善人薄命
「あ〜……けっこう斬られちゃったな〜……」
ぶらぶらと前後に動かす右腕から、赤い血が滴り落ちる様子に溜息を吐く。腱が切れてるわけではないから日常生活に差支えはないし、数日経てば傷も治る。普段レベルの任務だって問題なく遂行できるけど、今日ばっかりは困ることがひとつ。
『当日お祝いできなかったから。誕生日祝いは来週、約束ね』
そう言って笑った彼女のことを思い出し、二度目の溜息が零れた。
彼女――名前ちゃんとは、ちょうど1年くらい前の任務中に出会った。僕の
出会いが出会いなだけに、彼女は僕の仕事を知っているけれど、それに対して何か言うことはなかった。そういえば人質にされた時もずいぶん落ち着いていたなと思っていたら、どうやら彼女の兄も同業者だったらしい。それを聞いた僕は数日後、血だらけのまま部屋に上がろうとして、玄関扉を開けた瞬間、彼女に失神されかけたことがある。
「全部返り血!? 分かるかそんなもん……!」
殺し屋の家族がいるのに大袈裟な反応だなあと零したら、彼女は目くじらをたてて「慣れないもんは慣れないの!」と僕の血だらけのコートを風呂場で洗っていた。本当に慣れないやつは血も触れないよ。喉元まで迫り上がった言葉はぐっと呑み込んだ。
大体普通に心配するし、怪我なんて……とぶつぶつ言っていた彼女はその後も、僕が怪我の治りきってない状態で現れる度に「ぎゃー!」とか「痛いぃ……」なんてめそめそしながら手当てをするので、彼女と会う時は怪我が治り切ってから、と自然と決めていたわけだけど。
(う〜ん……でもなあ……たぶん料理も作ってくれてるだろうし、今更行けないはなしかな〜〜)
張り切った様子でレシピ本を開いていた彼女を脳裏に思い浮かべる。
あの様子だと前日から仕込みをして相当豪華な料理を作っているだろうし、きっと高いケーキも予約してるだろう。「急な仕事が入った」とでも言えば文句の一つも言わずに了承してくれるに違いないけれど(実際今日の任務は唐突だった)、そういう素直な彼女だからこそ嘘をつきたくない。というか、僕自身彼女に久しぶりに会えるのを楽しみにしていたわけだし。
「う〜ん……よし」
手持ちの包帯で簡単に止血して、服だけ変えて直行しよう。彼女の家に着く頃には血も止まるだろうから、包帯は風呂場ででもこっそり巻き直して……。
まあバレないでしょと安易に結論付けたのは失敗だったと反省したのは、彼女の家に着いてすぐ後のこと。
「ぎゃー!血ぃ出てる!」
漫画のような遭遇だった。
「汗かいたからシャワーだけ貸して」「いいよ。その間に料理並べとくね」なんて会話をして脱衣所に向かって、包帯を巻き直すために服を脱いだ直後、気を遣って別室にあったドライヤーを運んできた名前ちゃんと見事に鉢合わせた。
「なん、なんで!? 今日仕事休みじゃなかった!? ていうか、シャワーなんか浴びてる場合じゃないじゃん!」
赤色がじっとりと滲んだ包帯を指して、彼女が悲鳴のような声をあげる。
ここまでがっつり見られては、誤魔化しはきかない。僕は素直に、「急な仕事が入っちゃって〜」と告げた。にこにこと、笑顔は崩さないまま。
「もー!!」
怒りとも呆れともとれる声をあげて、名前ちゃんは一度リビングの向こうへと姿を消す。それから、押し入れから救急箱を引っ張り出して僕の方へと戻って来た。
それを横目に、シャワーの水で腕にこびりついた血を洗い流す。
「もうほとんど止まってるし大丈夫だよ〜」
「そういう問題じゃないよ」
ぴしゃりと言い放つくせに、彼女は大きな切り傷を見て「痛い」とめそめそした。それでも、手当てをしてくれるらしい。慣れた手つきで水を拭き取り、新品の包帯を巻いてくれる。
黙って手当を受けていたら、
「……このくらい大丈夫っていう人に限って」
と、不意に彼女が零した。
瞬きをひとつして、言葉の続きを待つ。俯いた彼女の、桜色の唇が小さく動く。
「ある日突然いなくなったりするもんだよね」
「僕はそんなことないよ」
「えー、あんまり信用できないなあ」
間髪入れずに否定した言葉に、彼女は眉を寄せて笑った。
ある日突然いなくなったというのは、名前ちゃんの兄のことだ。同業者だったという話をされたときに、「過去形?」と思わず聞き返して、数年前に還らぬひととなっていることを知った。よく怪我をするひとだったらしい。何となく気になって殺連のデータベースを調べてみたら、かなり実力のある殺し屋として記録が残っていた。「まあまあ強かったはずなんだけど」という彼女の言葉は、身内贔屓でもなんでもなかったらしい。
いつの間にか右腕は白色に包まれている。よれたり捩じれたりしているところは一ヵ所もなかった。流石に慣れている。傷はまだ完全に塞ぎ切ってはいないけれど、さっきまでのように血がどろどろに滲んだりはしなかった。
ほっと安堵した顔になった名前ちゃんを盗み見て、僕は「本当に大丈夫だよ」と告げた。ちょっとでも、安心させたくて。何が? と彼女が顔をあげる。僕は口元をそっと緩めて、
「この世界は才能があるとかないとかより、いい奴から先に死んでいくから」
名前ちゃんが、丸い瞳をぱちりと瞬く。そうやって、僕の言葉の意味を、脳内で反芻させて。
「じゃあやっぱり、南雲くん早死にするじゃん」
大真面目に返されて、今度は僕が目を丸くした。
どうやら名前ちゃんは僕のことをいい奴だと認識しているらしい。……駄目だ、おかしすぎる。肩を震わせる僕の頬を彼女は摘みあげて、「ちょっと、何笑ってるの」とムッとする。
「わら…っ、笑ってないよ〜〜」
「嘘つけ」
「いひゃい」
両頬を摘んだ指に無遠慮に力を込められ、せめてもの抵抗に文句を零した。その気になれば彼女の細い腕なんて簡単に振り払えるけれど、そんなことはせずにされるがままの状態でいると、「そういうとこだよ」と彼女はちょっと困ったように笑った。
頬を摘んでいた両手が離れる。くるりと背を向けた彼女は、「ご飯にしよ」とリビングへと向かう。その小さな背中に向かって、僕はそっと口を開く。
「……僕がいい奴だとしたら、君限定なんだけどなぁ」
ぴたりと彼女の足が止まって、「何か言った?」「ん〜ん、何にも〜〜」にこにこと笑みを浮かべた僕に、「また隠し事かあ」と言わんばかりの顔をして。「まあいいんだけど」と彼女は肩を竦めた。
名前ちゃんを追いかける。ダイニングテーブルの上には彩り豊かたな食事が並べられていて、やっぱり来て良かったなと僕は席に着く。
2023.07