うたかた、夜のはてまで


  1

 朝目覚めたとき、舌がぴりぴりする。かすかに感じた、けれどさして気にするほどでもないような、そんな違和感が落とした影が日常を侵すまでそう時間はかからなかった。
 カーテンの隙間から漏れる一条の光が室内を照らす朝。こんこんと扉を叩く音が聞こえて、向こう側から「賢者様、起きてますか?」とヒースクリフが呼んだので、「今行きます」と返事して寝間着から着替えはじめる。ボタンをひとつずつ外しながら、べえっと舌を出してみた。強い炭酸を飲んだときのような舌の痺れは、それでもやっぱり治らない。
 身支度を終えキッチンにやってきたわたしに、ネロは「おはようさん」と笑った。
「おはようございます、ネロ」
「朝飯ちょっと待ってな。コーヒー飲むか?」
「あ、嬉しい。いただきます」
 歯磨きでは治らなかったけど、飲み物を飲んだら治るだろう。ネロが渡してくれたマグカップを受け取って、ブラックのままで一口すする。普段は砂糖を入れるのだけど、なんとなく出来心で飲んでみたそれは意外なほど舌に馴染んで美味しかった。
「あれ、ミルクと砂糖は?」
「たまには大人気分で」
「飲み過ぎると腹壊すから気ぃつけなよ」
 ていうか大人って年でもないだろ。と呆れ顔で言われたが、それは明らかに基準がおかしいだけだ。ブラックコーヒーを飲んで大人ぶるのは、確かにこどもっぽいけれど。
 朝ご飯ができあがる頃にはもう魔法舎の面々はおおむね揃っていた。カインにハイタッチして、眠たげなあくびをくりかえすフィガロを「昨日お酒飲んでたんでしょう!」なんて叱るミチルをなだめて、コーヒー用に用意された角砂糖をばりぼり食べようとするミスラを止めて――そんなふうにしていると、ネロが「飯運んで」と呼びにきてくれた。
 今日の朝ご飯はクロワッサンとベーコンエッグ、それから桃のコンポート。みんなで「いただきます」と手を合わせカリカリのベーコンときれいな白身、黒胡椒に彩られた鮮やかな黄身をフォークで切る。半熟の黄身が溢れでてベーコンや白身と絡んだ。そのままぱくりと一口。
 ――感じたのは、味がしない、ということ。どろりととろける黄身やぷるんとした白身、カリカリのベーコンの食感はするのに、そこから舌に感じられるべき味がごっそりと抜け落ちている。まるで良く出来た偽物を噛むようなその感触に、わたしは戸惑って口元を押さえた。
 ちらりと周囲をうかがうが、他の誰もが美味しそうにもぐもぐ食べていて、もし何か味付けに不足があれば歯に衣着せず指摘しそうなシノやムルも何も言わずに美味しそうに口を動かしている。あれ、とわたしは戸惑った。どうしてだろう。わたしがなにかおかしいのかな。
 クロワッサンもちぎって口に運んでみる。さくさくと軽やかな食感からバターの風味や塩味やほのかな甘さが、ごっそりと抜け落ちている。まるで幾重にも重ねられた和紙を食べているようなその感覚に内心慌てつつ、桃のコンポートを試してみた。――同じだった。
 どうしてだろう。途方に暮れたような気持ちでブラックコーヒーをすする。それだけは強い豆の苦みを感じられたのでほっとしていると、テーブルの向こうからネロの心配そうな声が飛んだ。
「どうした、賢者さん。なんかまずかったか?」
「えっ」
 挙動がおかしかったらしい。慌ててわたしはにっこりと笑顔をつくってみせた。
「いえ、いつもどおり美味しいです。ただ昨日夜更かししてしまったから、ちょっと食欲が」
それまで黙って桃のコンポートをひたすら食べていたオーエンが、へえ、と微笑みながら言う。
「それならかわりに食べてあげようか」
「おまえが食べたいだけだろ……賢者さん、何か身体によさそうなもんでも作ってやろうか」
「いえ、大丈夫です。わたし、やっぱりちょっと寝てきますね」
 そんな言葉をおいて、わたしは逃げるように食堂を後にした。

 かすかだけど消えることのない舌の痺れが食べ物からすべての味を根こそぎ奪い去ってしまったのだと気付くのにそう時間はかからなかった。そして同時に、わたしはこれをできるだけ隠そうと決めた。べつに他に不調があるわけでもないし、ただ単純に生活から食事の楽しみがなくなってしまっただけのこんな症状、ただでさえ気遣ってくれる魔法使いたちに知られて余計な心配をかけたくない。
 だから今日もわたしは嘘をつく。
 甘い林檎のゼリー、生クリームを添えたレアチーズケーキ、ナッツの入ったトリュフチョコ。趣向を凝らしたお菓子にすらも味を感じることができないまま、食欲はどんどん薄れた。唯一味の感じられるコーヒーにすがりつくようにしながら、ただひたすら自分の身体に必要な栄養素を摂取することだけを目的に味のしない食べ物を咀嚼して、美味しいですって嘘をつく。わたしはできるだけ彼らに正直でいたいと思っていたけど、意味のない嘘はどんどん積み重なり、膨れあがってしまった。
 ある日、なんでもない雑談のようにわたしはフィガロに言った。
「そういえばこの間、味が感じられないって嘆いてるおじいさんに会ったんです」
 さすが医者とでも言うべきか、彼はさらりと答えて笑う。
「年を取ると味覚は衰えていくものだからね。他の神経と一緒だ」
「へえ、そういうものなんですか。……でもその人、昔からだって言ってましたよ。ある日突然ご飯が美味しくなくなって、それからずっとそうなんだって」
「ふうん」
 親指の腹で自分の唇をなぞるようにしながら、「栄養不足かなあ」とフィガロは首を傾げる。
「亜鉛の不足とか、病気で唾液の分泌機能が落ちてしまったりとか……あとはストレスでもなるね」
「ストレス……」
「心って思っているより弱いからね。心のダメージは身体機能を破壊しうる」
「…………」
 思わず黙ってしまったわたしの瞳を覗き込みながら、フィガロはすうっと目を細めた。
「それが、どうかした?」
「――いえ」
 動揺したら気付かれる。いや、フィガロのことだしとっくに気が付いているかも知れないけど、でもこの調子だと、わたしが誤魔化せば気が付いていても黙っていてくれるのかもしれない。
 わたしはわざと痛ましげな顔をつくって言った。
「その人、食べるのが好きだったって……長いこと味を感じていないけど、最後くらい美味しいものを食べたいってぼやいてたんです。何もできなかったのが歯痒くて」
ああ、嘘が増えていく。フィガロは困ったように微笑んで「味がわからないのはつらいよね。人生の楽しみの大部分を占めるものなのにさ」と言った。
 そうですね、と頷くと、ささくれだった心に共鳴するように舌がぴりぴりと痺れる。

 今日のおやつはシュークリームだった。わあ、と嬉しそうな声をあげたリケに苦笑しながら「召しあがれ」とネロは言った。綺麗なきつね色に膨らんだクッキー生地に、溢れるほどのカスタードクリーム。コーヒーをおともに、わたしはリケやミチルと声をそろえてぱちんと手を合わせた。
「いただきます」
 覚悟を決めて口に運ぶ。クッキー生地はさくりと軽い食感で、ぱさぱさと口の中でひび割れる。どろりとしたカスタードクリームがそれに絡んで、ざらざらと気味の悪い音を立てた。粘液のような食感の、味のしないそれをどうにか飲み下す。こみ上げてきた吐き気をコーヒーで洗い流して、もう一口。
 ぞわりと肌が粟立つような気持ち悪いその感覚を、必死で受け入れようとする。
「ネロ、美味しいです」とリケが幸せそうに言った。わたしも微笑んで「そうですね」と言いながら、なんだか泣きだしたいような衝動に襲われた。わたしはどうして嘘をついているんだろう? こんな、何も意味なんてない嘘を。
(わたしは、)
 前触れもなくひょいと後ろからのばされた手に、シュークリームを奪われた。目の前のミチルが嫌な顔をする。振り返るともぐもぐと幸せそうにシュークリームを頬張りながら「美味しい」とオーエンが上機嫌に笑っていた。ネロが呆れ顔で言う。
「おまえな、人の取るなよ。おまえのやつもキッチンにあるのにさ」
「そうなの? やった」
 悪びれることなくわたしのシュークリームを食べ終わったオーエンは、唇についたクリームをべろりと舌で舐め取った。黒い紋章がちろりと覗く。
「人のものを取るのは泥棒ですよ」と厳しい口調でミチルは言った。「ふうん?」と楽しげに口を歪めてオーエンが笑ったので、わたしは慌てて仲裁に入る。
「ミチル、いいんですよ」
「でも、賢者様」
「食べたい人が食べるのが一番ですから。……でもオーエン、わたしの以外はとっちゃだめですよ」
「へえ、おまえのはとっていいんだ」
 左右で違う色の瞳でわたしをじっと見据えながら、面白くないとでもいうようにオーエンは口の端を歪めて、きまぐれな猫のようにふいとキッチンに姿を消してしまった。優しいミチルは「賢者様、僕とはんぶんこしましょう」と気遣わしげにこちらを見たけど、丁重に断ってコーヒーを飲む。
 本当に救われたんだ、なんて、とてもじゃないけど言えなかった。

 どうしてこうなってしまったんだろう、と思う。わたしは彼らと友人になりたいと思い、できるだけ彼らに誠実でいたいと願っていた、はずだ。もちろん友人だから何でもかんでも話さなければいけないなんてそんなわけはないけど、こんなふうに隠して、意味のない嘘をつきつづけることを誠実と言えるだろうか。口の中がずっとざらざらとして気持ちが悪い。最初はほんのすこしの違和感だけだったのに、いまではもうそれがわたしの感覚のすべてのように思えた。
 ぴりぴりと痺れる舌からつきたくもない嘘がぽろぽろこぼれでるから、もうそんなもの全部失われてしまえばいいと思った。もうなにもきこえなくなって、わたしの嘘も、全部消えてなくなればいいのにと心の底からそう思って、

 そうしてわたしの聴覚は失われた。


    2

 耳のきこえなくなった賢者にフィガロは困ったように「どうしたものかなあ」と首を傾げた。勉強中ではあったけど賢者にとってこの国の文字はいまだ使いこなせるものではなく、簡単な日常の意思疎通ならなんとかこなせるものの、それより複雑なことになってくるとすぐに困難にぶち当たる。各国から魔法舎に寄せられる任務を遂行するのは、声と耳があってはじめてできることだった。
 アーサーたちにまかせてきみはしばらく何もしないこと、とフィガロは穏やかな声で言う。
「とりあえず命の危機に瀕するようなものではないから、しばらくは静養しよう。無理をしないよう、できるだけ日々を穏やかに、楽しく過ごそうか」
 そしてフィガロは賢者の喉を覗いて異常がないことを確かめてから、口元に寄せた手を開いて「声を出して」と言った。ジェスチャーの意図を正しく掴んだ賢者はその通りにしようとしたが、声を出そうとした瞬間に見えない手で締められたみたいに喉がぎゅうっと詰まってかすれた吐息しか出なくなる。それでも出そうと努めると、見えない手の力はさらに強くなって咳き込んだ。涙目になってげほげほと苦しむ賢者に白湯とシュガーを渡しながら、フィガロは「なるほどね」と小さな声でささやいて顎に手を当てた。
 わたし、なおるんですか。そんな切実な瞳がフィガロのことをじいっと見つめたから、薄く微笑んでフィガロは「心配しないで」と言った。
「きみはなおるよ。だけどちょっと時間が必要なだけ」
 誠実に頷いてみせると、彼女はそっと目を伏せた。


   3

 何もきこえない世界は透明な膜を隔てたみたいにどこか現実味を欠いていて、まるで自分の身体に起こったことじゃないみたい。味もなく音もない世界はひどく空虚で、気遣わしげにわたしの顔をじっと見つめる表情も、にっこりと無邪気に笑う顔も、まるで目に映るものすべてが張りぼてみたいな感じがした。
 みんなわたしを気遣ってくれていた、のだと思う。だけどそれはどこか他人事のようで、わたしは居心地の悪さを感じていた。だから他人に心配をかけない程度に人目につく場所にいて、それ以外はひとりで過ごすようになった。誰もいない場所で何もきこえないまま、ぼうっと降り注ぐ日の光を見つめたり、小鳥が軽やかに飛び回る様を眺めたり、下草のやわらかさを心地よくおもったりする。嘘のない、なんの義務もない、そんな時間はいとおしかった。
 なかなか会わなくなった人もいた。その代表格がオーエンで、元々彼は魔法舎にはきまぐれにいたりいなかったりしたけど、わたしがこうなってからはより一層顔を見なくなってしまった。元々任務やらなんやらで顔を合わせることが多かったからだろう、任務がなくなれば彼がわたしの前に現れる理由なんてない。
小鳥が遊ぶように周りを飛び回るのをただ見つめていると、ふととなりに誰かが腰を下ろした気配がした。
「…………」
 振り向くと、今ちょうど考えていたその人が座っていたのでわたしは目を真ん丸に見開いて彼を見たけれど、オーエンは何も言わないまま――もしかしたらきこえなかっただけで何か言っていたのかもしれないけど――わたしのことを見ずにとなりに座り、そしておもむろに口を開く。
 わたしの耳には何も届かなかった。だけどわたしの周りで遊ぶように飛び跳ねていた小鳥はぴくりと彼のことを見て、そして応えるように羽ばたき嘴を動かした。小鳥のその喜びようを見ていると、この耳にきこえなくたって、彼はうたっているのだとわかる。綺麗な横顔が、わたしにはきこえない声で、わたしのしらない歌をうたう。
 やわらかな緑の木漏れ日、オレンジ色の太陽の光、白い外套をその身にまとった儚くうつくしい人。不意に泣きそうになって、わたしは慌てて自分の目に手をのばしかけて、でも彼の目の前で泣くことに躊躇した。きっと泣けば彼を困らせる。この歌がやんでしまう。ずっときいていたかったから、だからわたしは逡巡した。
 けれどためらった手を彼が掴んだ。オーエンはわたしのことを見ないまま、掴んだ左手を自分の喉に触れさせた。

(――ああ、)

 ほのかにあたたかい、近い体温の喉から伝わる振動が歌になってわたしの耳に届いた気がしたから、喉が詰まって何も言葉にならなかった。だけど何かを伝えたかった。何かを返したいと思った。
さきほどは首を絞められたようになって声の出なかった喉から歌があふれる。自分の耳には届くことのない、きっとかすれて音程もあわないひどい声の。
 彼はうつくしく微笑んで、そのままうたいつづける。
 うそつきで天邪鬼な彼の前で、わたしはほとんど嘘をついたことがなかった。そもそもわたしにほとんど気遣いをしない彼に対して、取り繕う必要がなかったから。わたしを苛みつづけたたくさんの嘘をおもって、わたしは泣きそうに目を伏せる。彼の歌には嘘なんてひとつもない。いつまでもこうしていたいとおもった。彼のとなりで、嘘のない世界で、ただ生きていけたら、だなんて。
 たしかに耳に届いた気がした彼のきこえない歌、青からすこしずつ色をかえてやわらかな橙色をほんのりとまとう空、となりに寄り添うあたたかな体温、飛び交う小鳥のかわいいさえずり。彼のうつくしい横顔を眺めながら、しあわせがゆっくりとにじんでいく。
いつまでもそうしていられたらよかったのだけど、お日様が山の向こう側に落ちてしまったからもう戻らなければならない。夜が完全に世界を覆ってしまう前に彼はわたしに手を差しのべて、魔法舎へと導いてくれた。
 それはやはり泣きたくなるほど優しい、あたたかな手だった。

 唐突な目眩に視界が暗転した瞬間から、今度はわたしは視力を失った。
 彼がうたって、わたしもうたった、その日の夜のことだった。


  4

 なにをしようにもなにもできない。それからは冬眠するようにただひたすらわたしは眠っていたが、何日経過したのかもわからないある日、知っている手に揺り起こされて深い眠りから醒めた。そのまま何も言わずに彼はわたしの手を引いて、帰る道のない片道の旅を踏みだした。
 昼も夜もないただの暗闇の中、わたしは手を引かれて歩きつづける。そして足がくたびれた頃、彼はわたしを座らせて何かの食べ物を与え、そして抱きしめて眠る。朝になるとわたしのことを揺り起こし、また歩きはじめる。ただそのくりかえし。
 何も見えない、何もきこえない白紙の世界で、そのあたたかな手だけがわたしを導くすべてだった。たったひとり放りだされればなすすべなく死ぬだろうことはわかっている。だからいつそのあたたかさが奪われるのかとわたしは怯えていたけれど、片時も離れずそのあたたかさは傍にいた。彼に揺り起こされる前に目覚めてもオーエンはすぐそこにいて、すこしの隙間もなくぴったりと寄り添うようにわたしたちは抱き合っていた。すぐそこにある浅い寝息をたどり、そっと首筋に触れると、指先にゆったりとした鼓動が伝わる。
どうして彼はわたしを連れだしたんだろう。わたしたちはどこへ行くんだろう。
 どこまでもいきたい、と思った。どこまでも、ふたりで、あるいていけたら。

(そんな幸福なこと、あるわけがないけど)

 それでも――泡沫の夢だとしても、どうか信じていたい。
 いつか終わりが来るんだとわかりきっているこの旅路も今はまだ続いているから、わたしはふたたび微睡みに落ちる。


  5

「あなたはいつまで逃げているの?」
 雑踏の中、聞きなれた声がそう言った気がして振り返る。街を行く人はみんな早足で、こちらのほうなんて見てもいない。すこしの間わたしは足を止めて急ぎ足でばらばらにどこかへ向かう人々の群れを眺めていたが、気のせいだろうと結論づけて目的地へと向かう。べつにわたしだって時間に余裕があるわけじゃない。早く会社にいかなくちゃ。今日も片付けなくちゃいけない仕事がたくさんあるんだから。
 何かをわすれているような気がしたけど、そんなことを考えていたら遅刻する。腕時計を確認して、わたしは通勤バッグを抱えなおした。
 午前中は入力作業に追われ散々だったし、午後からは統計報告が待っている。長い間ずっと画面を見ていたから乾いてしぱしぱする目に目薬をさして、わたしは大きく伸びをした。
「お疲れさま」と同期に声をかけられて、置かれたコーヒーを受け取りながら「ありがとう」と言う。彼女はにこにこと笑った。
「晶ちゃんが疲れてるの珍しいね」
「そうかな……なんかパソコン久しぶりに触ったから、全然思ったように作業が進まなくて……」
「えっ、なんか連休とってたっけ?」
「いや、とってないはずなんだけど……あれ?」
 疲れてるんじゃない? と心配そうな顔にあははと曖昧な笑い声で誤魔化した。そういうときにこそ美味しいものを食べにいこう、というランチの誘いを「お弁当あるから」と丁重に断り、明日美味しいオムライスを食べにいく約束をして彼女に手を振る。
(――約束)
 ふと何かが頭をかすめた気がして顔をしかめた。たとえば明日、急ぎの仕事や何かのせいでランチにいけなくなったとして、わたしたちは簡単にそれを相手に伝えてそのままなんだろう。いつか、そんな軽いものじゃない、大事な約束を交わした気がする。
 ふと思考に沈みそうになったわたしの目に入った時計の指し示す時刻が、昼休みが残り少ないことを伝えていたから慌ててお弁当を取りにいく。

「疲れたぁ……」
 もう暗い帰路を、ぐったりとした体を引きずるようにして歩く。午後もなんだかんだと要領が悪くて仕事が終わらなかったから、結局こんな時間まで残業することになってしまった。今日は猫ばあさんのところにいくのはやめておこう。猫に癒されたいのはやまやまだけど、明日の仕事に響く気がする。
 ぐったりとエレベーターのボタンを押して、やってくるのをただ待つ。それほど待つことなくたどりついたエレベーターに乗り、目的階のボタンを押してそのまま壁にもたれて目を閉じた。緩慢な上昇をはじめたエレベーター特有の浮遊感をおもいながら、明日するべき仕事について確認をする。朝一番であのメールを送って、それから――。
 息遣いのように軋む機械音に紛れるほどに小さな声がまた聴こえた。

「――あなたは逃げだしてしまうの?」

 ぎょっとして目を開くと、さっきまで蛍光灯の白い光が明るく照らしていたエレベーターは真っ暗になっていた。もたれていたはずの壁もなく、ただ茫漠と広い真っ暗な空間だけが広がっている。そこにひとりの女が幽鬼か何かのたぐいのように、ぼんやりと立っていた。白いフードに隠されてその表情をうかがい知ることはできない。彼女はもう一度静かな声でくりかえした。
 あなたはいつまで逃げているの? このまま逃げだしてしまうの?
「逃げるって、なにから……」
 脂汗が浮いたけど、わたしはどうにか聞き返す。彼女は失望したようにその肩を落として、わすれてしまったの、とささやいた。
「約束を、したのに」
「…………約束?」
「とても大事な約束を。あなたは力を貸すと言ったわ、それなのにわすれて生きていくのね。何の報いも受けることなく、何の呵責も感じることなく、ただわすれてしまうのね」
 わけのわからない言葉だった。どういう意味ですか、と訊こうとしたその瞬間、予想だにしなかった知らない記憶の奔流に襲われてわたしは息ができなくなる。通勤路、おおきく輝いていた月と騒ぐ猫。異世界へとつながっていたエレベーター。かえる手立てのない片道の旅とそこで出会ったたくさんの人々。彼女がフードをふわりと払う。
 そこにいたのはわたしだった。ああ、この服を知っている。誰かの声が脳裏を過ぎる。いつかわたしが交わした約束。
 ――力を貸してほしい。

「!」

 途端にすべてが鮮明に蘇って、反射的にわたしは駆けだそうとした。みんなのところへ帰らなきゃ。けれどわたしの足は止まる。強い力で手を掴まれて、阻まれる。
「どこへいくの」
 見慣れた黒いスーツを着たわたしが、泣きそうな顔で厚手の白いパーカーを着たわたしの手を、強く掴んでいた。ねえ、かえろうよ。泣きそうな顔のまま、《あちら側》のわたしが言う。
「あんな世界知らないよ。わたしはわたしのうまれた世界で生きていきたい。ねえ、かえれるんだからいいじゃない。約束なんかもう知らないって、破ったっていいじゃない。わたしはわたしのほうが大事だよ。何度も怖い思いをして、何度も嫌な思いをして――ねえ、わたし、ほんとうにかえりたかったよ。
それなのに、どうして望んで傷つこうとするの?」
「…………」
 これも、まぎれもないわたしの本心。
 なんでわたしなんだろうって、ずっとずっとおもってた。わたしにしかできないこと。賢者の役割。わたしのことをかけらも知らない人が、賢者様はすばらしいって遠目から白々しく褒めたたえる。

 わたしはただの人間なのに。
 ただ必死にもがいているだけの、ただの人間なのに。

 すべて投げ捨てて逃げだしたいと思った。嘘をつくことがつらかった。笑いたくなんてないのに笑うことが嫌だった。逃げだした先で得た束の間の安寧とかりそめの幸福に沈む自分が嫌いだった。
 ――だけど。
「わたしは、約束をしたから」
 だから、どれほどつらくても。
 逃げだしたくても。
「帰らなくちゃいけないんだ」
 ぽつりと呟いた言葉をきいて、腕に縋りつく《あちら側》のわたしの顔にさっと絶望の色が浮かんだ。腕を掴む手からゆっくりと力が抜けて――けれど次の瞬間、痛いほどにぐっと掴まれた。《こちら側》のわたしを睨む《あちら側》のわたしの瞳は奇妙なほどに真っ暗で何の光も映さない。その空虚な瞳が、一度逃げだしたくせに、と低い声でなじる。
「役目を投げ捨てて逃げだしたわたしが、許されるわけないのに」
「…………」
「一度逃げだしたわたしが戻って来たって、きっと誰も迎え入れてなんてくれない。軽蔑されて、失望されて、もうおまえなんかいらないってみんな言うにきまってる。それなのにわたしは帰ろうとするの? 自分の居場所でもなんでもないのに、どうしてそんなことをするの。そんなこと、しなくたっていいじゃない。わたしはわたしの場所で生きていけばいいじゃない!」
 怒りの奥に泣きだしそうな震えをはらんだその声をただ聞きながら、わたしは気持ちが凪いでいくのを感じていた。

 彼の声を思いだす。
 きこえなかった、けれどきこえないはずの耳が確かにとらえた、やさしい声を思いだす。

 ――きみを逃がしてあげる。

 嘘をつくことが正しいと信じるなら嘘をついたってかまわない。抱えきれないのなら一度すべて投げ捨てて逃げだしてしまえばいい。小さな子供のようにやるべきことからひとしきり目を逸らしたあと、ふたたびまっすぐ向き合えばいい。
 きっとオーエンは心底どちらでもよかったのだろう。わたしが逃げだしたまま帰れなくたって、あるいはわたしがふたたびこの世界と向き合おうと決めたって、きっとどうでもよかった。ただ歩きつづけて、静かにわたしを導いた。そして逃げだした先で、わたしは自分の願いを見つけた。
(……わたしは、)
 逃げたくないの。語る声は静かに響く。
「逃げたくない。みんながいるこの世界のために、わたしじゃなきゃできない何かがあるのなら」
 傷ついたような顔で、《あちら側》のわたしは呆然とわたしを見た。だからわたしはすこしだけ微笑んで腕を掴んでいた手をそっとほどき、もう振り返らずに歩きだす。胸は張り裂けそうに痛かったけどもうわたしは逃げない。そう、決めた。


 ――できることなら、ずっとふたりで、どこまでもあるいていきたかったけど。


 そして目覚めたわたしは朝の光の中で、両手を背中の後ろにまわしてかたくわたしを抱きしめる彼の穏やかな寝顔をじいっと見つめ、白い頬をするりと撫でた。そして彼を起こしてしまわないようそっと腕から抜けだして、目を刺すような眩しい朝日に向き合ってぼんやり考える。魔法舎に帰ったらどんな言い訳をしようか。もしかしたらなんの言い訳も必要ないかもしれないけれど。
 やがて後ろでオーエンが身を起こし、「賢者様」とわたしを呼ぶ。ぽつりと空間に滲むような、平淡で静かな声だった。
 こんなふうに呼ばれるのは久しぶりな気がする、なんて場違いなことを考えながら、そのさみしい声に振り向いてわたしは笑ってみせた。
「帰りましょう、オーエン」
 傷ついたように揺れた瞳を静かに閉じて、彼はひとこと「うん」と言った。



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