本当に、偶々だったの。

私の好きなマイナー作家の小説を、あの子が読んでいるのを偶然見かけて、私から声を掛けた。自分から滅多に人に、ましては初対面に話し掛けるなんて絶対ありえない。

でもその時は、自分から声を掛けたことに対して不思議と嫌ではなかった。それは元々あの子の存在を知っていたのも一つある。あとは…そうね、あの子の目に惹かれたのかしら。

きっかけなんて、そんなもんよ。

「この作家さんの描く復讐劇は、ホント背筋が凍る程、ゾクゾクするよねぇ」
「そこがいいんじゃない、ヒロインの闇の深さとネガティブさも最高ね」

いざ話し掛けてみれば、彼女は人見知りをしないタイプなのか、初対面な私に対して嫌な顔せずに接してくれた。

「…まさかこの小説を誰かと語れるなんて、思ってもいなかったわ」
「この作家さんマイナーだもんね。私、狭間さんとこうして語れて嬉しいよ」
「…ええ、私もよ」

綺麗に笑う子、素直にそう思った。

「狭間さん、良かったら下の名前で呼んでもいいかな?」
「………はっ?」

唐突な提案に口から出たのは驚きの一言。

「…私、綺羅々って顔してないでしょ」

このキラキラネームと私の顔が合わないなんて自分でも知っていたし、あえて誰も私の名前を呼ぶことなんてなかった。

「え、そうかな?だって狭間さん、私と本の話をしているとき、表情がキラキラしていたよ」

あ、ダジャレじゃないよ!と苦笑いする彼女に、開いた口が塞がらなかった。

「気付かなかった?すごく楽しそうに話してたよ。だから本当にこの小説が…いや本が好きなんだなって思ったの」

反応が遅れている私に対して、彼女は気にせず言葉を続けた。

「……そんなこと、初めて言われた」

本当に、貴女と出会ってから初めてだらけ。

「綺羅々ちゃん、って呼んでもいい?」
「さすがに名前は抵抗あるわね…」
「そう?じゃあ…きーちゃんは?」
「………まぁ、百歩譲って良しとするわ」

よろしくね、きーちゃん!と、綺麗に笑う度に私の闇が浄化されて痩せそうだ。きーちゃん、と何度も確認するように呼ぶもんだから、聞こえてるわよ、と本の表紙でこつんと頭を叩いた。

今ではすっかり浸透してしまった“きーちゃん”呼びは、きっと他の人だったら拒絶するわ。…まぁ、それ以前に私のことを名前で呼ぶ人なんてこの先、両親と彼女ぐらいじゃないかしら。

だけど本当は誰かに名前で呼ばれたかったかもしれない。

それに気付いて名前で呼んでくれた彼女を、私なりに感謝していきたい。

「…よろしく、名前」

そのとき初めて彼女の名前を呼んでみた。すると名前は綺麗な笑みを浮かべてくれた。…名前に話し掛けて本当に良かった、と数分前の自分に感謝した。


ALICE+