さよなら、夜だけの恋人

『激務でなかなか時間とれないんだけど、そんな俺でもいい? 多分、会うのは夜が多くなると思うけど』

私より十個年上の彼の言葉を信じて早二年、突然魔法が解けたかのようにその日はやってきた。



彼との出会いは自分がよく通っているブックカフェ。会計を済ませ、お店を出たところで呼び止められた。

『すみません、このモバイルバッテリー忘れてましたよ』
「え……あ、本当だ。すみません、ありがとうございます」
『いえ、僕もちょうど出るところだったので。……ところでその手に持ってる本、僕も読みましたよ。面白いですよね』
「わ、わかります! 前に一回読んだんですけど、この本が好きで今また読み返してて」
『周りに知ってる人がなかなかいなくて。少し離れたところまで来たかいがありました』

笑ってそう口にした彼に、当時の私は目だけでなく気持ちも奪われてしまっていた。こんなところに住んでいたら、相手が誰でも構わないような雑なナンパなんか躱し慣れているのに。同じ趣味を持った彼にはその警戒心が全く働かなかった。
意気投合してからは連絡先の交換からとんとん拍子に彼との関係は進んでいき、恋人という関係に落ち着いて。今思えば自分のことながら本当にちょろいなと、呆れて言葉も出てこない。
恋は盲目だなんて昔からよく言ったものだ。忙しく会うのは殆ど夜だなんて少し考えればわかることなのに。まさかいい年して自分がそうなるとは思ってもいなかったから。



気が付いたその日は久しぶりに声を上げて泣いた。それからは毎日がどん底で、募る罪悪感と自己嫌悪に苛まれた。
彼のアカウントも電話も全てブロックしたけどなんの解決にもならなくて。耐えきれず高校からの付き合いである木葉に『はなしきいて』『ごめん』『よくないはなし』と一方的に連絡をした。
勢いで送ってしまったものの、少し後悔をしてる。こんな話をしたところで木葉も困るだろうし、もしかしたらこれがきっかけで疎遠になるかもしれないから。
……でも女友達は結婚していたり彼氏がいる子が殆どで。知らなかったとは言え不倫していた側の自分からは連絡しづらく、その中で真っ先に浮かんだのが彼の顔だった。

仕事が終わった木葉はすぐにうちへと来てくれて、出迎えた私の酷い顔を見るとわかりやすく動揺していた。それでも「ほら、来たよ。どうしたー」と優しく顔を覗き込んでくれる彼を見たら、またぼろぼろと涙が落ちてくる。

「あーもう、先に謝る。悪い、触るわ」

そう言って彼は私の背中に手を回しぐっと引き寄せた。視界が彼のシャツで埋まって、その香りに包まれる。それでも涙は止まることを知らなくて、木葉の服に染みをつくった。

「ちょっと我慢しろよー」

その声と同時に足が床から離れて、思わず彼の首に腕を回す。あいにくソファーのない家のため、私をベッドへおろすとすぐ隣に座って背中をさすってくれた。

「嫌だったら言って」

彼はひどく優しい声色でそう口にした。嫌なわけないのに、それも今は上手く言葉にできなくてぶんぶんと首を横に振る。
木葉は落ち着いてからでいいからと、ただ静かに私の涙が止まるのを待ってくれた。まだなにも、知らないのに。

「…………ごめん」
「いーよ。で、どした?」
「……私さ、不倫相手だったみたい」

ぽつりとそう呟けば、ワンテンポ遅れて彼は「え?」と声を漏らしそのままフリーズし視線を逸らした。
それはそうだ、急にこんなこと言われたって困るに決まってる。突然呼び出して、わけもわからず泣く私を目の前にして、落ち着いたと思ったら不倫の話なんて……こういう反応が当たり前だって想像はしてたのに。
……いざ彼の反応を目の当たりにすると、きつい。

「えー……や、ごめん、なんて声かけていいかすぐ出てこない」
「ご、ごめん」
「でもとりあえず、言いたいこと言いな? 全部聞くから」
「……このはぁー」
「だーもう、泣くな! ……いやもう泣きながらでもいいから全部吐き出せ、ほらティッシュ」

自分が想像していたのとは真逆の反応で、その彼の優しさに一度壊れた涙腺がすぐに緩む。木葉はテーブルにあるティッシュを差し出し、私をあやすように柔らかな手つきで髪を撫でた。少しだけ、彼と重なった。
そこからは木葉の言葉に甘えて全部吐き出した。
結構本気で好きだった、結婚だってうっすら想像してたこと。でもある日気づいてしまった。急遽会うことになった日、左手の薬指にあるその跡に。

「盲目になっておかしいと思わなかった自分がむかつくよ。家に呼んでくれることもなければ、会えるのは決まって平日の夜だけ。激務だって嘘。名前も偽名。……そんなことって、」

確かめるために、いつも言わないほんの少しのわがままを言った。彼の家に行ってみたい、ただそれだけ。答えはもちろん難しいとはっきり断られて。少しの不安がじわじわと侵食し、問い詰めたら結婚して子供がいるとまで白状した。

「もうさ、残ったのはこの罪悪感と汚い自分だけなんだよ。……無理でしょ、こんなの」

ぽつりと最後の一言を口にした瞬間、私の話を遮ることなく聞いてくれた彼からぐっと引き寄せられた。ぴたりと上半身でその体温を感じたまま彼の名前を呟けば、回された腕に力が込められる。心なしかその腕が震えているようにも感じ、驚きから涙も止まった。

「言うなよ、そんなこと」
「え、なん……」
「汚くないし、騙されてたんだろ」
「……それは」
「もう、見てられない。……俺をさ、選んでよ」

そう口にした木葉の声は掠れていて、いつものような冗談なんかじゃないってすぐにわかった。わかったけれど、突然のことに理解が追い付かない。

「そんな奴じゃなくて」
「そんな奴って言わないで……っ」

思わず口をついて出たのは相手を庇うような言葉だった。クソ野郎だと目の前で実感したのにも関わらずだ。どうしてかもわからない。……もうぐちゃぐちゃだ。

「ごめん。でも、お前のことまで否定してるわけじゃないから」

私よりも私の気持ちがわかっているかのように、彼はそう続けた。つい言い返してしまったのは、そんな奴と付き合っていた私まで否定された気持ちになったからなのだろうか。

「……俺さ、好きだったんだよ。結構前から」
「このは、」
「お前幸せそうにしてるから言えるわけねーじゃん。だから別にこのままでいいかなって思ってた」
「……」
「でもさ、今は違う。ずるいと思ったけど言わせて」

木葉は背中に回していた腕をほどき、私の乱れた髪を耳にかけ頬に手を添えた。

「俺を利用していいから。一人で泣くなよ」

そう零した彼の指先は震えていて、でも瞳はまっすぐと私を見つめていた。いつもの飄々としている木葉なんかそこにいなくて、溢れんばかりの気持ちが触れた熱を通して痛いほど伝わってくる。
彼が向けてくれる優しさと私の不甲斐なさに、また堪えていたものが込み上げた。

「ごめ……」

そう言いかけた私の唇へ彼の指先がそっと添えられた。口にしようとした何度目かのごめんは、届くことなく吐息となって消えてしまう。
すぐに「謝んないでよ」と目を細めながら零した木葉の声は切なく響いて。彼の指先が私の頬へと滑り、涙の跡を辿った。

「俺を選んで。今すぐじゃなくてもいいから、こんな顔絶対にさせないから」
「……うん」

曖昧な声で頷いたにも関わらず、私を撫でる彼の手のひらはひどく優しくて。ずっと張り詰めていた気持ちが少しずつ解けていくような気がした。
きっと今この手に縋っても、彼は絶対に拒むことはしないだろう。……だからこそ、今すぐこの手に縋るのはずるい気がした。