奥底に秘する


 夜更けの空気を透明な声が揺らす。

「おしたい、もうして、おります」

 たどたどしく綴る声。それは書き留める長谷部が聞き取りやすいようにという主の配慮だろうが、たとえ彼女がいつも通りのか細い声だったとしても、その言葉をひとつたりとて聞き漏らすつもりはなかった。夜半の静寂はかすかな声さえ大きく響く。
 彼女の声は大きくはないが、それでもきちんと長谷部の耳に届く。

「あー、まって……やっぱり『かねてより、ずっと、おしたいもうしておりました』の方がいいかなあ」
「かしこまりました。『あー、まって、やっぱりかねてより、ずっと』」
「違うよ。真面目かよ」
「失礼。冗談です」
「ならもうすこし冗談らしく言おうか」

 深夜の静謐な空気を吸い込むと、肺が少しだけ冷たさに縮んだ。墨の匂いと、それ以上に強い彼女の甘い匂い。

 恋をすると女は綺麗になる、と昔から言う。
 長谷部の仕える審神者が恋をし始めたのは、長谷部が近侍に据えられてからしばらくした頃だった。元々穏やかな表情と柔らかな雰囲気の可愛らしい少女だった主は、次第に、けれど着実に女になっていった。
 まるで蕾だった花が綻んでいくようなゆるやかな確かさで、彼女は綺麗になっていく。恋をし始めてから随分時の流れた今でさえ。

 長谷部が彼女にある頼まれごとを受けたのがどんな夜だったのか、長谷部は昨日のことのように思い出せる。
 それは奇しくも今日と同じく、静謐な群青色の夜だった。星は無限に瞬いていて、落とした火の影の揺らめきをほのかに受けながら、彼女は顔を赤くして俯いていた。

 すきなひとがいるの。
 けれど、わたしは文を書くことができないから。
 だから、長谷部、ずうずうしいとは思うけれど……。

 言葉尻はか細くすぼんで消えそうで。
 それを無理やり引き取って、長谷部は忠臣の声で言った。

 ―――もちろん引き受けます。主命とあらば。
 ―――でもこんな、私事でしかないこと……。
 ―――主。主は俺に、ただ一言「やれ」と命じてくださればよいのです。

 声はひとつも揺るがなかったと、長谷部は断言できる。刀は自らの心など、捨ててしまえばそれでいい。

「お会いするたび世界が輝くようで、こんな気持ちになるのはあなただけです」

 彼女は綺麗なこえで長谷部の知らぬ人への愛を紡ぐ。
 長谷部がどんな顔をしているか、その両の眼に映ることのないことを、長谷部はそっと感謝した。