夢の果てから
ずいぶんと遠い夢を見た。まだ私たちがローティーンに分類される頃、はじめて自分の進路を自分で決めなければいけなくなった、中学三年生の夏のこと。
茹だるような夏の暑さとじりじりと溶かすような日差しに耐えかねて、幼馴染は私の部屋にきた。滅多なことがない限り自室のクーラーを許さない宗介の家と違って、受験勉強のためというお題目があればうちの母親は比較的甘い。勉強机に向かう私の後ろで寝っ転がって教科書を読む宗介に、振り返らないまま問いかけた。
「宗介って勉強する必要あるの?」
嫌味ではなくて純粋な疑問だ。他の子であれば言葉に気を遣ったりもするが、宗介は言葉に変な邪推をしない。さしてやる気のなさそうな声が、「あんまりない」とあくびまじりにこたえた。
「漫画とか読んでていいよ。私は別に気にせんし」
「気にしてるわけじゃねえよ。推薦でも一応テストはあるから」
「そういうもんなんだ」
「おう」
三角形が合同であることを証明し、問われている角度の答えを見つけてから、慎重な声で問う。
「どこいきたいとか、決めてるの」
「まあ、いろいろ検討中」
二度目の質問に、二度目の同じ回答だった。そう、と、まるで死刑宣告を一日だけ逃れた犯罪者のような気分で息を吐いた私に、そんなこと露ほど知らぬ宗介がどうでも良さそうな声で問う。
「お前は?」
「私はかえてないよ」
そこそこ、というと謙遜になるぐらいの成績をそれこそ小学生の頃から維持している私は、周りから当然のように県下トップの進学校にいくものだと思われていて、流されるままに志望校をそこに決めた。まあ結李は頭いいもんな、と独り言のように呟いて、宗介はぱんと音を立てて教科書を閉じた。
「ねみぃ。寝るわ」
「おやすみ」
そちらを見ないまま言うと、ややあってすうすうと、まるでこどもみたいな寝息がきこえてくる。ちらりと後ろをふりむいてその寝顔をみていると、せつないような思いにぎゅっと心臓を握られた、きがする。
私はなにもかわらないのに、小さい頃からずっと一緒の幼馴染は背丈がずいぶんとのびた。顔つきも精悍になって、まるで大人みたいだ。すこし成績がいいだけで何の才能も持たない私と違って、彼はどこまでも遠くに泳いでいってしまうのだと思った。たとえ高校が県内でも、きっと遠くない未来、宗介は私の前からいなくなる。
その時私は耐えられるのだろうか。そんな不安から逃れるために、机の上に用意された設問にむりやりのように向き合ったところで目が覚めた。朝の光が白く照らす見慣れた部屋と、昨日寝る前に机の隅にまとめて置いた参考書類。暦の上では春だとしてもまだ寒い部屋を、古い石油ストーブが大きな音を立ててあたためている。
時計をみると、目覚ましを設定した時間のちょうど一分前。いくらも経たないうちに鳴り始めた目覚ましを止めて、起き上がり大きくのびをした。
宗介のいない故郷に、私は今日も生きている。
そんな夢を見たからなのか、カウンターキッチンの向こう側で洗い物をしていた母親が思いついたように言った。
「そういえば宗介くん、こっちに帰ってきたらしいわよ」
寝耳に水の言葉だった。今日の時間割をぼんやりと頭に思い描いていた私は何の気なしに頬張っていたロールパンを吸い込んで思い切り噎せたから、「なにやってんの汚い」と冷たい視線を受けることになってしまった。
咳き込んで気道に入りかけたロールパンの欠片を軌道修正してから、私は一応問いかける。
「宗介くんって、宗介?」
「うん、山崎さんちの。東京から帰ってきたって、よかったわね」
これであんたが東京に行く必要はないでしょう? そう言いたげな言葉に、端的に「ちょっと帰省してるだけじゃないの」と返す。一人娘が東京の大学を志望していることを心の底では反対したい母親は、にっこりと笑った。
「違うわよ。こっちの高校に編入するんだって。鮫柄だったかしら」
押しも押されぬ水泳強豪校だ。たしかに宗介が進路として選んでも不思議ではないし、事実鮫柄高校からも推薦はきていたように思う。ただ東京の高校に行くことを決めた彼の顔を思い出すと、その選択肢はやや違和感がある。
考えてもわからないことは考えない。そう結論づけて、私は立ち上がった。
「ごちそうさまでした」
お茶を一息に飲み干す。そろそろ家をでなければ春期講習に間に合わない。模試ではA判定を維持しているけど、夏が終わって部活を辞めてから勉強に本腰を入れる人も多いだろう。今のうちに少しでも差をつけておかなくてはいけない。
そうでなければ、とひやりとした危惧が過ぎる。思い出すのは、中学三年生のときにかんじた焦燥。
私をおいていく、幼馴染の後ろ姿。
「東京の高校にいく」
私の合格発表の日、宗介は静かな声でそう言った。
「とうきょう、」
繰り返す自分の声は宗介の声と比較してひどく頼りない。目が回るほど遠いと感じるその場所を、幼馴染は自分が生きる場所として定義してしまったのだと愕然とした。目の前にいるはずのその人が、同じ場所で同じように生きてきたはずの彼が、もう目を凝らしても見えないほどの距離にいるように思えた。
かすれて声の出ないまま、私は宗介を見た。エメラルドグリーンの瞳は逸らさないまま私をじっと見下ろしていて、そのなかにはひとかけらの揺らぎもないから、それはもう私がなにを言ったところでかわらない決定事項なのだと理解した。
ようやく問い返した声は、ふるえていた。
「いつ、」
いつ、きめたの。
声にならなかったその言葉を正しく理解して、宗介はすこしだけ目を伏せた。
「夏の大会が終わってから、すぐ」
何度も繰り返し死刑宣告を回避したと思っていたのに、それは単純に彼の優しさのためだったらしい。日本地図における東京と故郷の距離と、自分の行動範囲の狭さを思って頭がぐるぐる回るみたいだ。思わず俯くと、地面がひどく遠く感じる。
静かな声が私の名前を呼んだ。
「結李」
引き寄せられるみたいに、私は宗介の顔を見た。小さな頃はふたりの背丈は並んでいたのに、見上げなければいけないほどに大きくなって、もうどうあっても私はきっと追いつけない。
訥々と、頭上で語る声が遠くにきこえる。
「俺は東京に行く。水泳で世界を獲る。だから」
静かな瞳が私を見下ろす。
そして死刑宣告は下された。
「俺のこと、待たなくていい」
私には何の才能もなかった。宗介と同じスイミングスクールに少しの間通っていたことはあったけど、バタフライが泳げるようになった時点でやめてしまった。ピアノもお習字も、人並み以上にできることのないまま。
幼馴染が行く遠い場所に私も辿りつく手段があればいいのに、とその瞬間心の底から祈った。なんだっていい、私も彼と同じ場所にいきたい。東京だろうがアメリカだろうがオーストラリアだろうがどこだっていいし、手段だってなんだっていい。
ただひとつ、願うことは、
「結李」
声にはっと振り返る。春期講習から戻った最寄駅、久しぶりに会う幼馴染の姿がそこにあった。体格がいい上に強面なので仏頂面だと近寄りがたいが、笑顔が案外とかわいいことを小さい頃から知っている。
「宗介」
「おう。久しぶり」
お正月には会わなかったし夏休みにも会えなかったから、会うのはもう一年以上ぶりだ。駆け寄ると、随分高い位置にあるエメラルドグリーンの瞳がやさしい色で私を見下ろした。
「ほんとに帰ってきてたんだ」
「ああ。おばさんにきいてたのか」
「帰ってきてるらしい、って言ってた。鮫柄に編入するの?」
「情報が早いな」
田舎の情報網に苦笑いして、宗介は手に持った紙袋を少し上げてみせる。
「これ、土産。おばさんによろしく言っといてくれるか」
「うん、ありがとう」
紙袋からちらりと覗くのは、バナナをかたどった有名な商品。宗介が行ってしまう日、泣きたくない私が東京ばななの美味しさをずっと語っていたからなのか、お土産はいつもこれだ。
受け取ろうとした私の手からひょいと紙袋を浮かせて、「送ってく」という言葉だけ残して宗介はすたすたと歩いていってしまった。
慌てて追いかけようとした後ろ姿が夕陽のオレンジに照らされる。落日が近くなったせいなのか、赤色に近いその光は、アスファルトに宗介の濃く長い影を落としていた。
それはあいかわらず、涙が出るほど遠い後ろ姿だった。追いかけて、追いかけて。そばにいたくて、何度転んでも追いすがった。誰よりも近かったはずなのに、いつのまにか誰よりも遠い彼。
息のつまった私が追いかけてこないのを訝って、宗介はぴたりと足を止めて振り返った。慌てて小走りでおいかけて、隣に並ぶ。
「春休みも勉強って大変だな」
「ずっと部活よりか大変じゃないと思う。一応A判定は維持してるから、そこまで気も重くないし」
「すげえな」
まあお前昔から頭いいもんな、といつかと同じ言葉を繰り返す横顔を見上げた。すごくなんかないよ、と口の中だけでささやいて、見慣れた故郷の夕空に視線を逸らす。
すごくなんかなかった。何の才能も持たない私が、ひとりで遠くにいってしまう宗介を追いかけるための唯一の手段がそれだった。それしかなかった、一人娘を手放したがらない両親を説得するための方便は。
故郷の道を歩きながら、宗介は言う。
「医学部だっけか」
「うん。いけるかわかんないけどね」
「お前なら大丈夫だろ」
無責任に突き放すようでいて、励ますようなやさしさは慣れた幼馴染のものだ。違う歩幅を眺めながら、私は言う。
「うん。夢、叶えたいしね」
それはまぎれもない本心だ。
最初は追いかけるための方便だったかもしれない。だけど死に物狂いで見つけた手段はいつのまにかきちんと目的にすり替わっていた。宗介を追いかけるためだけじゃない、私はそれを叶えたいから、きちんと毎日弛まず勉強をして努力を怠らないと決めている。
夢を叶えて。
そして、いつか宗介に追いつくために。
彼に恥じない自分になるために、力を尽くす。
「…………すげえよな」
ぽつりと呟いた瞬間、冷たい風が吹いた。潮の匂いを携えたそれをくんと嗅いで、宗介は海のある方へと目をやった。「なあ」と声をかけて、宗介は笑う。
「少しだけ息抜き、していかねぇか」
帰ってきてからまだ海の方行ってねえんだよ。そう言った宗介は、なぜだかすこしさみしげだった。
鮮やかな赤に染まる夕空に浮く雲は、まだ来ない夜の色を映した群青色だ。荒波に削られた海岸がつくる赤と黒のコントラストがひどく眩しい。押しては返す波が岩に弾けて、オレンジ色にきらきらとひかる。
息抜きを言い出してから、宗介はひどく口数が少なかった。元々口数が多いわけではないけど、どこか沈んでいるような。
「綺麗だね」
声をかけてみると、「ああ」と端的な言葉。並んで海を眺めながら考える。宗介が何を考えているのかを考える。幼馴染とはいえエスパーじゃないし、彼の見ている世界は私と全然違うから。
核心をつくことは憚られたから、角度を変えて問いかける。
「宗介が帰ってきたって、おばさん喜んでたでしょ」
「いや、そうでもねぇよ。それにすぐに鮫柄の寮に入るしな」
「あ、そっか。寮生活ってどんな?」
「家と大してかわんねぇな」
生まれてこのかた実家を出たことのない私からすれば随分違うように思うのだが、そうでもないらしい。なんでもないことのようにそう言って、宗介はきこえるかきこえないくらいの声でつぶやく。
「ゆめ、か」
私に対してリアクションを求めた言葉でないことは明白だった。目の前にある故郷の海の夕景じゃなくて、それよりも遥か遠いどこかを見ながら宗介はずっと考えていた。言葉を差しはさむことは憚られたから、私もまた目の前の風景を通して一年後、五年後、そしてさらに先のことを思う。まだ一度だけしか訪れていない、東京という遠い場所のこと。そこに至るために失わなければいけないものと、そこで私が手に入れるであろうもののことを。
うしなうもの。てにいれるもの。
住み慣れた故郷と、ずっと繰り返してきた安穏とした日常。憧れた夢と、東京。
会おうと思えばいつでも会える距離。
「結李」
不意に名前を呼ばれた。引き寄せられるようにそちらを向くと、夕焼け空を背景にした宗介がわずかに口元だけ微笑んだまま、一度だけ目を閉じて細く長い息を吐いた。
「中三のとき言ったこと、おぼえてるか」
「合格発表の日のこと?」
忘れるはずがなかった。微笑んだまま頷いて、宗介は言う。
「水泳で世界を獲りたい、だから俺は全部捨てて東京に行くって決めた。故郷とか、家族とか、全部おいてってもいいくらいの夢だった」
だけど、戻ってきちまった。
かすれた声がささやいて、海岸まで降りていく。足元にあった石を拾って、左手を大きく振りかぶる。綺麗な放物線を描いた石が海面に飛沫を立てるとき、宗介は振り返って私を見た。泣き笑いのような表情だった。
「もう叶わねえんだよ」
そうして宗介は、淡々とした声で語り始めた。
肩を痛めたこと。リハビリを乗り越えて、ようやく練習に戻れたと思えばいくらも経たないうちにまた痛みに襲われること。痛みへの恐怖が体に染み付いてしまったこと。
立ち止まればおいていかれることを知っているのに、痛みは否応無く宗介の歩みを妨げる。かつての自分の自己ベストよりも遅い記録の選手が試合に勝ち抜いて、世界で一番幸せそうに笑う。かつて宗介を称えたチームメイトが、練習を重ね研鑽を積み、目の前を走り抜けていく。
「頑張ればどうにかなるなら頑張れるが、頑張ってももうどうにもならないから、諦めるしかないってわかったんだ」
訥々と語る言葉はいつかとおなじで、頭がぐらぐらと回るこの感覚にも既視感を覚えた。浮かびそうになる涙をこらえるために唇を噛んだ。どう考えても泣くべきは私じゃない。私のこれは、一体なんだ。
大きくひとつ息を吐く。
罪悪感だ。
私なんか顧みることなくおいていく幼馴染を追いかけるために勉強に励んでいた、それは絶対に嘘じゃなかった。夢を追いかける宗介のそばにいくために、私は私の夢を見つけようと思った。夢を見つけて、努力して。そして、宗介のそばにいきたかった。
だけど。
呪わなかったときかれたら、呪わなかったと何の呵責もなくこたえることができるだろうか。ひとりだけ、遥か遠くへ行ってしまう幼馴染のことを。私のことをひとり故郷においていく彼のことを、呪わなかったと胸を張っていえるだろうか。
私も夢を見つけるなんていって、さみしさやくるしさにふたをして忘れた気になっていたけれど、私をおいていく彼のことを、恨まなかったといえばきっとそれは嘘になる。
おいていかないでほしかった。
有り得ないとはわかっているし、そんな風に思うことすら彼の身体や傷に対する冒涜だと知っている。けれど、自分が抱いていた子供っぽい卑屈やばかみたいな劣等感、屈折した思いに頭をぶん殴られたみたいな気分だった。
そんなことなんて露ほども知らず、宗介は柔らかな声で「そんな顔すんなよ」と笑う。
「お前がそんな顔する必要ねえよ。俺に何にもなくなっちまったわけじゃないんだ」
「……………………」
「世界の夢は叶わない。だけどさ、ばかみたいだけど、なにもかも諦める前に一度だけ、泳ぎたいんだ」
あいつと一緒に、と、掠れた声がささやく。
「何も叶わなくても、何も手に入れられなくても。それさえあれば、その記憶さえあれば、俺はもう満足だって」
「……………………」
「だからそんな顔すんなよ」
困ったように微笑んで、知っててほしかったんだ、と宗介は言った。
「知っててほしかった。ばかみたいだけど、もう俺にあるのはそれだけなんだ。でも、お前くらいにしか言えねぇんだよ」
すっきりした。
そう笑った顔は全然すっきりなんてしてなくて、諦めたくないと足掻いていた。けれど宗介の理性は諦めてしまったのだと思った。諦めたくないと泣く感情の声を押し殺して、何もかも諦めて、そのかわり手に入れたささやかな祈りに似た願い。
それを叶えるための季節が、始まる。