ぐちゃり、心が軋んで
※後味が悪い鬱。決して愉快な作品ではない。流血描写みたいなものあり
その日は、おれも佐鳥も烏丸も珍しく3人揃って 各々の管轄の防衛任務を請け負っていて、ひとりで帰ることになる苗字を心配する声をかけていると、苗字は「ひとりでも帰れるから全然平気だよ」と、おかしそうに笑う。そっか。そういって手を振った おれ達がボーダーに辿り着いた時。沢山の人間が忙しなく動き回っているものだから、おれと佐鳥は首を傾げて「どうしたんですか?」と首を傾げる。すると嵐山さんがおれ達を視界にとらえると、強く肩を掴んで「苗字は!!?」と深刻な表情を浮かべて瞳を揺らした。
何でそんなことを聞くんですかという言葉を発するよりも前に苗字に電話をかけるべく携帯を手に取ると、烏丸から大量の着信が入っていた。おれは そんなもの無視して苗字に電話をかけると、苗字とどうにか連絡が繋がった。
「苗字、どこにいるの」
『なんなの? とりおもとっきーもどうしたの?苗字なら駅前の交差点にいるけど』
「今から行くから、動かないで」
烏丸の着信履歴、嵐山さんの態度、電話を握りしめて、何があったんですかと聞く前に嵐山さんが「迅が苗字が危ないって言っていて血眼になって探していて」と言った。おれも佐鳥も本部を飛び出した。嵐山さんのあんな顔はじめてみたねとか普段なら出てくる言葉がなにひとつ口から溢れない。ああ、なんで今日に限って。そんな言葉が脳裏をめぐる。けれど、幸い苗字のいる交差点は此処から そんなに離れていなくて おれも佐鳥も これまでにないスピードで地面を蹴った。いやな想像が頭の中を埋め尽くす中で、何とかソレを追い払っていると、苗字が視界に入る。ぱっと隣で佐鳥が顔を明るくしたのと同時に女の子に向かって行く大型トラックと、苗字のさらに後ろで出水先輩と米屋先輩が苗字に話しかけようとしている光景が目に飛び込んでくる。そうして苗字と女の子の双方に視線を動かしているうちに苗字の姿が おれ達の視界から消えた。一瞬、反応ができなかった。大型トラックが女の子にぶつかるのにも間に合わない。せめて瞬間移動、せめてグラスホッパー。どちらかをセットしてきたトリガーの用意さえあればーーーーと、考えた時。苗字の姿が見えなくなった理由をふと考える。
苗字と女の子の間にはかなりの距離があった。それでも、苗字のサイドエフェクトならばーーー……苗字の身体能力とサイドエフェクトをもってすれば助けられない距離ではない。出水先輩達はいなくなった苗字を探して辺りを見渡している。違う、其処じゃない。あと数十メートル。間に合え。間に合え。そう思って手を伸ばした時、女の子の身体が、おれの胸に吸い込まれるようにおさまって、そして。目の前で鮮血が飛び散った。
「ーーーー……苗字?」
まるで漫画のように飛び散った鮮血が本物である事を証明するかのように、急ブレーキをかけた大型トラックは大きく回転して、建物に衝突する前になんとかギリギリ止まったけれど、おれ達は その場から一歩も動く事が出来なかった。頭から血を流して、腕やら足やらからもドクドクと血が流れ出ていた。その恐ろしく生々しく、残酷な光景に女の子の背中に回す手に力が入った。
『私がボーダーに入ったのは、誰かにとって良い人になりたかったからなんだ』
これだけ広報活動と、ボーダーとして街を守ってきた経験があるからか、否か。こんな時に、この光景を少女に見せてはいけないと頭が回る自分が死ぬほどきらいだ。この光景をみて、苗字の
119番、消防署です。火事ですか、救急ですか。 そんな言葉を受け取って「救急です」と答える自分が心底いやになる中で早くなる心臓の音がなんとなく、苗字の死をカウントダウンしているような気がして、物凄く急かされているような気分になる自分がいる。
「ーーー……なんで」
腕の中にいた子どもを母親が到着次第お願いしますと民間の人間に預けて、到着した救急車に一緒に乗り込む。苗字のサイドエフェクトは『時間変換』という言葉で上手く誤魔化されているが、その実、体感速度を変化させるものである可能性が非常に高いのではないかと一度苗字と個人戦をやったことのある木虎がいっていた。その言葉が本当なのだとしたら、直前で止まるまでの何秒感その途方もない激痛に耐えたのだ。その重たい衝撃を酔いのせいで避ける事もままならないまま受け止める事しか出来ない。そんなの本人が一番、解っている筈なのに。それなのに、どうして その場所に立ったんだ。その誰かは苗字にとって命を捨てるに値するのだろうか。どうせ、助けられた恩なんて数年後には笑い話になって、数年後には忘れられてしまうのに。それでも苗字は命を懸けて守るべきだと思ったの? おれは頭の中でこびりついて離れない苗字の血液を思い出して、口を覆った。
病院に到着した救急車から担架で運ばれていく苗字の側に付き添って話しかける出水先輩と米屋先輩、佐鳥を見て立ち止まった。おれは、たったひとりの友達すら、守れない。何で苗字をひとりで帰してしまったんだろう。もし、自分が苗字の隣にいたのならば、きっと苗字の行動を阻止できた。無理矢理にでも苗字の日直の仕事が終わるまで待って、それから一緒にボーダーに連れてきてしまえば良かったのに。おれは何をしているのだろう。やがて、静かに流れていた涙は嗚咽に変わった。
数時間後。手術は無事に終了したと佐鳥から聞いて、苗字の病室に向かう。恐る恐る扉を右にスライドさせると、部屋の中には病院服を身に纏った苗字と傍で涙を流す女性がいた。苗字は沢山の管やコードに繋がれて鼻と口を覆う酸素マスクをつけていた。病院の人からは いつ目が醒めるのかはわからないと言われたらしい。頭を強く打ち付けたうえに、物凄い勢いで突っ込んできたトラックによる打撲骨折。途中でトラックが止まったとは思えない程の大怪我だと医者が言っていたのだという。おれは直ぐに解った。その原因が苗字のサイドエフェクトによるものだと。
苗字のサイドエフェクトはトリオン体だからこそ長時間の使用ができるのだと、いつの日か苗字本人が言っていた。それから、痛みなどが伴えば、直ぐに使えなくなる。下手をすれば暴走だってしかねない。痛みや酔いによって自分の本来の体感速度が解らなくなるから生身の時は極力使用したくないと言っていたのだ。苗字のいう事が全て本当だとすれば、あのトラックが触れた瞬間、苗字は途方もない痛みを受けた筈だ。もしそれで、苗字が自らの体感速度が解らなくなっていたとしたら? もし、生身であの距離を走った時に途方もない酔いに襲われていたとしたら? だとしたら、苗字は本来味わうべき苦痛をより長い時間で味わっていたのかもしれない。あの小さな女の子さえいなければーーーなんて考えてはいけない事を考えて おれは病室から飛び出した。市民を守るのがボーダーの役目だ。それならば、おれの考えは間違えで苗字の考えは正しい。身を呈してでも一般人を護った苗字はボーダーの誇りだ。おれはグルグルとループし続ける苗字の鮮血が飛び散る瞬間を何とか消そうと頭を抱えてトイレでしゃがみこんだ。暫くして、トイレから出て嵐山さんに泣きつく佐鳥を見て おれも どうしようもなく泣きたい気持ちになった。苗字は自分は神に好かれていないと言った。そうかもしれない。苗字は神様に好かれていないのかもしれない。でもそうだとしたらきっと。此処で苗字の その姿を見て立ち尽くし、涙を流すことしか出来ない。苗字が目を覚まさないのを後悔する事しか出来ない おれたちの方がよっぽど神様に嫌われている。苗字に いつ目覚めるのか解らない呪いをかけた神様とやらは、最早存在しているのかどうかすらも疑わしい。神様なんて嫌いだ。こんな日でさえも、悲しむ時間を与えてくれないのだから。
苗字が目を覚まさないまま、おれ達は無事高校3年生を迎えた。佐鳥と苗字は同じクラスで、おれと佐鳥は毎日のように病室に顔を出す。苗字の病室には様々な人が毎日かわるがわる顔を出している。当真先輩、冬島さん、烏丸に出水先輩と米屋先輩。それから二宮さんだって毎日顔を出す。それは おれ達と同じ時間の日もあれば、ズラしている時もある。正直、二宮さんと迅さんは病室で顔を合わせた事がないからきているのかどうかも疑わしい。小南先輩や太刀川さんだって頻繁に顔を出しているのに出会った事はない。皆、お互いに苗字と会っている自分を見られたくないのだと おれは思う。
だから おれは、毎週誰も来ない日曜日の朝一で苗字の病室をひとりで訪れる。佐鳥も、烏丸も おれとは違う日にひとりで来ている事を知っている。おれ達は3人して、あの日。呪いにかけられたのだ。後悔しても悔やみきれないような この呪いを解く方法は苗字しかしらない。
「ーーー……早く起きてよ、苗字」
相変わらず 苗字は今日も目を覚まさない。迅さんが前に言っていた。苗字がキューブにされた日。苗字のサイドエフェクトの反動で目を覚まさないのかもしれないと。苗字のサイドエフェクトの反動がなにかなんて解らない。苗字が目を覚ましてくれさえすればそれで良いのに。
「苗字は戦場の中で死ぬんじゃなかったの」
ぽつりと口から溢れる言葉にハッとして。それが純粋な自分の気持ちなのだと思うとやりきれない。もうずっと、自分に投げられることのない言葉を毎日毎日投げ続ける。もうすっかりボーダーは変わってしまった。ただ、変わらないのは部隊のメンバーだけ。雰囲気も変わってしまった。それが全て苗字のせいというわけではない。でも苗字の件は間違いなく今の状態を引き起こす引き金にはなっている。
責任もってそろそろ起きて。
早く おれ達を この呪いから解放してよ。
「苗字はズルいね、もう2年だよ」
高校を卒業して、苗字はどうなるのかと尋ねたら、取り敢えずはボーダーの推薦枠で三門市の有名大学に入れて貰ったらしい。出席日数もなにもかも全然足りていなかったのに、ボーダーの力だけでどうやって入れたのだろうと疑問を抱えていると、嵐山さんが苗字が目を覚ましたら高校卒業の資格試験を受ければ普通に通えるようになるらしいと言った。おれ達はいつまで苗字を待てるだろうか。おれは佐鳥が心を削っているのを知ってる。烏丸が眠れない日々を送っているのも知っている。冬島隊が苗字の為に様々なシステムを隊に組み込んで日々苗字の帰りを待っているのだって知っている。
苗字はずるい。ただベッドで眠るようにスヤスヤと寝息を立てて、横になって。まるで本当に寝ているかのように瞼を閉じて目を開かない。病室に行っては淡い希望を抱いて。1年経つたびに絶望に突き落とされる。まるでゴールの見えないトンネルを歩かされている気持ちになる。本当はドッキリで、起きたら全部夢だったんじゃないかって。毎日 日付を見て思う。夢ではないのだと。
「戦場の中で堂々と死ぬ、それなら良いんでしょ。苗字。おれはもう待てないよ」
トリオン兵を前に換装を解いた。あの日の光景を。頬についた鮮血を。苗字を忘れるには、コレしかない。そう考えてしまう おれもまた、もうきっと、とっくに壊れてしまっていたのだと思う。換装を解いた時、何だか、自分を縛りつける全てから解放されたような気持ちになる。トリオン兵が おれに迫ってくる。不思議と怖いという気持ちは全くなかった。
ーーーそれなのに、どうやら神様は どうしてもまだおれを生かしておきたいらしい。
「……狙撃手は姿を見せたらダメじゃない」
「何しようとしたの」
「さあ、おれも もうよくわからない」
「お願いだからさ……」
佐鳥はポロポロと涙を零して おれの肩を強く握る。ああ、もうこれだから嫌なんだよね。神様なんて やっぱりいないよ。いるんだとしたら、やっぱり おれの方が嫌われている。
「とっきーまでオレを置いていかないで」
佐鳥の言葉は思いの外 突き刺さる。その後、納得した。ああ、おれがこの選択を選ぶという事は そういう事になってしまうのか、と。だとしたら、おれからこの選択をとったら もう跡残るのは地獄だけだ。いつ目を覚ますのかも分からない、大切な友人を只管待つことしかできない人生を送らざる得なくなった。
佐鳥や烏丸に苗字は死なないよ、なんて言っておきながら、多分一番おれが苗字が目を覚ます事を信じられていなかった。ハッキリ言おう。おれはもう、諦めてしまった。目の前で涙を流す佐鳥を呆然と眺めて、おれはもう涙も流せないよ、と眉毛を八の字にして佐鳥の頭を撫でて、何度も何度も謝った。悪いと思ってもいない おれのこの謝罪に、果たして意味があるのだろうか。
「ごめん、佐鳥」
おれはもう、苗字の声も、笑顔も、どんな性格だったのかだって 思い出せないよ。
[Espoir]