駆け出しラブロマンス
突然だが、苗字名前と俺は先日から交際関係にある。数年前の俺には全く 想像も出来ない展開に俺自身とても驚いている。なにより、大切に可愛がっていた後輩に太刀川よりも、他の輩よりも先に、自分が告白してしまうなどということは考えもしなかった。だが、これが事実である。告白も冗談や遊びで行ったものではないし、そもそも そんな軽い気持ちで告白しようものならば 恐らくボーダーにいる多くの人間から反感を買う事になるのは殆ど間違いない。加えて、そんな最終的に苗字を傷付けてしまうような決断は恋愛感情があろうがなかろうが俺には出来ないだろう。苗字は俺にとって大切な人なのだから。
苗字名前は現在、隣町の某有名大学に通って教員免許の取得に励んでいるようだった。『ようだった』と表現したのは、俺と苗字は古くからの付き合いではあるが、大学で どのように生活しているかまでを知っている程 親しい関係ではなかった。だから今は敢えて、そのように表現した。故に、その『教員免許の取得に励んでいる』という情報は出水や緑川から聞いて得た話だったのだーーー……が、つい先日、苗字本人から緑川の通っている高校に教育実習に行ったと穏やかな表情を浮かべて俺に報告してきた事で それも確信に変わった。どうやら大学でもボーダーでも相変わらず 上手くやっているようで安心した。
「いいよなー、風間さんは。俺に散々ロリコンがなんだって言っておきながら 結局自分がハートキャッチしてんだもんなー」
「まあ太刀川さんは ぶっちゃけ対象外だからわかるけど、苗字は京介と付き合うもんだって思ってたから 滅茶苦茶意外だったわー」
「お前達は良い加減に そのネタを使って俺を揺するのをやめたらどうなんだ」
「いやー、風間さんに付き合ってもらうとレポートの評価が滅茶苦茶いいんすよ。それに風間さん的にも 苗字と二人っきりになられるのは嫌だろうし、ねえ? 太刀川さん」
「そうそう」
「お前達には俺と苗字の二択しかないのか」
だって他の人には頼めないし、と言って笑う出水公平と太刀川慶の姿を見て、風間蒼也は「(自分はともかくとして後輩の苗字に手伝ってもらうのにプライドはないのだろうか)」と考えてはみるものの、太刀川慶に関しては昔から このような男だし、出水公平は苗字と以前にも増して親しい関係のようだから 面倒見のいい苗字が勝手に面倒を見ているのかもしれない。少なくとも、米屋陽介に関しては そうだという話を菊地原から聞いた。
苗字にも手伝うのではなく、やり方を教えてやればいいと口煩く言っているのだけれど、人が良いからなのか。それとも出水達のペースに乗せられてしまうのか。結局 奴らのレポートの殆どは苗字が終わらせているようだった。
「でもなんで冬島さん達は風間さんと苗字が付き合うのに関しては何にも言わなかったんすかねー、もっとこう……制裁みたいなものがあると思ってたのに」
「あー、俺なんか冬島隊に試作段階のトリガーで微塵切りにされたことあるぞ」
「まあ太刀川さんは 仕方ないけど」
「マジか、そんなに酷かったか?」
「いやもう滅茶苦茶酷かったですねー」
言いながら、出水は太刀川に笑っていた。
きっと かつての太刀川の行動を思い出したのだろう。確かに、太刀川は酷かった。あの比較的 穏やかである冬島さんと真木に物理攻撃を繰り出させるほどだった、といえば少しは伝わるだろうか。
「まーでも風間さんってシッカリしてるしボーダーだし、冬島さん達が許すのもわからないでもないっすけどねー」
「確かに、迅と二宮よりはムカつかないな」
「あの人達も太刀川さん以上にムカつく人はいないんじゃないっすかねー」
出水公平と太刀川慶は いつものように楽しそうに笑いあっているけれど、このふたりが この手の話をする時、風間蒼也はいつも思い出す。出水公平の言う通りなのだ。あの冬島隊が 苗字名前と誰かの交際に簡単にイエスを出す筈がなかった。付き合い始めた当時、風間蒼也は冬島隊のメンバーを随分と甘く見ていた。出水達は確かに冬島隊を昔からセコムだなんだと言っていたけれど、風間蒼也に関しては その被害にあう事がなかった為、それがどれ程のものなのかを理解していなかった。
ここまでいえばわかると思うけれど、苗字名前と風間蒼也が交際関係に辿り着くまでには それなりに大変な道のりがあった。けれど、それを知っているのは 恐らく本人ーーー風間蒼也ーーーだけで、一生自分だけが知っていれば良いとも思っている。少なくとも、苗字名前には知られるべきではないだろう。だから太刀川慶等にも特に何も言う事はしないで、目の前にあるお茶に手を伸ばした。
▽
俺が苗字に恋愛対象として関心を持ち始めたのは 本当に最近の話だった。実際に恋愛対象として関心を持つ以前の俺は苗字に対して『できる後輩』というイメージしかなかった。だからだと思うのだけれど、俺は苗字が多くの人間から慕われているという事を知らなかったし、それを知ったのも 本当に最近の話だったのだ。苗字名前の事は確かに無視できない隊員だと思っていたけれど、太刀川慶のように苗字名前を特別贔屓するという事もなかったし、太刀川慶のレポート作成を手伝うという部分以外での関わりは全くと言っていいほどになかった。そのおかげで、苗字名前という人間が周りからどう見られているのかだとかいう事には特別興味もなく 最近までやってきたわけだ。
しかし、人の気持ちというのは 案外あっさりと簡単に変化するものらしい。他人の体験談や文献で何度か それらしい書かれ方をしているものを目にはしていたし、何時だかにやっているテレビ画面の向こう側で繰り広げられる恋愛物語を眺め、そういうものだ、ということは知っていた。けれど、まさか自分もソレに該当するとは思ってもみなかった。実際に、いつどのタイミングで苗字を好きになったのかと聞かれても、具体的に「あの時」だといえるような確信的な出来事があったというわけでもない。俺自身、いつどのタイミングで苗字名前という人間に惹かれたのかが良く分かっていない。いつの間にか惹かれていて、気付いた時には抑えきれなくなっていた。全く おかしな話である。これを苗字本人にした時には「私も昔そういう経験あったなあ」と可笑しそうに笑いながら言われた。その時に俺は その相手であろう人物のおおよその検討が何となくついてしまって 複雑な気持ちになったのを よく覚えている。
「ーーー……うーん。けれど、風間さんも大変な女の子を彼女にしちゃいましたよね」
「どういう意味だ。宇佐美」
「苗字名前ちゃん。アタシ 結構長いこと名前ちゃんの事を見てきたけど 最近変わりましたよね。ああ、もちろん 悪口とかではなくて、なんていえばいいのかな……」
「その表現は厳密には少し違う。厳密には
宇佐美栞は風間蒼也の言葉に「確かに そっちの方がしっくりきますね」と、発言をした後に何度か『捕食者』と言う言葉を繰り返しつぶやいてから「捕食者という言葉の意味がアタシの解釈で合っているのかどうかはわからないですけれど、もしかしたら とても良い表現なのかもしれませんね」と笑った。その言葉に風間蒼也は素直に頷いた。
その言葉をたった今、例えに挙げた 自分自身も木虎藍の言う『捕食者』という言葉の意味を正しく理解は出来ていないのかもしれないけれど、その言葉は苗字には似合わないのだけれど、何故だかとても相応しい表現のように聞こえるのだ。
「風間さん。アタシはね、犬飼先輩が言っていた『物事には何事も それを行うべきタイミングがある』っていう言葉は凄く正しい言葉だと思っているんです」
「そんな事を言っているのか、犬飼は」
「だからアタシも 改めて掘り返すのも微妙なんですけれど、そうするべきだと感じた そのタイミングで風間隊を抜けたんですよ」
「つまり、お前は何が言いたいんだ」
「アタシが言いたいのは、いい加減何か大きな変化を見せつけてあげたらいいんじゃないですかって事。だって、そうでもしないと可哀想じゃないですか」
宇佐美栞が敢えて『誰が』という言葉を付けなかったということは 可哀想なのは苗字名前以外の誰かということなのだろう。
きっと そうなのだろうけれど、風間蒼也には宇佐美栞のいう『可哀想』というものの意味がいまいち理解できなかった。一体誰を指すのかというのも曖昧なうえ、何が可哀想なのかというのも理解できない。けれど、自分のそういうところを理解したのだろう。宇佐美栞は風間蒼也の顔を眺めてから「風間さんは罪な男だね」と唇を動かした。
「でも、もしかしたら 名前ちゃんと交際関係まで持っていくには それくらいじゃないとダメだったのかもしれませんね」
「先程から やけに言い方が遠回しだな、宇佐美。言いたいことがあるのならば、はっきり言ったらどうなんだ」
「アタシは これでも、はっきり言った つもりなんですけれどね。じゃあ風間さん。アタシが最初に大変な女の子と付き合っちゃいましたよね、って言ったの 覚えていますか?」
「それがなんだ。改めて会話の中に出してくるという事は その言葉の中に何か深い意味でも込められていたのか」
「その言葉自体にも意味は確かにありましたけれど、その後の発言でも結構わかりやすく伝えたと思ったんだけどなあ〜」
ーーーというよりは、結論までしっかりと口にしたと思うのですけれど。宇佐美は困ったような顔をした。いや、結論だけならば それは俺にもはっきりと伝わっていた。
だからこそ『意味がわからない』という感想を持ったのだ。俺と苗字が交際関係を築くことで可哀想になるような奴がいるのか。確かに、苗字は新入隊員達から目に見える程 わかりやすく懐かれてはいるけれど 奴等には苗字への憧れはあったとしても恋愛感情だなんてものは これっぽっちだって存在していないように思うのだ。だとしたら、太刀川だろうか。俺の知っている奴らの中で苗字にわかりやすく好意を飛ばしていた奴は後にも先にも あの男くらいしか思い浮かばない。けれど、太刀川は寧ろ それをネタに俺を揺すってくるようなやつで 今更苗字に関して恋愛感情をもっているというような様子なんてこれっぽっちも見えてこない。だったら、誰の為に俺は自分のやり方を乱してまで 急ぐ必要があるのか。
「風間さんは 相変わらず、周りの
「それは自分でも理解している」
「風間さんは自分が思うよりもずっと名前ちゃんっていう女の子が魅力的だったってアタシに言いましたよね。それは正解。名前ちゃんは魅力的な女の子、なんですよ。今も、変わらず」
つまり、アタシがいう可哀想な人は名前ちゃんじゃあなくて、未だに、そんな名前ちゃんを諦められない人。でも風間さん、よく考えてよ。どうして、その人達は名前ちゃんを諦めることができないのかな。
宇佐美は困ったように眉を八の字に曲げて 俺の顔をジッと見つめた。なるほど、それが俺のせいだということか。けれど、それは俺だけのせいではないだろう。そういう言葉を口にすると、宇佐美は首を縦に振って 俺の言葉を 意図も簡単に肯定した。それは今の会話を交わしていた俺としては思いがけない反応だった。だからこそ、続けようと考えていた言葉を寸前でやめてしまった。肯定されたからだけ、ではなかった。宇佐美の その誰かに向けられた表情が見たことがないくらい憐憫にかげった表情をしていたのも 俺が発言を止めた理由のひとつだった。
「風間さんにも名前ちゃんにも、お互いのペースっていうのがあるでしょ?だから アタシも口を挟むつもりはなかったんだけれどね。口、挟んじゃいました」
「……」
「名前ちゃんの事、何年も好きだったっていう人はね、アタシが知るだけでも3人いる。もしかしたら、もっと沢山いるのもしれないし、その人達だけかもしれない」
でもね、風間さん。
風間さんは もう知っているんでしょう?
宇佐美は その薄い唇を動かした。言葉は聞き取ることが出来なかったけれど、唇の動きで なんとなく、宇佐美が何を言いたいのか、ということは少し前の発言を思い返せば簡単に理解できた。冬島隊。宇佐美は今、確かに そのように唇を動かした。今思えば、そんなに想い続けながらも安易に苗字に手が出せなかったという奴らの目の上のたんこぶのような存在であったのだろう人間こそ、この冬島隊、なのだろう。そして苗字に想いを伝えないでいた理由のもうひとつが、恐らく、周りが手を出さなかったから、だ。だから、まだ大丈夫だと、考えた。苗字に そこまで長い間想いを寄せていたというのならば 自分のライバルというのも本人達は きっと薄々気づいていたのだろうから。だからこそ、イレギュラーな存在には対応できなかった。冬島隊も、それ以外も。
今思えば、出水や太刀川曰く、全くのノーマークの俺が特に表情も動かす事もなく苗字を呼び出して 想いを伝えた その光景は普通の会話にしか見えなかっただろう。たったひとり、苗字を除いて。だからこそ、その日以降も暫くの間は冬島隊が俺に突っかかってくる事もなかった。冬島隊が俺という存在に気付いた時には、既に俺と苗字は二人で出かける程度の関係にあって、きっとあの時は既に冬島隊からしてみれば 手遅れだと判断せざる得ないような そんなタイミングだった。
「風間さんのいる位置は誰にでも手に入れられたけれど、誰も挑戦する方が出来なかった位置。だから達成した風間さんは凄いし、アタシ達みたいな外野が口を出す権利なんてないんだろうけれど……」
宇佐美の言いたいことは ここまで聞けば大体理解できた。実際、俺自身、俺のだけの責任ではない、とは言ったものの 俺の責任ではない、とは言い切れない。どちらかというのならば、俺の責任だ、という宇佐美の意見の方が強くおせるのが現実だ。交際を始めてから既に数ヶ月という月日が経過しているというのにも関わらず、交際以前と何も変わらない俺達の関係は『交際を始めた』という事実以外に何も変化がなかった。
呼び方も変えない。特別な関係であるというような二人だけの空間ができるというわけでもない。唯一変化があったところといえば、苗字が俺を見つけた際に何者よりも俺を優先する、という点くらいだった。けれど、それは恐らく、宇佐美のいう数人の奴らからしてみれば 小さいようで とても大きな変化なのだろう。
「俺は さぞ嫌な男なのだろうな」
「……アタシには、解らないですけれど 」
「どうやら お前は この数年で随分と嘘が下手になったらしいな。今のお前の その顔は分かりやすい肯定の顔だ」
「あーあはは、アタシ いま そんなに分かりやすい顔をしていたのかな……」
「宇佐美。最後に ひとついいか」
「なんです?」
「そいつ等を諦めさせる為に、俺は どういう変化を見せつけてやればいい」
「アタシに聞くんですか? そうですね……」
宇佐美と別れた後に、俺は頭の中で 思い出していた。冬島隊を。あの日の事をーーー。苗字との交際が本気であると、奴等に告げた日。俺は初めて 冬島隊の人間の圧力というものを感じた。それは恐らく、苗字に想いを寄せる多くの人間が最終的に浴びることになる絶対的拒否だった。そして、それは恐らく 太刀川 慶という男が常日頃どこかの空き部屋で浴びせられているという有無を言わせぬ圧でもあった。日頃の穏やかな姿からは想像もつかないような その めまぐるしい変貌に俺は周りの口にしていた言葉の全てを理解してしまい、思わず笑ってしまいそうになった。親より過保護。たしかに その通りなのだろう。そしてそれもまた、仕方がない事なのかもしれないと考えてしまった。当真や真木が この話を知っているのか、という事は俺には分からないけれど 苗字名前は俺の記憶が正しければ、父親の多額の寄付金と一緒にボーダーに寄越された子供だった。その金額が具体的に公表されることはなかったけれど 風の噂と当時の迅の表情を見る限りでは通常あり得ないくらいの金額であったのだろうことは容易に想像ができた。そういう事もあって 当時の迅や東さん達は気にして見ていた筈だ。そして、あの当時もボーダーにいた冬島さんが その事実を知らないはずがなかった。だからこそ、冬島さんに関しては親よりも過保護になってしまうのは仕方のない事なのかもしれないと俺は考えたし、苗字と これほどまでに長い期間共にいる冬島隊には苗字との交際についてを話しておくべきだと俺が判断した。例え、一方的に その事実を把握されていようとも。
結果だけ言うのならば、恐らく 俺という人間が奴等に認められることはなかった。けれど、奴等の妥協……及第点には届いた。もはや俺には奴等の中にある合格点のイメージが誰なのか、というのはわからないけれど『及第点』程度の扱いをされるようにはなった。これは確信でもなんでもないのだけれど、恐らくは 拒絶される覚悟で自分達の元へ訪れた覚悟とやらを評価されたのではないかと思う。けれど、それは勇気のいる行動だったのかもしれないけれど、俺でなくとも行動しただろう。宇佐美のいう3人だって、苗字と交際を続けていく上で、奴等を避けることができないのは理解している。だから、それは俺でなくとも する行動なのだ。……いや、そうか。俺は自惚れていたな。つい今まで、
「……なるほどな」
「なにが、なるほどなんですか?」
背後から 俺の顔を覗き込んだ苗字が にっこりと微笑んで、俺の隣に並んだ。二言、三言、俺と言葉を交わした苗字は俺の表情を確認しながら 今日 自分に起きた出来事を楽しそうに話す。苗字の話の中には頻繁に出水や緑川、烏丸や嵐山隊の奴等の名前があがる。聞きなれた いつも通りの会話の筈だった。それなのに、宇佐美の あの言葉を聞いてすぐだからか いつものように笑顔での対応をするのが困難だった。こんな感情を抱くのは、実に数ヶ月ぶりだった。
俺は なるべく通常の自分を装って、そうか、と一言だけ呟くように口にした。けれど、分かっていたことだけれど 苗字は人の感情の変化に酷く敏感な女で、俺の言葉に棘のようなものを感じたのか「面白くなかったですね」と寂しそうな顔をして俯いた。面白くない。たしかに、他の男の名前が出てくるのは 面白くないけれど 今の流れの中に苗字が謝るべき点なんてひとつだってない。
「……悪い。嫉妬した」
「ん? え……と、えっ!!?」
「随分と遅くなったが、苗字」
「なん、なんでしょうか!!!」
「そろそろ、お前の名前が呼びたい」
だから、お前も 俺の名前を呼んでほしい。そのように伝えた俺に苗字は困ったような、恥ずかしいような顔を浮かべた後に「よろこんで」と、はにかんだ。そういえば、こんなに しっかりと顔を見たのは いつぶりだろうか。苗字の顔を見つめて、ああ、自分の恋人は いつのまに こんなに美しくなったのだろうか、と考えて 拳を強く握った。宇佐美、どうやら 俺の恋人は お前の言う通り『今も、魅力的』らしい。
そう思いながら、誰もいない廊下で 俺は苗字を抱きしめた。腕の中で困惑したような声を上げる苗字の声を無視して力強く抱きしめながら 自分の腕の中にいる苗字の体温を感じていると、そのうちに自分の背中に手を回された。背中に回された苗字の手は 俺の背中に痛いくらい 食い込んでいて、その時に俺は はじめて 苗字と自分の間に 如何に恋人としての時間が足りていなかったのかということを理解した。思えば、苗字は大学生になって 昔よりもはるかに忙しいというのにも関わらず、俺に会いに頻繁に足を運んでいてくれていたというのに。なぜ気付かなかったのか。こうなってみると、宇佐美の あの言葉には やはり苗字が可哀想だという意味も込められていたのではないかと思ってしまう。否、込められていたのだろう。宇佐美は『自分も苗字の事を長い間見てきたけれど』と話していたのだから。
「……俺は そういう感情に疎い。言ってくれないと分かってやれない事もある」
「……もう、知ってます」
「沢山待たせる事になってしまってすまない。今日から ちゃんと始めよう、名前」
[Espoir]