デッドエンドが呼んでいる



 夏油傑が逃走した。旧■■村の住人、百十二名の命を奪って。
 耳を疑う内容に頭が真っ白になったことは覚えている。行くあてもなく彷徨っていたらしいわたしは、気がづいた時には雑踏の中にいた。

(どこだろう、ここ)

 未だぼんやりとする頭を何とか働かせ、周囲を見渡していたら、どん、と肩に衝撃が走った。思わずよろめくわたしを横目に、舌打ちをしたサラリーマンが去っていく。「突っ立ってんじゃねえよ」そんな声が聞こえ、憤りを覚えた瞬間。

「大丈夫かい?」

 頭上から降った柔らかな声と差し伸べられた手に、息を呑んだ。
 おそるおそる見上げれば、穏やかに目を細めた男。

「夏油、くん」

 動かないわたしに痺れを切らしたのか、彼は更に手を伸ばすと、わたしの腕を引いた。そのまま人気のない路地裏まで連れられ、ようやくハッとしてその手を払う。

「……どうして?」

 距離をあけ尋ねたわたしに、彼は心底不思議そうに首を傾げた。

「それは何に対しての質問?」
「どうして、こんなところにいるの。何でわざわざわたしの前に」
「高専の連中を殺すため、って言ったら?」
「まさか。殺意の欠片もないくせによく言う」

 瞼を伏せて、肩を竦める。いっそ怨恨の意を向けてくれていたら楽だった。彼がわたしを殺すつもりなら、こちらも彼を殺すつもりで戦えたのに。
 わたしの返答に小さく喉を鳴らした彼は、優雅ともいえる動作で首を振ると、

「私にもよく分からないな。最後に一目見たいの思ったのかも」
「なにそれ」
「そのままの意味さ」

 彼の瞳には殺意がないどころか、反対に何らかの情すら感じられた。敵対しなければならない人間から向けられるそれは居心地が悪く、逃げるように視線を逸らす。

「……じゃあ、なんで殺したの。冤罪じゃ、ないんでしょ」
「呪術師だけの世界をつくろうと思って」

 即答した彼に、その真意を問おうと喉元までせり上がった言葉は、脳内に浮かんだいつかの記憶に押し止められた。
 木造建築の校舎の中。夕陽の差し込む廊下に設置された長椅子に座り、特級術師・九十九由基と「呪霊の生まれない世界をつくる方法」について論じていた彼。
 ――非術師を皆殺しにすれば良いじゃないですか。
 そう苦しげに吐露するのを、死角になった曲がり角で、わたしは確かに聞いていた。
 九十九さんは、彼のその意見を否定しなかった。寧ろ方法としては有効的である、と。
 そうしてわたしもまた、彼がそんな感情を抱いていると知っていながら、批判も慰めも、諭すこともしなかった。
 何故?――決まっている。
 星漿体・天内理子を救えなかったあの惨劇を思えば、世間の上っ面を撫でるような正論には何の価値もないと思っていたからだ。何の罪もない少女の死を喜ぶ連中なんて、そんな非術師なんて死んでしまったっていいと、わたし自身も心のどこかで思っていたから。
 ただ、わたしは九十九さん同様に、非術師を全て殺すほど非情にはなれないと思った。家族や友人までも手にかけることは、できないと。けれど、彼がその道を選ぶというのなら。

「間違っていると思うか」

 夏油くんの問いかけに、意識が現実へと引き戻される。
 わたしは力なく笑い、「少なくとも、呪術師としては」
 そうして薄い笑みを浮かべたままの彼を見て、続く言葉は自然に口をついていた。

「わたしも連れてって」

 それは、学友と繰り返した「おはよう」の挨拶くらいに軽く、至極当然に零れていた。
 信じられないものを見るように目を見開いた彼は、かろうじて「は?」と声にした。だから、わたしは繰り返す。

「わたしも連れてって」

 先程よりもゆっくりと、はっきりと。

「……聞こえなくて聞き返したわけじゃない。意味が分からなくて聞き返したんだ」
「なんで?そのままの意味だよ、単純でしょ」
「単純なものか。地獄に落ちるぞ」
「いいよ、夏油くんと一緒なら」
「……悟と離れてもか」

 唐突に出てきた学友の名に、わたしは目を瞬かせる。

「どうしてそこで五条が出てくるの」

 すると再び、彼の瞳が驚きに満ちる。「どうしてって」明らかに動揺した声音で、彼は返した。

「君、悟のことが好きだろう」

 一瞬、何を言われたか分からなかった。彼の紡いだ言葉を脳内で反芻する。そうして理解した途端、どうしようもなく笑いが込み上げてきた。
 肩を震わせ喉を鳴らすわたしに、訝しげな表情を向ける夏油くんへ、「分かってないなあ、夏油くん」
 硝子ちゃんと放課後の教室で交わした恋の話。自販機の前で五条に「オマエさあ、傑のこと」なんて揶揄われた日のこと。そこに現れた夏油君から慌てて逃げたこと。はじめて長期任務に向かう前、夏油くんがくれたお守りを宝物にして、以降の任務でもそれにこっそり口づけなんかをしていたこと。
 そんな青い春を記憶の奥へ閉じ込めながら、わたしは唇に弧を描く。

「わたしずっと、夏油くんのことが好きだったの」

 まさか、人殺し相手にこんな告白をする日がくるなんて、思いもしなかった。
 夏油くんが何を思ったかは分からない。ただ、彼はどこか切なげに瞳を震わせて、絞り出すように問いかけた。

「……本当に、いいのか」
「うん、いいよ」
「……そうか」

 わたしの即答を受け、安堵ともとれる息を吐く彼は、やがて、何かに縋るように喉元へ口づけた。ちくりと痛みが走り、花のような赤い印が浮かぶ。

「なあに、これ」
「所有の証、私から離れてくれないように」

 それは、呪いのような彼の祈り。
 行こうか、と差し伸べられた手を、小さな笑みとともに強く握った。
 ――もう、後戻りはできない。
 それから彼は、天元様を信仰崇拝する盤星教を、代表役員を殺害することで乗っ取った。わたしたちは、非道で合理的な方法で勢力を拡大していく。
 非術師――彼の言葉を借りるなら話の通じない猿共――の地を浴び続ける毎日。「バケモノ……!」そう泣き喚く奴らに「どっちが」とその首を刎ねる。後悔なんてない。これはわたしの選んだ生き方で、ここには彼の『正義』が溢れている。けれど、死体の山を見ているとふと思う。『正義』と『善』は別物であること。わたしも夏油くんも、今の世の中の物差しで測れば紛れもなく『悪』だということ。
 ならば、いずれは罰を受けることになる。罰を受けなければならない日がやってくる。それはきっと、この身の死をもってのほか、あり得ない。
 数年前、新宿の雑踏の中で、わたしたちを追いかけてきた学友のことを思い出す。あの日の彼はわたしたちを殺せなかったけれど、次に再会した時はきっと、引き金を引くだろう。他でもない、彼自身の正義に則って。

「おつかれ。こっちも終わったから戻ろうか」

 人を殺した後とは思えぬ穏やかな笑みで現れる夏油くんに頷き、その隣を歩く。
 ……わたしは今、どんな顔をしているだろう。隣の彼と同じように笑えているだろうか。そうだといい。そうであってほしいと思う。
 そっと目を閉じれば、脳裏に浮かぶ青い春。靄のかかるその中で、それでも少年少女は楽しそうに笑っていた。
 ――かつての同胞が、この心臓を貫いてくれるその日まで。わたしはもう少し、この歪んだ正義の中で息をする。


2020



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