涯て、夢としゅうちゃく


  1

 窓の外、締めきったカーテンの向こう側から雨の気配が漂っていた。
 さあ、と細切れの雨音が断続的に響いて、大小様々の雨粒が時折窓をノックする。それらをただなんともなしに聴きながら、オーエンはゆっくりと目を開いてとなりで眠る彼女を見る。血色のない白い頬、浅い呼吸をゆっくりとくりかえす薄い唇。
 賢者様、と呼び掛ける。けれどその深い眠りから彼女を引っ張りあげるにはその声は力不足で、彼女はただ呼吸をくりかえしながら、ながく、夢を見ている。
 どんな夢を見ているんだろう、とオーエンはぼんやり思った。となりにいても、決して同じ夢は見られない。それは当たり前のことだったけど、その当然はさみしさを消し去ってしまうにはたりなかった。
 ねえ、賢者様。もう一度呼び掛ける。
 きみはいま、どんな夢の中にいるの。
 手をのばし、その白い頬に触れる。その頬はいつも死人のようにきよらかにつめたい。


  2

 こんな夢を見た。
 トランペットの音が遠くから響く。放課後のざわめき、さざめくような音や声。それらがすべて薄い膜を通した世界の向こうから聞こえてくる。
 心地よい微睡みから目覚めるためには、案外と力が必要だった。起きたくない。まだ眠っていたい。そんなふうに足掻くわたしの葛藤は、外的刺激によって唐突に破られた。
 賢者様。楽しそうな声が呼んで頬が遠慮ない力でつねられる。わりと、いや、かなり痛い。わたしは顔をしかめながら顔をあげ、頬をつねる手に触れて眉を下げた。
「やめてくださいよ……」
「あはは。賢者様、すっごく間抜け面だったよ。いい夢でも見ていたの?」
「夢……は、見てなかったかも」
 ふわあ、とひとつ欠伸をする。わたしの座る机のひとつ前で、横向きに椅子に座って足を組んでいるオーエンはいつもの見慣れた白い外套とスーツ姿ではなく、わたしの母校の制服姿だった。ぱちぱちとふたつ瞬きをしてその違和感を飲み下そうとしたけれど、やはり飲み下せなかったからわたしは小首を傾げて問う。
「なんですか、その格好」
「その格好って? 学校だから制服なのは当たり前でしょ、賢者様ってへんなひとだね」
「ええー……」
 一応確認してみると、わたしも懐かしい制服姿である。わたしの記憶が正しければ『賢者様』なんて呼ばれたのはあの大きな月の浮かぶ世界が初めてで、この制服で過ごした日々の中、そんな呼ばれ方をしたことは一度もなかったはずなんだけど。まじまじと見つめる彼の瞳はやっぱり赤と黄色のふたつの色で、信号機みたいだな、と改めてまぬけな感想を思う。
 朝からしとしとと降り続いた雨のようやくあがった夕焼け空は不気味なほどのピンク色で、生成り色のカーテンの奥で紫色の雲がゆらゆらと揺れている。
 空から視線を外し時計を見て、わたしはぽつりと呟いた。
「止まってる」
「うん。結構前からだよ」
「そうだっけ」
 五時四十二分を指し示す時計の針はぴたりと止まって動かない。はてさてわたしは何をしていたんだったかと大きな伸びをしながら考えて、机の上に視線を戻すと日誌がある。ああそうだ、思いだした。これを書いてる途中で眠くなっちゃったんだった。
 細くて白い骨張った指が日誌をすうっとなぞる。
「五限、古典B」
「何したっけ?」
「伊勢物語、さらぬ別れ」
「ありがとう」
 頷いて言われた通りさらさらと書く。六限は覚えてる。数学U、複素数と方程式。遅刻欠席、日直の一言、明日の連絡事項と、必要項目を全部埋め終えたわたしに、オーエンはにっこりと笑って「五限」と言った。
「間抜け面で寝てたね」
「な、なんで前なのに見てるんですか」
「プリント回してあげたのにぐっすり眠るきみに無視されたから。よだれ垂らして寝るなよな」
「よだれ!? 垂ら……して、ない! なかったです、多分!」
 あはは、と笑ったオーエンは肩をすくめて「おいてくよ」と立ち上がった。慌ててわたしも荷物をまとめ、鞄を抱えて教室を出る。ぱちりと電気を消して施錠して、ピンク色に染まった階段を降りていく。いつも白い服を着てるから黒い服着てるのって新鮮だよな、なんて思いながら彼の背中を見つめていると「何見てるの?」とオーエンは不機嫌そうに振り返った。
「いえ、綺麗な人は何でも似合うなって思ってただけです」
「ふん。僕に見とれて足がもつれて無様に転んでも知らないから」
「すごい自信……」
 へんな夢。そう思いながら横に並び、背の高い彼の横顔をちらりと盗み見る。色白の頬もピンク色に染まっているのがかわいかったので、まあなんだっていいや、とわたしは思った。どうせ夢だし。
 職員室に日誌を提出して、ふたり並んだままで夕焼け色の帰路を行く。上空で燃料が切れてしまってふらふら左右に揺れながら墜落していったような軌道を描く飛行機雲がピンク色の空に浮かんでいるのを眺めながら歩いていると、ふと思いついたようにオーエンが言った。
「せっかく待っててあげたんだから、何かご褒美があってもいいんじゃない?」
「えっ、べつに頼んでないんですけど……」
「ふうん。そういうこと言うんだ、賢者様」
 こちらを向いて綺麗な顔がにこりと微笑んだ。「きみがそういう態度なら、僕も態度を改めるけど」そう言いながらついと最寄りのコンビニを指差す。
「きみが奢ってくれないのなら、ちょっと奪ってこようかな」
「金銭的解決をはかりましょう」
 言葉を遮る勢いでそう言うとオーエンは無邪気に「やった」と笑った。笑う顔はやっぱりかわいい、言っていることはともかくとして。

 コンビニの中で何度も押し問答をくりかえして、どうにかこうにかわたしの予算とオーエンの希望の折り合いをつけ、オーエンは苺のフローズン、わたしはキャラメルミルクを手にふたたび夕暮れの道を歩きだす。天上の群青色と空の端の毒々しいほどの赤紫のグラデーションはとても綺麗で、ぽつぽつと灯りはじめた街灯やぴかぴか輝く一番星が夜の訪れを知らせている。道路のところどころに残された水溜まりを避けて歩きながら、機嫌良さそうに苺のフローズンを食べるオーエンの横顔をちらりと見上げた。やっぱり違和感がある。オーエンはこちらを見ないまま、ちょっと気分を害したような声で言う。
「なあに、賢者様。不躾に見ないでくれる?」
「あ、すみません」
 謝りながら、冷たいキャラメルミルクを飲み下す。飲めば飲むほど喉が渇いていくような砂糖の量は、彼が魔法舎でよく飲んでいた紅茶のようだった。ぼちゃぼちゃと音を立てながら信じがたい量の砂糖が赤茶色の表面に吸い込まれていく様を、いっそ感嘆しながら見ていたことを思いだす。
「ねえオーエン」
「なに?」
「魔法って使えますか?」
「は? なにそれ、賢者様、漫画の読み過ぎじゃないの」
「やっぱそうですよね……」
 賢者様なんてファンタジーな呼び名で呼ぶ人からの言葉としてはすこしばかりの理不尽を感じなくもないが、わたしの夢は彼をただの人間として規定したのだ。
(ほんとうにへんな夢)
 暮れなずむ空も見慣れた通学路も、何もかも違和感がないのに彼の存在だけがそこから浮き上がる。オーエンの人間離れした端整な顔は、ただの日常に馴染まない。
 もし、と思った。もし彼がこんなふうに、わたしの世界で生きていたなら。長い孤独や記憶の欠落のさみしさが彼を苛むことがなかったなら、こんなふうに過ごせたのかな。
 ――それが彼の幸福なのかはわからないけど。
「ほんとうにどうしたの?」
「ビャッ」
「あはは、変な声」
 冷たいフローズンをわたしの首元に当てて、愉快そうにオーエンは笑った。それでわたしは思いだす。夢だろうが現実だろうが、わたしはこの笑顔が好きだった。ただ笑いたいから笑うだけの、この無邪気な顔が。
 なんだか心臓がぎゅっとなって、わたしはそっと視線を外してうつむいた。
「どうしたの、賢者様」
「いえべつに。……ねえ、オーエン」
 なあに? と優美に微笑みながら小首を傾げる彼に言った。夢ならこれくらいのことは許されるかもしれないと思ったから。
「わたしの名前、おぼえていますか」
 ずっとききたかったこと。ずっと言えなかったこと。
 彼は優美な微笑みを崩さないまま頷いた。
「賢者様」
「……うん、まあ、それでいいです」
 ちょっとだけ緊張したのに当たり前のような言葉に脱力したけど、まあ期待していたわけじゃないからかまわない。「そう?」とうたうように言って、こちらに興味を失った彼はふたたびフローズンをしゃくしゃくとつつきはじめる。その整った横顔を眺めながら、ぽつりとおもう。
 やっぱり綺麗で好きだなあ。この笑顔に、わたしは、上手に――。
(……[[rb:上手に > 、、、]]?)
 途端にどきんと嫌な感じに心臓が跳ねて、ぴたりと足を止めてしまう。わたしは上手に、なんだろう。思いだしちゃいけないことのような気がして、嫌な感じに心臓が脈打ちはじめる。考えちゃいけない。考えたら、わたしは、

「賢者様?」

 思考に沈みかけたわたしの意識を、彼の声が引き戻した。数歩先から夕暮れの残滓を背景に振り返るオーエンは、「おいてくよ」とうつくしく微笑む。
 おいていかれたらさみしいから、わたしは慌ててその背中を追いかけた。


  3

 こんな夢を見た。
 群青色の空に星が無限に瞬く夜。湿った土の上にオーエンは目を閉じて眠るように横たわっていて、わたしはそのとなりで何も言わずに、ただ座り込んでいる。いつもの白い外套は月光に輝いてあまりに無垢で清廉だから、まるで貴い人の死に装束のようにも見えた。死人のように白い頬に長い睫毛の影がかかりぞっとするほどうつくしい陰影を形作っているのを見つめながら、ああ、この人は死ぬんだなと思った。当たり前のように、そう思った。
 ぱちりと目を開くと、熟れきった苺のように赤い瞳と蜂蜜漬けにした待宵草のような黄の瞳が現れる。戸惑うように揺れた瞳はわたしを捉えてふわりとほころんだ。胸焼けするほど甘く響く、まとわりつくような低い声が、賢者様、と呼ぶ。
 その声が、当たり前のように告げた。
「僕、もう死ぬんだ」
 それはわたしにもわかりきっていたことだった。だけどわたしはまるでいま初めて気づいたような白々しさで「あなた、死ぬんですか」と問うた。
 にっこりとうつくしく微笑んで、うん、と彼は静かに肯定する。
「死ぬんだよ」
 夜の闇に消えていきそうな、あまりに儚い声だった。
 何度も彼の死を見た。見たくはなかったけど。体内におさまっているべき内臓が、そのつやつやした赤黒さを惜しみなく晒しているさまも見たし、人体があらぬ方向に曲がっているところも、熟れきったトマトのようにぐしゃりと潰れた器官や頭も、嫌というほど見た。死というものは平和な頭のわたしが想像していたより遥かに惨くて目を背けたくなるものなんだって、わたしは理解せざるを得なかった。生命がその存在ごと世界から失われてしまうためには、それだけの蹂躙が必要なんだって。
 けれど吐き気をもよおすほどにグロテスクな死体とはまるで対極にある綺麗なその微笑みに、わたしは明確な死を感じた。うつくしくさみしい、だからこそ救いようのない、冷厳な死を。
「…………」
 うつむいたわたしは、彼にすこしだけ膝を寄せて、夜空に浮かぶ雲みたいなやわらかいグレーの髪を白い額から除けてやった。彼は微笑んでわたしを見上げ、どうしたの、と言う。
「何をしたって僕は死ぬよ」
「そうですか。……そうですね」
 わたしはちいさく息を吐きながら、力なく頷く。

 この人の口から、死という言葉を何度聞いたことだろう。
 殺すとも言われた。殺すよりもっとひどいことをしてほしい? なんて微笑んでいたこともあった。そのくせわたしがいつかいなくなったあとの話をすると、不愉快そうに顔をしかめて「聞きたくない」なんて言うものだから、わたしは泣きだしたいほどせつなくなった。

 ねえわたし、あなたより先に死ぬんです。

 何度も飲み込んだ言葉。聞きたくないって言われても、どうやってもわたしはあなたをおいていく。生命には果てがあり、わたしの果てはあなたの果てよりもずっとすぐそこにあるから。
 この人は、わたしが先に死んだらどうやって生きていくのだろう、と時々思った。長い間をひとりで過ごしてきた魔法使いなんだから、わたしのような平凡な人間のひとりやふたりがいなくたってどうにでもなるのだとはわかっているけれど、もしかしたら――ああ、本当に思い上がりなんだけど、もしかしたらこの人は、いつかそう遠くない未来、わたしを欠いた世界が来たら、とてもさみしくなるのかもしれないと思った。
 上手に生きていけなくなるほど、さみしくなるのかもしれない、と思った。
 対の瞳でわたしを見つめる彼のやわい髪を撫でながら、わたしは言った。
「あなた、ほんとうに死ぬんですか」
(……わたしのめのまえで)
 彼は微笑む。
「死ぬよ」
 馬鹿みたいな話だが、それでわたしはすこし微笑んだ。そうですか、と笑った。
 彼はうつくしい微笑みを浮かべたまま、うたうような声で言う。
「死んだら僕を埋葬して。狼の頭蓋骨の破片で穴を掘って、月のかけらを墓標にして。そうしてずっと傍にいて」
「…………」
「二度と僕は会いに来ないしきみはここでひとりぼっちだけど、それでもずっと傍にいて」
「……うん」
 頷いて、わかりました、と言った声ができるだけ誠実に響けばいいと思った。ひとりぼっちだろうがなんだっていい、それで彼が喜ぶなら。この人をひとりおいていかずにすむのなら。
「あなたがさみしくないなら、わたしはそれでいいんです」
 ぽつりと言うと、賢者様はばかだね、と微笑んだ。微笑みながら彼は言った。
「きみは僕の墓守になるんだ、うれしいな」
 無邪気な言葉をぽかりと吐いた次の瞬間、彼の息は止まった。……もう死んでいた。
 わたしはそっと彼の手を握る。だらんと力ない手はもうとうに冷たく、かわした言葉は生きていた彼とのものなのか、死んだ――あるいは段階的に死んでいった彼とかわしたものなのかすらわからない。そこにぬくもりがあったことなんて想像すらもできないほど、それは生命の残滓を残さない完璧な死体だった。さすが死に慣れているだけのことはある、だなんて、自然に浮かんだ不謹慎な思考にわたしは乾いた笑い声を洩らす。まるで呻くような声だった。
 群青色の空を見上げながら、わたしは肺にあるのをすべて吐きだしてしまうような、長い長い呼吸をした。そうしてくるりとあたりを見回した。どこまでも黒い土だけが広がるこの場所には、狼の頭蓋骨の破片もなければ月のかけらもないから、彼を埋葬することができない。

 だからもう朝が来なければいいな、と思った。
 いつまでも夜が終わらなければいいな、と思った。

 彼を埋葬することができないまま、わたしはいつまでも彼の死体の横に座り込んでいた。
夜闇は薄らといよいよ色濃く、やがて望んだ通りの明けない夜が世界を覆う。


  4

 鍋の中に菜箸をつっこんでぐるぐるかき回す。そうしてできた渦の中にぽとりとひとつ、慎重に卵を落とした。うまくいくかなあ。ちょっとどきどきしながらわたしはキッチンタイマーをつける。二分半。となりではフライパンの中でベーコンがいい感じにカリカリになりつつあったので、わたしはそれをひっくり返した。
 手の込んだ朝食を作るのはわりと好きだ。平日は時間との戦いだから手間暇かけていられないけど、凝った朝ご飯は休日の特権。ぴぴ、と鳴ったキッチンタイマーを止めて、できあがったポーチドエッグを冷水にとる。ベーコンをイングリッシュマフィンの上に乗せ、オランデーズソースを作り始めたところで唐突に肩にのしっと何かが乗ったのでわたしは「ウワッ」と悲鳴をあげた。気怠そうな声が「大声出さないで」と低くささやいて、ゆったりとした仕草で頭を振る。どきどきと跳ねた心臓をおさえつつ「ごめんなさい」と謝ったけど、わたしはべつに悪くないと思う。
 はあ、とため息をついた。
「あーびっくりした……。オーエン、おはようございます」
「何つくってるの?」
 朝の挨拶もそこそこに、寝起きのかすれた声が問うので、「エッグベネディクトです」と答えると、ふうん、と興味の薄い声が言った。「僕はパンケーキがいい」とも言った。
「パンケーキは材料的にあれだから……イングリッシュマフィンにたっぷり蜂蜜とホイップクリームをかけたやつとかどうですか?」
「うん、それでもいい」
 でも明日はパンケーキね。自分の要望をちゃっかり通すこともわすれない無邪気な笑顔を見て、欲望に忠実だなあ、とため息をつく。べつに悪いことじゃないけど。
 マフィンをトースターに入れてから、ボウルに生クリームと砂糖を入れてハンドミキサーでかき回す。電動だとあっという間に出来上がるホイップクリームを焼き上がったマフィンの上にこれでもかというほど落とし、蜂蜜をでろでろにかけると嬉しそうに「やった」と笑った。
 無邪気な笑顔につられるようにわたしも笑う。
「さあ、ご飯にしましょう」
 わたしはエッグベネディクト、オーエンはマフィンのホイップクリーム乗せ。過飽和状態になるのもかまわず紅茶にぼちゃぼちゃと砂糖を入れる彼の腕が折れそうに細いことを不思議に思いながら、遅めの朝食をとる。日当たりのいい大きな窓のあるリビングは雨の日だからちょっとだけ暗くて、間断なく続く雨音を聴いているとすこしだけ憂鬱になる。
「最近雨ばっかりですね。お出かけできないな」
「ふうん、賢者様は雨が嫌い? すこしの悪天を我慢するより旱魃の方が好きなんだ」
「そこまで極端な話はしていませんね……」
 ぱくりと一口。オランデーズソースのほのかなレモンの風味と黒胡椒、とろりとしたポーチドエッグの黄身がカリカリのベーコンと絡んで良い出来だ。絶対こっちのほうが手間かかってるのにな、と思いながらちらりとオーエンを見遣ると、嬉しそうにホイップクリームを頬張りながら表情を緩めている。多少の不本意を感じなくはないけど、まあいいか、しあわせそうだし。
 視線に気づいたオーエンが眉をひそめるようにしながら言う。
「なあに、賢者様。あげないよ」
「ほしいわけじゃないですよ。……お出かけできないし、今日はクッキーでもつくりましょうか」
「やった。周りにざらざらの砂糖をまぶしてある、老人の骨みたいに軽く砕けるやつがいい」
「老人の骨を砕いちゃだめです。ディアマンクッキーですね、一緒につくりましょう」
「うん」
 上機嫌にそう言うと、彼はあーんと大きく口を開いて残りのイングリッシュマフィンを一口に食べた。覗いた舌には黒い紋章は刻まれていない。――彼は今、魔法使いじゃないんだ、と何気なく思う。

 朝ご飯の後片付けはオーエンがやってくれたので、わたしはリビングで紅茶をすすりながらその華奢な後ろ姿をじっと眺める。雨はいつから降り続いているんだっけ。随分と長く晴れた空を見ていない気がしてカレンダーに目をやった拍子に、壁掛け時計が止まっていることに気が付いた。電池をかえなきゃいけないけど、あいにく切らしているから買いにいかなければいけない。止まった時計を眺めながら、わたしは違和感に眉を寄せた。
(五時四十二分……)
 この時間で止まった時計を前にも確かに見た覚えがあるのだけど、いつ、どこでそれを見たのか思いだせない。いわゆる既視感というやつだろうか、しばらく首をひねって考えてもまったく記憶の底からよみがえることはなかったので違和感を覚えつつも諦めた。思いだせないってことはたいしたことじゃないんだから。たぶん。
 途切れることなく続いていた水音がぴたりと止まって、タオルで手を拭きながらオーエンがこちらへ戻ってきた。
「終わったよ」
「ありがとうございます。お茶入ってますよ」
「うん」
 こくりと頷いて、オーエンは差しだしたマグカップを手にとった。信じられない量の砂糖は既にその中に溶けていて、上機嫌に「あまい」とオーエンは笑う。呆れるほどに口の回る彼は、心を許せば許すほど口数が少なくなるんだって知ったのはいつのことだっただろうか。
 すぐとなりに座って、おそろいのマグカップをつかって、ふたりでおなじ雨音を聴く。ただの日常は平穏だからこそ幸せだ。それを実感しながら肩にこてんと寄りかかったら「重い」って文句を言われたので、整った横顔をじとり、と恨みがましく見つめる。
「……クッキーつくんないですよ、そんなこと言うと」
「は? なんなの、さっきしたばっかりの約束をもう破るんだ? 自分から言いだしたくせに? 僕がつくってくださいってお願いしたわけでもないのに……へえ、きみってそんな人だったんだ」
「いやあの、言ってみただけなんですけど、ちゃんとつくるんですけど……ああもう口が減らないな!」
 やけくそのように言って、わたしはつくりなれたそのレシピを思い浮かべた。
 ディアマンクッキーは凍らせる工程の分だけ時間がかかる。三時のおやつに食べられるようにもうつくりはじめちゃおうと思って立ち上がると、マグカップをもってオーエンも後ろをついてきた。冷蔵庫から取りだしたバターを計量しボウルの中で室温に戻す。続いて砂糖、薄力粉、アーモンドプードルをそれぞれはかり、薄力粉とアーモンドプードルをオーエンに渡した。
「ふるってもらっていいですか?」
「うん」
 甘いものに関してオーエンはわりと協力的だ。普段何かをお願いするとき、上手に交渉しないと十倍ぐらいの言葉と対価が飛んでくるのだが、いまは文句も言わずに真面目な顔でかしゃかしゃと薄力粉のダマを取り除いてくれている。
 頭ひとつ分背の高い彼がキッチンに立つときに、すこしだけ腰を屈める仕草がわたしは好きだった。となり同士で幸せだなって思いながら卵を割って、卵黄と卵白をわける。卵白はお昼ご飯にオムライスをつくるときついでに消費しよう、と思いながらラップをかけて冷蔵庫に入れた。
 そして、すこし柔くなりはじめたバターを泡立て器ですり潰すように混ぜる。まだつめたいから根気がいったが、次第にマヨネーズ状になってきたそれにグラニュー糖を加えてさらにすり混ぜて、卵黄とバニラエッセンスを加えるとふわりと甘い匂いが立った。となりのオーエンが「あまい」と嬉しそうに笑うので、わたしもちょっと笑った。
 お願いしていた分をふるい終えたらしく、粉ふるい器とボウルが、かん、と軽い音を立てる。
「できたよ」
「ありがとうございます」
 渡された薄力粉とアーモンドプードルを一度に加え、ゴムベラに持ち替えさっくりと混ぜあわせる。粉っぽさがなくなる程度に混ぜたらひとつにまとめ、ラップで包んで棒状に形成してそのまま冷凍庫へ。
「一時間冷やします。お茶の続きをしましょうか」
 うん、と楽しげな声が答えたので、わたしは電気ケトルに水をセットする。

 冷めた紅茶を淹れ直し、ふと止まったままの時計を見上げて言った。
「時計止まってたの気づかなかった。いつから止まってたんでしょう」
「結構前からだよ」
「…………」
 また、既視感。いつかこんな会話をかわさなかっただろうか。
 とはいえ普通に聞いてもまともな答えが返ってくると思えないから、わたしはその既視感に蓋をしてつとめて普通の声で言う。
「電池買いにいきます? 雨ですけど」
「止まったままでいいよ」
「え、不便じゃないですか」
 雨音。かちこちと鳴ることのない止まった時計。
 彼はにこりと微笑んだ。
「止まったままがいい」
 戸惑いも問いもすべて拒否するようなきっぱりとしたその言葉に、わたしは思わず押し黙る。それを見て、彼は殊更に綺麗に笑ってみせた。甘えるようなうつくしい笑顔。無邪気にねだるような、まるでこどものように無垢な笑み。それを見て、いつかの言葉を思いだす。
(わたしが、言った)

 ――誰かにして欲しいことがある時、笑うといいと思います。

 この人はもう追及されたくないんだ、と思った。止まったままがいい。だけどなぜかは言いたくない。あるいはそれがなぜなのか自分でもわからないから、もう何も訊かれたくない。
 言いたいことを全部飲み込んで、わたしも笑ってみせた。
「わかりました」
 そして彼の肩に寄りかかる。目を閉じて、ただ雨音だけを聴く。穏やかなだけの時間。美味しいものを食べて、ただの会話をかわして、何の生産性もない、だけど幸福な時をふたりで過ごすのも悪くない。
 三時になったらふたりで焼いたクッキーを食べよう。夜はふたりで音楽を聴きながらささやきかわすような会話をして、そしていつのまにか眠りにつこう。できたらふたり並んでおなじ夢を見たいけど、それはすこしむずかしいかもしれない。でも、ふたりで違う夢を見て、ゆうべはこんな夢をみたよって言い合えるのもきっとしあわせだ。

 全部夢だけど、嘘だけど。でも、それでもいいや。
 そう、思った。


  5

 小さいはずの時計の音がやけにかちこち鳴り響く。
 暮れなずむ夕焼け空と群青色にたなびく雲の下、かちこちと律儀に鳴る時計の音とともにコマ送りのようにやってくるそれを呆然と見つめながら、わたしはいつかの言葉を思いだしていた。たぶんおなじ色をした夕焼け空が記憶を呼び起こしたのだろう、それがいつのことだったかもわからないほどなんでもない日の、なんでもないただの会話。
 ぴかぴかと輝く一番星を眺めながら指差して、いつかのわたしはこう言った。
「死者は星になる。だからわたしたちは空を見上げて、死んだ人を思うんです」
 すると彼は面白くなさそうに口の端を曲げて、それなら毎日星の数が増えていくはずだろ、と言ったので、迷信ですよとわたしは笑う。
「だけどね、迷信なんですけど、励まされるときもあるんですよ。星になったあの人が見守ってくれてるんだから、背筋をしゃんとして頑張らなきゃいけないなって」
「ふうん」
 さっぱりわからない、という顔で肩をすくめたあと、ふと思いついたように彼は微笑む。賢者様にもそういう人がいたの? 星になった、見守っていてくれる人が。
 その言葉に、たくさんはいないです、と首を振る。
「でもそうですね、いますよ。めげてちゃあの人に顔向けできないなっておもう人」
 わたしの中にあるたくさんのあたたかな記憶。もういない人のことを思い浮かべながらそう言うと、自分から訊いてきたくせにオーエンはつまらなさそうに顔を歪め、へえ、と低い声で言った。
「死んだらどこにもいなくなるのに、勝手に星に仕立てあげるなんて馬鹿みたい」
「考え方次第ですよ、それは。結局残された人間がどう自分を鼓舞するかってだけですから。……星は空に浮かんでる途方もなく大きなガスの塊で、死んだ人なんかじゃありえない。そんなことはわかっていて、それでも人は遠くても目に見える星になつかしい人を託すんです。届かないけど、あんな遠くでうつくしく光ってるんだから、わたしも、って」
「…………」
 唐突に不機嫌になった彼はぷいと顔を背けて「帰る」と踵を返したので、わたしは慌てて追いかける。「まって、歩くの速いです」と言うと「足の長さが違うんだから当然でしょ」なんてそっけない言葉。確かにオーエンほど足は長くないけど、それにしたって散々だ。
 躊躇うように暮れない空の夕焼けの色と群青色のグラデーションがとても綺麗で、わたしはふと足を止めた。マジックアワーとはよく言ったもので、刻一刻と移り変わる色は一秒も同じじゃない。大気中の塵がまとめて雨に洗い流されたあとの透明な空は、見るたびに色をかえていく。
 不機嫌そうな声がぴしゃりと呼んだ。
「賢者様」
 おいてくよ、と責めるように彼は言う。おいていかれるのは勘弁だ。慌てて後ろ姿を追いかけると、振り返らないままの背中がぽつりと告げる。
「星にならないで」
「え?」
「二度も言わせないでよ。星になんかならないって僕に誓って」
「はあ、まあ星にはなれませんけど。わたしは水素でもヘリウムでもないし……」
「ふん、あっそ」
「……もしかしてさみしいんですか?」
「へえ、賢者様に自殺願望があるなんて知らなかった」
 振り返った彼は殊更にうつくしく微笑むので、わたしは慌てて両手を振った。滅相もございません。そんな意思表示を受けた彼は「わかったらいいんだよ」と背中を向ける。

 そんないつかの夕暮れ空の下、さみしい背中を追いかけながら、わたしはたしかに願ったんだ。星になんかなりたくない。手も届かない遙か彼方、あなたをおいていきたくない。わたしは彼より早く死ぬけど、それでもできるだけ長く彼の傍にいたいって、そう願った。

(…………ねがった、のに)

 かちこちと鳴る時計の音をききながら――コマ送りで流れゆく景色を見ながら、わたしは生きていることと死んでいることの違いについて考えていた。そんなことを考えている場合じゃないなんてこと、きちんと知っていたけれど、残された時間でできることなんてもうそれくらいしかなかったから。
 生と死の境界線はどこにあるのだろう。むかし、わたしがうまれた世界で生きていたころ、それらは明確に分かたれていた。生きている人がうっかり死に落ちていかないよう、きちんと壁が築かれていた。飛び越えようとおもえばできるけど、うっかりで飛び越えるにはすこし難しい、そんな壁が。
 けれどわたしが飛ばされたこの世界には、その壁はなかった。まるで最初からなくていいものだったように生命は簡単に失われて、もう二度と戻らない。
 わたしに訪れたのもそんな端的な死で、世界はいやになるほど静かだった。近付いてくるわたしの命を奪うもの、周りの人たちの声なき絶叫、それからあなたの顔。
 あまりに意外だったから、わたしは場違いにも笑ってしまいそうになった。

 ねえ、なんて顔をしてるの。

 おいていかれるこどもみたいな顔。わけがわからないのにひどく傷ついたような顔。ああ、そんな顔をしないで。ねえ、言えなかったんだけど、わたしは。ついぞ言えなかった言葉を伝えたくて手をのばしたけど、もう何もかもが遅かった。
 かちこちと鳴る秒針がちょうど真上を指して、かちりと重厚な音を立てて分針が動く。五時四十二分。わたしの生と死は時計の針に分断される。
 ――ああ、あなたはとても、とても遠くて。

(わたしじゃもう、どうあっても届かないや)

 ごめんねってささやいた、声が届いたかわからない。傷ついた顔が、まるで自分の方が痛いみたいな声で叫ぶ。それを見て、ああ、やっぱりこんなの夢なんだって思った。きっと全部が嘘なんだ。だってあなたがこんな顔をするはずがないんだもの。


 ああ、
 醒める。


  6

 賢者様は僕を馬鹿にしてるよね。そんな声が聞こえた。
「馬鹿にしてるよ。僕にどうなってほしいとか、僕にどう生きてほしいとか、そんなの全部エゴだってわかってる? 一生一緒にいてくれるわけでもないのにさ」
 恐ろしいほどの無表情で、彼はわたしを見下ろすように立っていた。ああ、これも夢なんだろうか。ほんとうにあったことだったような気もする。直接いわれたことはあまりないけど、彼は時折わたしにひどく苛立つように見えた。必要以上に罵って、傷ついて、目の前から消えてほしいって、そんなことを思っていたような気がする。
 いつも甚振るように丁寧に、綺麗な呪いのような言葉をゆったりと甘い声で吐きだす彼は、ほんとうのことを言うときだけは早口になった。だからこれはきっと彼の本音だ。馬鹿にしてる、そんなふうに見えるのか。わたしはぼんやりと思い、ただ彼のことを見上げた。
 苛立たしげに彼が舌打ちする。
「また、その顔。馬鹿にしてなければなんなの? 同情なの? 賢者様は僕を憐れんでいるつもり? すぐに死ぬ人間のくせに。虫けらみたいに力の無い、塵屑同然の生命のくせに」
「…………」
「笑えとか、素直な言葉で喋ってみろとか、僕に何をさせたいの。僕をどう変えたいの。僕はひとりでいいのに、誰かと一緒にいることなんて望んでいないのに、まるで僕がそれを求めているように扱うのはやめろよ。おまえのエゴに僕を巻き込むなよ」
「…………」
 何とか言えよ。苛立たしげな言葉を投げて、彼はわたしの顎を掴んだ。不思議と痛くないからこれはやっぱり夢だ。……だけどほんとうにただの夢だろうか。彼にこんなことを言われたことがあった気がする。止まらない雨音、止まった時間。
 頭がずきずきと痛む。
「ひとりでいいんだ」と彼は冷たい瞳で言った。
「他の誰もいらない。僕は僕だけでいい。おまえなんかいらないし、他の誰もいらないよ。憐れまないで、おまえの勝手な価値観で僕をはかろうとしないで」――冷たい瞳のままぞっとするほどうつくしく微笑んだ、ねだるような甘い声。すべて計算づくでつくられた、綺麗なだけの空虚な笑み。
「踏み込まないで。――僕をかえようとしないで」
「…………」
 顎を掴まれたまま、頭のずきずき痛むまま、わたしはただ惨めな気分でその顔を見つめ返す。

 この笑顔を見たくないと思ったのはいつからだっただろう。
 オーエンの笑顔が好きだった。誰かとかかわっていてほしかった。彼は不器用で、誰かを傷つけずに関係を築いていくことができなかったけど、でもきっとそれは方法を知らないだけ。ひとつずつ知っていけば、彼はきっと誰かとともに生きていくことができる。
 笑って、って言ったのはそのためだった。誰かを傷つけなくても、あるいは自分が傷つかなくても、彼ならただ微笑むだけで人との関わりをつくっていける。誰かに何かをしてほしいとき、あるいは傍にいてほしいとき、傷つけなくてもただ笑うだけで手を差しのべてもらえることを、どうか知ってほしいと思ったから。それだけでいいんだってわかってほしいと、心の底から願ったから。
 彼は笑うようになった。誰かに自分の言うことを聞いてもらうためだけに、笑うようになった。特にわたしにはよく笑いかけては様々のお願い事をした。それは何かお菓子をつくってほしいということだったり、誰かへの悪戯の片棒を担いでほしいということだったり、暇つぶしのための悪趣味だったり――かわいい笑顔をたずさえて、とかく様々なことをわたしにねだった。
 べつにそれが嫌だったわけじゃない。だめなことは拒否したし、わたしにできることならできるだけやった。彼との関係をきちんと築いていこうと思った。いつかわたしがいなくなるそのまえに、できるだけあたたかな記憶を増やしたかった。わたしがいなくなったあとも彼をあたためつづけてくれるような、そんな記憶を。
 同情なのだろうか。わたしは彼を憐れんでいるのだろうか。傲慢だと言われれば返す言葉もないけど、でも、わたしは多分一生懸命だった。それを彼が望んでいないとしてもわたしは彼にしあわせになってほしかったから。できるだけわらっていてほしいだなんて、そんなばかなことをおもってしまったから。
彼は笑う。空虚に笑う。わたしに言うことを聞かせるために。「憐れまないで」なんて、笑いたくもないのに微笑みながらねだる。
(ああ、どうしよう)
 途方に暮れたような気持ちでその微笑みを見つめ返す。

 いま思い返せば、彼と過ごした日々は後悔でいっぱいだ。言ってはいけないことをたくさん言って、言われたくないことをたくさん言われた。嫌なことをされたし、嫌なことをしたりもした。
 だけど。それでも。
「きみを逃がしてあげる」って、きこえなかった優しい声を覚えている。あれが愚かなわたしにむけたきまぐれな彼の憐憫や同情だとしても、それでもわたしはたしかに救われたのだ。傷つけて傷ついて、噛み合わないわたしたちは傍に居るのがとてもへたくそだったけど、わたしたちのきざんだ足跡に残るのはけっして後悔だけじゃなかった。うれしかったことも、たのしかったことも、かかえきれないほどたくさんで。
 ああ、どうしよう。轟々と溢れかえる記憶の奔流に打ちひしがれてわたしはうつむく。
(わたし、わたしは、)
 言うことを聞かせるためじゃない、ただの笑顔が好きだった。日々を幸福に過ごしてほしいと思った。幸せな夢がしっくりこないだなんて、そんな悲しいことをいわないで。あなたがしあわせになってくれたら、それで何もかもがいいと思った。できればとなりでしあわせになれたら一番いいなって、そんなことを思ってた。
(ああ、どうしよう)
 ぽたぽたと垂れた涙を拭うこともせずわたしは顔を上げてオーエンを見る。綺麗なだけのからっぽな笑顔を浮かべる、その顔を見つめて思う。

 あなたのほんとうの笑顔が好きです。あなたと過ごす何でもない日常が好きです。ひどいことを言われて怒ったり泣いたりするのは嫌だったけど、それでもあなたと一緒にいるのが好きです。
 ああ、こんなこと、ほんとうは言いたくなかった。ごめんなさいって謝りながらも、それでも言葉はとまらなかった。わたしは。祈るように、あるいは懺悔するように心臓の前で手を組んで、滲んだ声が空間に落ちる。

 わたしは、あなたが。
 あなたが。

「あなたが、すきです」

 一度も言葉にしなかったその感情を言葉にした瞬間、どうしようもなくいたくって、涙は溢れてとまらなかった。こんなこと一生言わずにいられたらいいと思っていたのに、言葉だけが堰を切ったように涙と一緒に溢れだす。
「わたし、あなたがすきなんです。ほんとうに、すきなんです」
 戸惑うように赤と黄の瞳が揺れる。好意をほんのすこしでも感じると狼狽える、そんな不器用なところもすきだった。意地悪なところも、投げかけられた信じられないほどひどい言葉も、気ままな猫のように人を振り回すところも――たぶん、全部全部すきだった。
 ずっとわらっていてほしかった。
 たとえいつかわたしがいなくなってしまっても、ずっとわらっていてほしかった。

 ただそれだけの恋だった。
 わたしはあなたに、恋をしていた。

 だけどもう全部終わりだ。
 止まった時計が動きだす。


  7

 ふと気が付けば、わたしは白い靄の中にいた。目の前には見慣れた白い外套、細く骨張った白い手がわたしの手を引いて早足で歩いている。どうしてだろう、とぼんやりと思いながら彼の後ろを追うけれど、歩調があまりに早いので、転ぶ前にとわたしは慌てて名前を呼んだ。
「オーエン、どうしたんですか。そんなに急いで」
 返事はない。振り返ることもないし、声が聞こえているのかすらもわからない。小走りになりながらわたしは彼を追いかけて、何度も何度も名前を呼んだ。ねえ、オーエン。オーエンってば。わたしの声を無視して彼は歩きつづける。歩幅の違いに足がもつれて転びそうだ。薄っぺらなのに広い背中に呼び掛ける。どこにいくの? どこまでいくの?
 足を止めないまま、振り返らないまま、彼はちいさな声で端的に答えた。夢から醒めるところまで。きみはおろかで弱くて脆い、ただの人間だから。そんなことを言った。わたしはますます混乱しながら、ただ手を引かれて歩く。歩きながら名前を呼びつづける。ねえ、オーエン。
 彼はもう振り返らない。振り返らないまま足早にいく。足がもつれて転ばないように最低限の注意を払いながら、必死で背中を追いかける。
 何度もこうして手を引かれたような気がする。夢の森で。魔法舎で。どことも知れない真っ暗闇の中で。そういうときの彼はいつも楽しそうで、こんなふうに無言になったことはあまりなかった。背中を見つめながらわたしは考える。ここはどこだろう。彼はどこへいこうとしているんだろう。夢から醒めるところまで? これも夢ってことなんだろうか。まあこんなどこまでも続く靄を見たことがないから、たぶん現実じゃないんだろうけれど。
 夢から醒めるってどうすればいいんだろう。どこへいけば夢から醒めるんだろう。きいてみたいけど背中は言葉を拒否していたから、わたしは思考の切り口をかえることにした。これが夢だというのなら、わたしはいつから夢を見ているんだろう?
 そしたら背中の向こうからつめたい声がぴしゃりと言った。
「賢者様は死にたいの?」
 早口で感情の薄い平淡な声だった。けれどその低いトーンから、彼が怒っているだろうことがわかる。多分怒っている、とても。あるいはおそれている。……何を? 彼が一体何をおそれるというのか。
 死にたいわけがないですよ、と慌ててわたしは取り繕うように言った。
「だけどあなたが苦しんでいるのは嫌です。わたしができることはありませんか。わたしが、あなたのために……」
 言葉は途中で遮られた。脇目も振らず早足で歩きつづけていた彼は唐突に振り返った。怒りと焦燥とがないまぜになった表情でわたしの行く手を塞ぎながら、怒りに満ちた声が言う。
 ――できることなんかあると思うの? 僕のために? 弱くて脆い人間のくせに。きみがこうじゃなければ僕はこうなってなんかいないのに。
 震える息を吸い込んで、彼は表情を歪め絞りだすような声でささやく。
「全部きみのせいだよ」
 早口でそう言い切ると、彼はまた踵を返して歩き始めた。何もわからなかったけど、彼が苦しんでいることだけはわかる。ねえ、オーエン。名前を呼んでももう振り返ってはくれなかった。
(……あなたはどうしてそんなに苦しんでるの)
 多分わたしは大事なことをわすれてしまったんだ、とおもった。思いださなきゃいけない。思いださなきゃ、きっと醒めない。何をわすれたというんだろう。わたしは何をしていたんだっけ?
「賢者様」
 咎めるような厳しい声が飛んだけど、なんだか遠い世界の声みたいで意識に浸透しない。痛いほどに強く手を握りしめながら、賢者様、ともう一度彼が呼んだ。咎めるような厳しいその声は、まるで神様に祈るみたいな切実だった。だけどそれはやっぱり遠い世界の声だから、わたしの耳には馴染まない。わたしは何をわすれてしまったんだろう。
 ……これが夢だというのなら、わたしはいつから夢を見ているんだろう。これはいつから続いていて、いつまで続くんだろう。ああ、違う。大事なことはこれじゃない。夢。わたしが見る夢。くりかえし、何度も見ていた。幸せな夢も、かなしい夢も。だけど、わたしは、いつまで。

(……いつまで?)

「賢者様」
 焦った声が鋭く叫ぶけれど、もう何もかも遅かった。気付いてしまった。
 これは夢。あれも夢。わたしたちを包みこんでいた白い靄が抜け落ちるように視界から消え失せて、今まで見た夢のすべてが目の前をくるくると踊る。
 あれも夢、これも夢、それなら。

 わたしの人生は、いつまで夢じゃなかったんだろう 。

 そして真木晶は空白に醒める。


  8

 もう限界だ、繋ぎとめることができない。千切れそうな糸を何度も何度も縒りなおすたびに終わりがどんどん近付いて、どうしようもない袋小路だった。
 しなない彼女がほしかった。彼女はしんでしまったから。まるで風に飛ばされる塵屑のように、その生命はあまりにもあっけなく失われてしまったから。
 だから手をのばして繋ぎとめた。彼女の魂をこの世界に縛りつけた。それはいつまでも続かないとはわかっていたけれど、そうせずにはいられなかったのだ。彼女がいない世界なんてもう想像すらしたくなかったから。彼女のあのまぬけな顔がオーエンの手の届く場所でばかみたいに笑っていない、そんな世界を許せなかったから。
 彼女がいたのなんてほんのつかのまで、オーエンの生きてきた年月の中の爪の先ほどにも満たない、塵屑よりも短く軽い時間でしかなかったのに、それでも彼女がいない世界なんて耐えられない。そう、思ってしまった。
 彼女はしななかった。だけどむりやり繋ぎとめたせいでどこかが致命的に壊れてしまって、もう夢の中から醒めることができなかった。自然と醒めるときがくるなら、それは不自然に繋ぎとめられた命が今度こそ終わるときだ。もう二度と彼女は生きてその目を開くことはない。意地悪を言うオーエンに目を剥いて大袈裟に騒ぐことも、おはぎいりますかなんて上機嫌な声で言いながら小首を傾げることも、何がたのしいのかわからないような脳天気さでオーエンに微笑みかけることも。
 スノウとホワイトは何も言わずに案ずるような二対の瞳でオーエンをただ見つめた。ミスラは「馬鹿みたいですね」と眉をひそめた。「かわいそうにね」とフィガロは憐れむように微笑んだ。「自分が何をしているのかわかっているのか」と低い声でオズは戒めた。
 それらを全部オーエンは無視した――安全圏から諭すだけの言葉なんてききたくなかったから。
 おまえらにはわからないだろ、僕がどんな気持ちでこんなことをしているのか。僕だってわからないんだよ、と吐き捨てた。醒めない彼女を手放せないまま、その手が死人のようにつめたいことも、話しかけても声が返らないことも全部我慢できたけど、彼女がいないことだけは駄目だった。
 それなのに、醒めてしまう。繋げた糸が千切れてしまう。彼女がここからいなくなる。
 ただ、雨の音がする。
「…………」
 かすかな身じろぎ、それに続いてぱちりと目が開いて、深い泉の底のような色をした瞳がオーエンを見た。久しぶりに見る、彼女の瞳だった。ぱちぱちとふしぎそうに瞬きをして、やがて彼女はオーエンに気が付いて微笑みながら手をのばす。「そんなかおしないで」とやさしい声がささやいて、つめたい手が触れた。しっとりとつめたいそれは、やはり死人のようにきよらかだった。
 まっしろな顔でにこりと笑う。
「どうか、わらって」
 つめたい手でオーエンの頬に触れながら、あたたかな声が言う。
「どうして?」とオーエンは早口で言った。彼女の存在を繋ぎとめ、たばねていた魔法がとけていく。ほどけていく。どうして。笑ったってなんの意味もないのに、それなのに、どうして。
「僕が笑ってお願いしたって、おまえはもういなくなるんだろ」
 自分の声は遥か遠く、ひたすら平淡に彼女をなじる。けれどなんでもないことのように彼女は言った。
「わたしが、あなたの笑顔がすきだから」
 言葉に詰まって何も言えないオーエンに、もう一度彼女は「わらって」と言って、「しあわせだったよ」と微笑みながらささやいた。ほどける指先が頬を撫でる。そのあたたかさがうしなわれていく。

 彼女がいなくなる。

 オーエンは焦った。名前を呼ばなければ、繋ぎとめるための最後の足掻きだとわかっていても。
 だけど間に合わなかった。彼女のかえるべき場所のことを想起させるせいで一度も呼んだことのないその名前は、オーエンの喉の奥で凍り付いてしまったから。彼女の名前をついに一度も呼べないまま、縁もゆかりもないこの世界で彼女は消える。それでも彼女は微笑んだ。「オーエン」と、慈しむように名前を呼んで、とても綺麗な顔でわらった。

「今までいきてきた中で、いちばんしあわせな夢でした」

 笑み崩れた彼女はそのままほどけて光になった。もうなにもかもおそいのに、ようやくたどりついた名前をぽつりと呼ぶ。もう失われた彼女の、そのうつくしい名前を。
「真木、晶……」
 吐息のような震える声で呼びながら、顔を覆って息を吐く。ああ。いたいほどの衝動が胸を貫いて、オーエンは獣のような声で叫んだ。あきら。あきら。あきら。
 彼女はいつだって、どうしてわらっていたんだろう。どうしてしあわせなんていったの。わらって、なんて、どうして、きみは。

 お人好しでばかで騙されやすい真木晶という人間は、多分、オーエンというひとりぼっちのさみしい魔法使いをあいした、たったひとりの人間だった。
 ひとり取り残されたオーエンは、ほどけて消えた彼女がいた空白に、いつまでも、ただ触れていた。



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