春の夜空のようにやわらかで


 おやつの時間を終えたオーエンが魔法舎の庭へ出てくると、賢者の声が聞こえた。かすかで遠くの、それは知らない歌だった。
 声はかすれず春の夜空のようにやわらかで、ただしく音階をたどっていく。オーエンはその声を追いかけるように足早に歩いた。
(…………いた)
 見つけた彼女はたったひとり、名前も知らない白い花がふわふわと風に揺れる中で気持ちよさそうに体を左右に揺らしている。長い髪を風がさらうのを気にとめることもなく。
 知らない歌は傍で聴いてもやはり知らない歌で、楽しげな彼女の口からあふれる歌詞はどれだけ聴いても知らない言葉だった。明るく穏やかな曲調の、知らない言葉。
 彼女が異邦人であることを改めて思い知る。そのかえるべき場所のことも。
「……うわっ、オーエン! いるならいるって言ってくださいよ」
 唐突に歌が止まり、上擦った、だけど知っている言葉で彼女はオーエンにそう言った。鳩が豆鉄砲を食ったような間抜けな顔に、オーエンは意地悪な笑顔を浮かべてみせる。
「聴いてたんだよ」
「歌のうまい人に歌を聞かれることほど恥ずかしいことないんですけど……」
「そうだね、きみの歌はひどかったから」
「歯に衣着せぬストレート音痴宣言、あまりにも無慈悲……」
 しょんぼりと肩を落としたのなんて委細構わず近づいて背中合わせに座り込んで、あたたかな彼女の小さな背中にぐいと体重をかけながらオーエンは思う。
 うん、きみの歌はひどかったよ。かすれて声のでない、あの日の歌は。
 いつまでたっても耳に残るのはいつか聴力を失った彼女のうたったあの歌で、オーエンは目を閉じて彼女にねだる。
「もっとうたって」
「えっ、いま音痴っていったくせに……」
「そうだよ。うたわないと殺すよ」
「ええー……」
 背中合わせの向こう側で渋る彼女に見えないことはわかっているけど、オーエンはにっこりと笑ってもう一度おねだりをした。

 ねえ、うたって。

 唸っていた彼女はふと名案を思い付いたように明るい声で言う。
「それなら一緒にうたいませんか」
「は?」
「わたしの故郷の歌なんです。わたし、あなたの歌も聞きたい」
「……まあ、べつにいいけど」
「やった!」
 そうして彼女は知らない異国の言葉でワンフレーズうたってみせ、オーエンもそれをくりかえした。一回でうたえるようになるなんてすごいですよね、と彼女は無邪気に言う。オーエンの背中にも彼女の体温が重なった。預けられた体重をおもうと自然に口がへの字になるが、いやだって拒むほどじゃないのが余計お腹をむずむずさせて気持ちが悪い。
 楽しげな声で彼女は言った。
「これはね、故郷を思う歌なんですよ」
「…………」
「ギャッ」
 オーエンが魔法で転移すると、支えを失った彼女はすてんと後ろに転がった。そんな歌なんてうたわない、とオーエンが振り返らずに足早に立ち去ると、後ろから「きまぐれだなあ」なんてのんきな声が言う。



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