ずるいひと
十月の夜は昼間の暑さなんて忘れたかのように素知らぬ顔で冷え切っていた。外気温をそのままうつして氷のようにつめたい手足とは違い、お腹と心臓はひどくあつい。なかば走るみたいな早歩きで、まるで何かの義務であるかのような硬い顔のままあんずは自分の家の扉の前へ辿りつき、鍵をがちゃんと回した。家へ入って、後ろ手に鍵をしめて。靴も脱がないまま、あんずは玄関に座り込む。
細く、長い息を吐いた。大して帰ってこない家ではあるが、それでもあんずにとって数少ない安心できる場所ではあったらしい。冷たい扉にずるずると寄りかかったまま、ああ、と何の意味もない声が洩れる。背中の無機質な冷たさが心地いいのに指はひどく悴んで、上を向いたままぽろりと涙がひとつ零れた。
(泣いても、いいんだ。いまなら)
当たり前のことを、はじめてのように知った。泣いてもいいのだ、今みたいに、誰も見ていないときなら。そう頭の中で呟いても、ひとすじ流れたきり涙はもう浮かんでこない。
泣きたいなあ、と思った。泣けたらいいのに、と思った。そんなばかな自分がおかしくて、笑いたかったのに咳のような声がひとつ喉からもれただけだった。
だれかに弱音を吐きたくて、だれかのこえがききたくて、億劫だけど鞄の中から端末を取り出して開く。ずらっと並んだ通知はすべて仕事関係のもので、思わず放り出しそうになった瞬間、画面が切り替わった。
「わっ」
画面に表示されたはずの名前も見られないままに、通話画面になってしまったらしい。誰かもわからないままに、上擦った声が誰何する。
「も、もしもし」
『うわ、早……びっくりした』
「あ」
翠くん? と、自然に声が呼んだ。どもっす、と響く声は高校時代の後輩のものだった。
『いきなり電話してすみません、いま大丈夫ですか?』
「うん、平気。タイミングよすぎてびっくりしたけど」
そっすか、と興味があるのかないのかよくわからない、いつも通りの声。なんだか癒されるなあと思いながらひとつ鼻をすする。高校時代、『慈愛』の二つ名を隊長にもらった高峯は、電話の先で一瞬戸惑ったみたいだった。
一瞬の逡巡を経て、慎重な声が問う。
『……泣いてるんすか』
薄氷を踏むみたいな気遣いと、やさしさと。そんなものに触れてしまったものだから、さっきは出てこなかった涙がじわりともう一度浮いた。
「え、や、なんでもないよ」
『……あんまり、なんでもなく、きこえない』
低く響く声が言う。
『言いたくないならいいですけど、俺でもよければききます。……ききたいです』
「……たいしたことじゃないんだよ」
涙がこれ以上出てこないように、わざと明るい声をつくる。
「つきあってたひとと、別れちゃって。……あんまりいい別れ方じゃなかったから、なんていうか、こう、余裕なくて」
『……今ですか?』
「え」
『今、別れてきたとこなんすか』
「そうだけど……」
戸惑うあんずに、高峯が言う。
『あんずさん、駅、かわってないですよね』
「うん」
『三十分でいくから駅まできてください』
それだけ言い残してぷつんと電話が切れてしまった。断る暇も、遠慮する暇もなく、ぱたんと。
もう一度掛け直しても、高峯は電話に出なかった。
「……ほんとにごめんね」
「俺が勝手にしたことですよ」
駅前の居酒屋のカウンター席は照明が落ちて少し暗い。きたばかりのビールを一口飲んでからそんな言葉を言ったあんずに、半分ほどを一気に煽った高峯は首を振った。
「俺、どうせ明日オフですし」
「そうなんだ。実は、わたしも」
「じゃあ吐く程飲めますね」
「翠くん、そんな強くなかったよね」
だからオフの前くらいしか飲めないんですよ、と言ってから高峯は勢いよくビールを煽った。喉が上下してアルコールを飲み下すのを見ながら、あんずも申し訳程度に一口、くちを付ける。
「あんずさんから別れようって言ったんですか」
「……え」
「元カレに」
元、を強調しながら高峯は言った。そういえばもうあの人は過去の人になるんだな、と思いながらあんずはわらう。
「ううん、ふられた」
「あんまりいい別れ方じゃなかったんですか」
「うん」
ほとんど泡の消えたビールでも、自分の顔は映らない。うまく言葉にできずジョッキをのぞきこんだあんずをちらりと一瞥してから、高峯が「生一つ」と手をあげる。はーいただいま、生一丁! と高らかに店員が叫んだ。
両手で頬杖をついてから、あんずはぽつりと言う。
「二股かけられてたの」
「え」
「いるのは知ってたんだけどね、ちょうど仕事が忙しくって放置してたらふられちゃった」
好きな子ができたんだ、と彼は言った。
あんずが好きになったのとかわらない、誠実な目だった。誠実な声だった。まっすぐにあんずを見る瞳は揺らがなかった。一カ月の間、彼女とあんずを天秤にかけてはかっていたとは思われないほどまっすぐな目だった。
わかった、という了承以外にあんずに残された言葉は何もなかった。
「こんなことになるなんておもわなかったよ」
仕事ぶりがとても丁寧で好感がもてた。人と話す声には体温がかよっていてやさしかった。細やかな気遣いも誠実さも、全部、すきになった。
それなのに、最後の最後で全部裏切られた。
「今までの楽しかった思い出とか、ぜんぶ踏みにじられちゃった気分だ」
「……うん」
あんずの声に頷く声はささやくようで、一度手を伸ばそうとして高峯は手をひっこめた。ひっこめた手でジョッキを持ち上げ、半分以上を一気に煽る。
ぷはあ、と口元を袖で拭った高峯が、あんずを見る目は据わっていた。
「今日は飲みますよ、あんずさん」
これ帰れないやつだ、と浮かべた笑顔はおそらくひきつっていたと思う。
「翠くん、起きて。帰るよー」
ぺちぺちと頬を叩きながら呼びかける。ほんのり頬を赤く染めて机に突っ伏した後輩は、「はい」とも「うん」ともつかない生返事をしたまま動かない。
困ったなあ、と息を吐く。心もち先ほどよりも大きな声で呼びかけた。
「翠くん、起きて」
「………ういっす」
今度はぴくりと身動ぎをした。チャンスだとばかりにあんずはまたぺちぺちと頬を叩く。
「ここ、もうすぐ閉店みたいだから。うちまで連れて帰るけどいい?」
「ういっす……」
「待って寝ないで。身体起こして水飲んで」
手に押し付けた水の冷たさに意識が浮上したらしい。頭をがしがしと掻きながら身体を起こした高峯は、あんずの差し出した水を一気に煽った。とろんとした目があんずを見て、へにゃりと眉が下がる。
「あんずさん、すいません」
「酔っちゃうときもあるよ、大丈夫。とりあえず―――」
「そうじゃ、なくて」
あんずの言葉を遮って、切羽詰まった声が言った。酔ってるわりに案外力の強い手があんずの手首を掴んで、酒で潤んだ瞳がぐいと近づく。
「謝んないといけないんです」
「な、にを」
長い睫毛に縁取られた碧色の瞳はきらきらと透明で、まるで神様のお手本みたいに正確に配置された整った顔が間近に迫る。柔軟剤のほのかなにおいと、酒の匂いがした。
「電話した時、あんずさんが、わかれたっていった時……俺、喜んじゃったんです。電話を切ってから、ガッツポーズしたんです。さいあくでしょ」
ねえあんずさん、俺、あんずさんが好きなんです。
アルコールにやかれた声が、言う。
「ねえ」
手首を掴んだ腕の力はほどけそうにもない。それなのに声はかすれて弱くて、瞳は揺れながら縋るようにあんずを見つめる。
「あんずさん」
いいでしょ?
心臓がうるさいくらいに跳ねていた。ここで許せば何もかもがあやふやになってしまうと思ったけれど、それでもあんずはそれを拒むすべを持たない。この碧色の、透明な瞳に抗うすべなんて。
ちりん、と鍵が鳴る音がした。