ああ、俺は大丈夫だ!」
 ありがとう、という言葉に、そうですか、とだけ返してあんずはペットボトルのキャップをひねる。春限定、と銘打たれた季節限定の緑茶の味は普段とどう違うのかよくわからなくて、でも空気にただよう春の匂いとの相性はそう悪くはないと思った。
 学院でコピーしてきた路線図を眺めながら、千秋は言う。
「今はここだろう。終点までいくと乗り換えがいくつかあるが、どの路線に乗り換えたいとかあるか? いきたい場所とか」
「うーん。わたしはとくにないですけど」
 千秋さんがいきたいところにいきましょう、と喉のあたりまで出かかってから、ふとわがままを言いたくなった。
「うみ。うみ、見にいきたいです」
「海か、いいな! 奏汰が喜びそうだ」
「……そうですね」
 重なったままの手が、ほんのわずかにぴくりと動いた。きっとお互い呑み込んだ言葉があって、きっとお互いそれを知っていた。呑み込んだ言葉の内容も、それを声にすることなくのみこんだ理由も。
 車窓から眺める景色は、ずいぶんとはやく過ぎてゆくようにみえた。

 鈍い緑のまじった冬の海とちがって、春の海はふわりとあおく透明だ。寄せては返す波の見える駅で何の意味もなく降りた千秋とあんずは、コンビニとは呼べないであろう個人商店で買ったパンをもって階段に並んで座った。
「今日はあたたかいな」
 春の日差しに目を細めながら笑う千秋の横顔をちらりと盗み見てから、あんずはこくりと頷く。
「寒くなくてよかったです。風邪でもひいたら大変ですから」
「まあな。あんずは寒くないか? 俺のパーカーを貸してやろう!」
「いらないです」
「はっは、遠慮をするな!」
「いらないですってば」
 抵抗むなしく強引にかぶせられたパーカーは、あんずには大きかった。パーカーからかおる匂いが春の匂いをとかしてしまったから、ほんのすこしだけ息ができずにあんずは目を伏せる。
 そんなあんずに千秋は明るく笑った。
「ああ、腹が減って元気がなくなってしまったな! パンを食べよう!」
「…………そうですね」
 あんずはわらってこたえて、袋からメロンパンを出してひとくちかじりついた。クッキー生地はあまり歯ごたえがなくて、中身はすかすかのスポンジみたいに味がしない。美味しくない、と思うのが、味のせいなのか自分の気持ちの問題なのか、あんずにはもうわからなかった。なんだか不意に泣きたくなって、むりやりメロンパンにかぶりつく。
「いい食べっぷりだなあ」
 感心したような、そして少しとぼけたその言葉に腹が立ったから、一撃喰らわせてやろうとあんずは手を振り上げた。「おわっ」と驚いたような言葉とともに、振り下ろしたあんずの手首を千秋の手が捕らえる。
 大きな手だった。ごつごつと骨ばって、あんずのものとはずいぶん様子が違う。余裕をもって手首を握ったその手は、ほんの少しの逡巡を経てあんずの指をゆっくりと絡めとった。からんだ指の先から、ふれあう掌から体温が直に伝わるから、あんずは思わず視線を落とす。千秋があんずを見ていることは視線でわかっていたけれど、その表情を見て平静を保てる自信がなかった。何か余計なことを口に出してしまいそうで、表面張力でどうにか溢れずに堪えている何かの均衡を崩してしまいそうで。
 不意に千秋が言った。
「あんずは細いな」
 ひどく静かな声だった。その声をきいて、もう顔をあげることはできないな、と他人事のようにあんずは思った。顔を見れば、間違えたくなってしまう。取り返しのつかないことになるとわかっていても、それを望んでしまう。
 あんずも千秋も望まないのに、それでも道を違えてしまいたくなる。

(…………あ)

 不意にあんずは気付いた。自分たちの目の前に広がる将来という名の道と、自分たちがまるで逃避行のように乗り継いできた線路が頭の中でぐるぐるまわる。

(道を違えたくなる、なんて、)

 そんなの、ただの言い訳だ。
 道なんかなくたってどこへでもいける。行こうと思えば。意思さえあれば、そこに行きたいという固い意思さえあるのなら。
 不意に泣き出したい気持ちにおそわれて、喉の奥がひしゃげて呻くような変な声が出た。こんなにかなしいのになんだかわらえて、それが余計に悲しみを呼び起こす。いつもなら「どうしたどうした!」と明るい声で言うはずのヒーローは何も言わなくて、無言で。
 嗚咽は堪え切った。一瞬だけ熱くなった喉も冷えた。自分の喉が発する声はひどく静かで穏やかで、まるでしらないだれかがはなしているかのようで。

「かえりましょう、守沢先輩」

 重なっていた手に力がこもった。何かをこらえるように目を瞑り、開きかけた口は何度も閉じた。細い息をひとつ吐き、まるでしらないひとの声がささやく。
「ああ」
 手は離れなかった。けれど時間の問題だと思った。もう離れてしまう。もう何もかもが手遅れで、どうしようもなく切なかった。

 いこうと思えばどこへだっていける。
 固い意思さえあれば。

 けれど、あんずと守沢千秋はどこへだっていけない。
 どこへだっていかない。
 自分達の意思で。目指すもののために。自分の理想が示す先へいくために。
 理想の未来へはいけないのだと知っている。
 ふたりで。手を繋いだままでは。

「帰ろう、あんず」

 アイドルと、プロデューサーは。
 名残惜しむように指先を絡めて、――そして自らの意思で手を離した。




 がたんごとんと電車は往く。行きはあんなにすぐについたかのように思えたのに、帰りの時間は時計の針の職務怠慢を責めたくなる程に進まない。ひどく静かな電車の中で、窓際に顔を向けたままの守沢をあんずはちらりと窺った。寝ているのか寝ていないのか、それとも狸寝入りをしているのか、あんずにはわからなかった。
 わからないならいいだろう、と彼の肩に寄りかかって、あんずは目を閉じる。
 いつか、と心の中で独り言ちた。

(いつか、この記憶が慕わしく、懐かしいものになればいい。かなしいおわかれの記憶じゃなくて、正しい選択の記憶として)

 電車のアナウンスが知っている地名を読み上げる。まだまだ先は長いけれど、それでも帰る場所が近付いてくるのがわかる。
 夕焼けはまだ来ない、けれどうすい空色に夕陽の色に似た橙を透かす空を眺めて、はやく大人になれたらいいなと小さな声で呟いた。