
マドンナなんて嘘ばっかり
ボーダーの苗字名前はウチの学校の所謂マドンナと呼ばれる位置の存在である。別に誰が言っているとかではなく、気がついた時には学校全体の暗黙の了解みたいなものになっていた。所謂高嶺の花というやつだ。元々、星輪女学院に進学する予定だった苗字が どうして六頴館に入学する事になったのかというのは本人も言っていたけれど、体調管理が甘かったからという理由らしい。それを聞いた時は正直なところ、結構頑張っていたのに馬鹿だな、と思った。ぼくと苗字は去年の後半から まあそこそこの関係を築いていた。だから苗字が頻繁に二宮さんのところに通うのも見ていたし、嵐山さんのところに顔を出して勉強を聞いているのも まあ知っていた。苗字本人は「星輪女学院に通えなかったのは残念だけれど、進学校の六頴館の入試に間に合ってなんとか良かった」と笑っていたが、そんな事を言っている苗字を見かけた時は、嘘が上手いな、と思った。だってぼくは知っているのだ。随分と前に二宮さんに第一志望が強すぎて他はどこも同じに見えると話していたことを。
ーーーまあ、そうはいっても。今では、苗字もそれなりに満足のいく学校生活を送っているらしかった。六頴館が二宮さんと加古さんの母校だったというのも関係があるのかもしれないが、上級生に片桐隆明や結束夏凛。そして、うちのオペレーターの三上歌歩なんかがいたのもひとつの理由だろう。そんなマドンナと持て囃されている苗字は古寺と染井と同じクラスのA組に所属している。大方、マドンナと呼ばれる理由もこの辺りにあるだろうな、と勝手に思っているのだけれど あながち間違いではないとも思っている。何故なら、1年A組の苗字名前は上級生にの綾辻遥同様に文武両道、彩色兼備の知的な美少女というイメージを全学年にもたれているから。ぼくには全く理解できない。入学から今日に至るまで、顔も覚えていないような奴等に「なんで苗字さんはボーダーの広報じゃないの?」と何度も詰め寄られているけれど、あんな奴がボーダーの広報になってしまったら いよいよボーダーもおしまいだと思う。
まあ、ぼく等の見ている苗字名前とソイツ等の見ている苗字名前は それなりに異なっているから仕方がないだろうとも思わなくはないし、実際に素がどちらなのかと言われたら どちらの顔も苗字なのだろうから もしかしたら周りの意見だって一理あるのかもしれない。万人の意見が同じだということは有り得ないのだから、ぼくとそういう人等の意見が違っても仕方がない。十人十色とは良く言ったものだ。
「菊地原くん」
自分を含めたクラスメイト等が一斉に声の主ーーー苗字名前ーーーに視線を動かした。入学から数ヶ月。今となっては、今更 驚いたような表情なんてこれっぽっちも見せなかったけれど、当初は知的な美少女と名高い苗字名前が こんな嬉々たる声をあげて、さらに意味不明な愛称で ぼくーーー菊地原士郎ーーーを呼ぶという支離滅裂な光景に全く理解が追いつかない、というように皿のように目を見開いていたのが懐かしい。今となっては昔の話なのだけれど。
「今日は なに、大切な話?」
「これがまた、ビッグニュースなんだよ」
「くだらない話ならしないでよね」
「染井ちゃんにデートに誘われちゃった…!」
「は? くだらな……」
「どこが!!!?」
「強いて言うなら全部」
「全部っていうほど話してないじゃん!」
「あー本当にうるさい」
どうせ、例の如くデートという名前の勉強会だろ。本当にどうでもいい上に知らなくてもいい情報でしかない。なんなら死ぬほど興味ないし、知らなくても生きていけるくらいどうでもいいじゃん。こんなクソみたいな会話を平気で大切な話かつビッグニュースだというのだからもう救えない。これが苗字名前だ。ウチの学校の総合10位内に必ずと言っていいほど名を刻む勉強オタク古寺と染井と苗字。古寺なんて 入学して最初の中間テストトップだし、苗字もその時に8番とかに名前があった。話を聞いたところ、古寺と苗字はボーダーで毎週勉強会をしているらしい。勉強オタクにもほどがあると思う。まあ、ぼくも最近混ざったけど。つまり、何が言いたいのかというと、コイツ、勉強以外は本当にポンコツ。話も面白くないし、五月蝿いし。どこらへんがマドンナなのか一度しっかりと教えて欲しいくらいである。故に歌川にはこれをそのまま伝えたことがある…あるのだが、「人には好き嫌いがあるから」と良い感じに完結させられた。いや言いたいことはわかる。けれど、やはりぼくにはこれがマドンナというのは理解できなかった。脳が理解を拒否している。
「ねえねえ、きくっちーお願い!!!」
「だからなに」
「今日 嵐山隊の時枝くんと佐鳥くんとご飯に行くんだけど一緒についてきてよーーー」
「時枝と佐鳥? 仲良かったっけ?」
「ほら私の隊って、結構嵐山隊の任務回されてるでしょ? それでお礼にって。とりおも来るっていうんだけど久々だから気まずいし……私、六頴館菊地原くんしか友達いないから きくっちーにしか頼めないし…」
「それこそ、古寺と染井がいるじゃん」
「2人は勉強仲間!!!」
お願いと頭の前で手を合わせて目に涙を溜める苗字名前のこれはこいつの得意技である嘘泣きであることを、ぼくは知っている。心拍数。声。それから表情。ぼくにはそれくらいわかるけど、クラスの奴らにはわからない。ぼくのクラスの人だけではなくて、割と学校全体が ぼくよりも苗字の味方であるという この状況の中では ぼくには勿論拒否権なんてなかった。それを知っていて誘ってきたのだろう。相変わらず、卑怯なやつ。無駄に良い その頭を こういう時にばかり使うのは相変わらずムカついた。
全ての授業を終えたのだろう苗字名前が菊地原士郎の教室にやってきたのは、菊地原士郎がまだ教室の掃除を担当している時の事であった。苗字名前が、もしも掃除当番だったら、さっさと済ませて逃げてやろうと思っていた身である菊地原士郎からしてみれば逃げ道を全て塞がれたかのような気持ちである。まだ誘われて 共に出かけるだけならば良かった。けれど そうではない。菊地原士郎には明日、クラスメイトからの怒涛の質問攻めという拷問のような時間が当然のように待っているのだ。いくらボーダーとはいえ、菊地原士郎は決して佐鳥賢や南沢海のように明るい性格はしているわけではなかったし、誰にでも好かれるという特殊な人種というわけでもないうえ、烏丸の様に顔が整っているというわけでもなく、時枝や歌川の様に世渡り上手でもない。
さらに言うのであれば、周囲との関係を築く事に閉鎖的な菊地原士郎が学校の人気者である苗字名前と出かけるとなれば、瞬く間に噂の的だ。故に、彼は正直。面倒臭かった。苗字名前は先程、六頴館での友人は菊地原士郎だけだと偉そうに宣っていたけれど、よくよく見てみればそんなことがあるはずもない。結束夏凛なら烏丸京介がいるという場所にだって、平気で馳せ参じるだろうし、先輩がダメだというのならば、勉強仲間だとしても染井華がいる。そもそも、歌川とも古寺とも染井とも。自分と話す時よりもずっと仲が良さそうに話しているのだから、自分である必要はないのだ。それなのに……。
「あ、苗字!!!」
「今日は誘ってくれてありがとう! 私も菊地原くん連れてきちゃったんだけど、大丈夫かな?」
「大丈夫だよ」
それは大丈夫な奴の目じゃないでしょ。菊地原士郎は佐鳥堅の姿を見て思う。まあ知っていたけれど、佐鳥賢は苗字名前を異性として好ましく思っているようだった。どうしたら こんな奴を恋愛対象として見ることができるのかは、菊地原士郎には到底理解できるはずもなく、随分と昔に理解するのを諦めた。佐鳥が苗字を好きだというのは(本人は認めていない)、最早 苗字本人にも伝わっているのではないかというほどには分かりやすいものだった。苗字の事だから気付いていないということはないと思う。苗字は少なくとも鈍感ではないし、どちらかというと今まで見てきた感じでは人の好意には敏感な方だった。
だから佐鳥の好意には気付いているーーーと思うのだけれど、もしかしたら本当に気付いていないのかもしれない。佐鳥は苗字曰く『自分のA級入りを他のだれよりも祝福してくれた良い人』というものらしいから。嵐山さん同様、別次元の枠として捉えられていたら本気で気付いていないのかもしれない。だから敢えて(佐鳥本人も否定しているため、佐鳥が苗字を好きだという事は)苗字には言っていない。
「苗字と菊地原って仲良かったんだね」
「仲良くないよ。こんな奴」
「いやいやいや、超仲良しだから」
「相手が仲が良いことを否定してるんだから 実際そうでもないんだろ」
「マブダチだわ!!!」
「……惨めだな」
「このクソ…とりおくんってば、久しぶりに会ったのに全然変わってないね〜!!」
「お前も、相変わらず友達いないんだな」
「殴っていいかな!!!?」
別に ぼくがいなくても大丈夫じゃん。来て損した。烏丸京介等との合流から数時間。いよいよ溜息が零れた。ぼくだって 苗字に頼まれなければ、こんな居心地の悪い場所になんて来たくなかった。佐鳥は苗字に夢中だし、烏丸とは話した事がないとまでは言わないけれど、日常会話すら まともにしたことがない。時枝とだって学校は違うし、会話がない。せめてもの救いといえば たまたま立ち寄ったファミリーレストランの料理がそれなりに美味しいという点くらい。苗字に無理矢理注文されて目の前に出された料理なのだけれど、完食はできそうだ。しかし、これ以上此処にいるのは時間の無駄だし ぼくとしては そろそろ帰りたいと思っている。この場は既に ぼくがいなくても回っているし、ぼくを巻き込んだ苗字も楽しそうに会話できているのだから途中で抜けたって問題はない。カバンから財布を取り出して、財布の中身を確認する。所持金自体は問題ない。千円くらい置いていけば大丈夫だろうと机の上に千円札を置いて自分が帰ることを伝えると苗字が何度か瞬きをさせた後に立ち上がって自分も帰ろうかな、と鞄を持って立ち上がった。まだ食べ物が残っているのだから残ったらいい。そう提案すると、ぼくが帰るのなら自分も帰ると口にした。苗字みたいなのが沢山いるから日本が深刻な食品ロスという課題を抱える事になるのだろう。
結局、苗字の完食を待って解散しようとなった僕達は苗字が完食し終えたのを確認して席を立った。
「ごめんね、皆。また誘ってね!」
ぼくらは烏丸達とは別の方角に足を進め、烏丸達も ぼくらとは別の方角に向けて足を進めた。まだボーダーには向かわないという3人には恐らく気を使わせたのだろう。しかも苗字に気を使ったのではなく、ぼくに。合流してから殆ど口を開くことのなかった ぼくは時枝から少ししつこいくらいの視線を浴びていた。もちろん、気がついていた。それでも無視を決め込んでいたのは早く帰りたかったから。だから本当に苗字が ぼくが帰る事によって帰るという選択肢を作り上げたのは完全に誤算だった。ワザとなんかじゃなかった。そもそも、ぼくにはそんな事をする理由がない。
「きくっちーの食べてた料理ね、私のお気に入りなんだよね。美味しかった?」
「別に普通」
「えっ、美味しかったって言われると思ってたのに……じゃあ今度は絶対菊地原くんが美味しいって言ってくれる所に連れていくよ!!」
「いらない。苗字と遊びたくないし」
「なんで!!?」
「目立つから」
相変わらずのオーバーリアクションは煩くて頭が痛くなりそうだった。自分のクラスにいる時は恐ろしいほどに知的な美少女こイメージを守っているというのに ぼくや、それなりに親しい間柄の人には驚く程 騒がしい。媚びているのではないかと思ってしまうほどだ。
何故そう思うのかと言われれば、風間さんと二宮さんの会話から苗字名前という知らない名前を聞いて 初めて対面した時の苗字は もっと生意気そうな奴だったから。興味のある人しか視界に収めないような、そんな奴。実際に風間さんも去年以前の苗字の事は あまり知らないと発言した事、それから佐鳥が苗字と仲良くなりたいと発言していた事から、去年以前の苗字と去年の苗字では大きく何かが違ったのかもしれない。詳しくは分からないし、それ以上知ろうとも思わないけれど、もしかしたら苗字は昔 ぼく同様に それなりに周りとの関係を築く事に閉鎖的だったのではないかと思う。それか、訓練オタク。もしくは……同期やそれ以降が優秀すぎて焦ったか。同期に嵐山隊の佐鳥と時枝。それ以降の隊員に出水先輩や諸々。どんどんA級入りする他の隊員に焦っても仕方がない。まあ、こんな話は どうだっていいんだけど。
「佐鳥は特別なんじゃなかったの」
「特別だけど、特別がイコール親しくしたいってなるわけじゃないでしょ? ほら、嵐山隊は私の中では芸能人の枠組みなんだよね」
「意味わかんない」
「じゃあ今から映画行かない?」
「どういう流れなの」
「なんか定期的に見たくなるんだよね」
「ぼくは 見たくないから一人で行って」
「ダメダメ、強制連行します」