僕達にさよならはいらない


 星のいくつか消え残る夜明けの空を見上げながら、オーエンはひとつちいさな息を吐いた。もう次に行くべき場所が思い当たらない。明るく白い雪景色、緑の匂いのする風が吹く草原、黄色い小さな花がぽつぽつと咲く河川敷、人の行き交う市場の中にあるこじんまりとしたカフェ、星の瞬く透明にあおい湖のほとりも、思いつく限り彼女の匂いの残る場所を、オーエンはもう巡ってしまった。
 だから、傍らにもう誰もいない、独りぼっちの旅ももうおしまい。
 この旅をはじめてどのくらい経っただろう。たかだか数年、魔法使いの生きる長い時間の中では――あるいは人間が生きることのできる時間の中でも瞬きの間に過ぎ去るような刹那しか彼女は傍にいなかったのに、それでも記憶はこれだけの間ずっと尽きることがなかったのだということがオーエンにはひどく不思議に思えた。
(……まあ、それでも、おわったけど)
 明け初める空は蜂蜜のような色をしている。それを見上げながら、もうどこにだっていく場所がないことを知っていた。どうすればいいんだろうと思いながらオーエンはただ考える。どこにいけばきみに会える? きみの存在を感じられる?
 いつか彼女はこう言った。『しんだらほんとに星になるんだ』。しんだら石になって砕ける魔法使いと違って、人間の体は土に還って星になる。かつて自分が生きていた、今も他の生命が生きる星の地殻やマントルに。燃え盛るマグマの底から僕を呼んで、とオーエンが言うと、彼女はにっこり笑って「いいですよ」と言った。どうしてだかわからないけどやけにうれしそうなその声を、今も覚えている。
 魔法使いを縛る約束だって、死んだあとにはもう機能しない。約束に縛られない人間ならば、尚更。それをわかっていながら、オーエンはそれでも彼女の声を探してしまった。マグマがごぼごぼと音を立てる活火山の噴火口、しんと静かに暗い地底湖や、熱水噴出孔の傍で細菌類が蠢く海の一番底深く――星の中枢に近いところで耳を澄ませてみたって星になったはずの彼女の声は聞こえないから、ゆっくりと世界が灰色に染まっていく。
 もうどこにもいけないまま、灰色の世界でオーエンは彼女の声を思いだしていた。呑気に笑うまぬけな声。オーエンを呼んだうれしそうな声や怒ったような声。数えきれないほどの言葉をかわしながらもそのすべては他愛なく、全部どうだっていいようなそれらは、それでいて何にも代えがたい唯一だった。
『わたしの故郷の歌なんです』と、彼女はたのしそうにうたった。
『かえりましょう、オーエン』と、彼女は感情を殺した顔で微笑んだ。
『……もしかして さみしいんですか?』と、彼女はきょとんと丸い瞳でオーエンの顔を覗き込んだ。
 ああ、おぼえている。わすれてなんかない。彼女のくれた言葉のすべて。彼女が教えてくれた自分のこと。オーエンにとってどんなことが幸福で、どんなことが嬉しいのか、彼女はすべてを知っていた。すべてを知っていて、それらひとつひとつをつまびらかにしてくれた。
 彼女の声がよみがえる。わらって、と言った、あの最期の言葉がよみがえる。
 光にほどけたあの笑顔を思いだす。

『今までいきてきた中で、いちばんしあわせな夢でした』

 ああ、と深く息を吐く。もうなにもかも遅いのに、オーエンは気付いてしまった。
(ようやく、わかった)
 さみしいようなくるしいような衝動と、もうとりかえしのつかないほどの幸福が一度にやってきてオーエンは両手で顔を覆った。は、と浅い息をして、両目を潰されるより、手足が切り落とされるより、あるいは心臓を抉りとられるよりずっと苦しいそれを受け入れようとする。受け入れて、それを言葉にしようとする。

(きみは僕のことがすきだったんだ)
(そして、)

(僕もきみのことがすきだった)

 繋ぎとめたのは彼女のことをあいしていたから。醒めない彼女をそれでも手放せなかったのは彼女がかけがえのないひとだったから。一度気付いてしまえばこんなにも簡単なことだった。今更なにもかもが遅いのに、どうしようもない感情が溢れてとまらない。彼女がいなくなってから無彩色だった世界があわく色づきはじめる。彼女があいした世界。おしえてくれた世界のすべて。どんなところにもきみがいて、ここにいなくても傍にいる。なんでもない日のとるにたらない会話の中ですきだと言った空の色や花の匂いに、彼女の思い出が宿っている。
 いつかかわした約束は果たされず、燃え盛るマグマの底から彼女はオーエンを呼ばない。
(だって、きみは星じゃないから。きみは星にならなかったから)
 熱いかたまりが喉をつんと刺したから、静かに吐きだした息が揺れてふるえた。うそつき、とわらう。わらいながら視界が滲む。呼吸すらできないほどのかなしみとしあわせに、頽れるように膝をついて、ふるえる息を吐きだした。

 きみは星にならなかった。
 そのかわり、僕をとりまく世界になった。

 鮮やかにうつくしいひとりの世界の片隅で、オーエンは声をあげて泣いた。



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