フロム・ラヴァー
「――名前さん!」
彼女の名を呼んで伸ばした手が届かなかったことを、未だに思い出す。
あの日以来繰り返し見る夢にはもう随分と慣れた。胸が締め付けられるような思いになるものの、汗だくで飛び起きることも泣き叫ぶこともない。
ぼやけていた視界がくっきりと輪郭を帯びるのを待ってから、腹筋に力を込める。
「よっと」
短く声を発し、ベッドから起き上がる。
裸足でぺたぺたと階段を降りていくうちに、食欲のそそる匂いが鼻に届いた。
「あら、今日も早いのね。なんの気まぐれかと思ったけれど、ちゃんと続けられてるじゃない」
こんがりと焼けたベーコンの乗るフライパンを片手に、キッチンから母さんが言った。
「だから言ったじゃん、今度は本気だって」
「ええ、そうだったわね。朝ごはんもちょうどできたから食べちゃいなさい」
「ありがと!いただきます」
食パンに目玉焼き、カリカリのベーコンとサラダ、牛乳。およそ成長期の子どもに必要な栄養素がふんだんに詰められている、健康的な朝ご飯を胃に送る。朝の占いが終わる頃には歯磨きをして、制服に着替えて、寝癖がないか少しだけ髪を意識して。
「じゃ、いってきま〜す」
「いってらっしゃい」
以前よりも30分程早い時間で、オレは家を出る。
向かう先は、彼女の家。玄関の前で行儀よく立って、およそ5分後。木造りの茶色い扉が開き、小柄な女性が現れた。ゆったりとしたベージュ色のニットが、秋を迎えた今の季節によく合っている。
「おはよ!」
すぐさま笑顔で声をかけたオレを見て、彼女は呆れたように溜息をついた。
「また来たの?緑川くん」
「駿でいいって言ってるのに。ね、今日も一緒に学校行こ」
「方向一緒じゃないでしょ」
「いーの、そのためにオレ早く家出てるんだから」
困ったように眉を寄せて笑う彼女は、それでも絶対にオレを追い返さない。ので、オレはその横に並んで歩き出す。玄関の奥から伺うようにこちらを覗いた名前さんの両親に、小さく会釈をしてから。
「ほんと、変わってるよね。急に現れたと思ったら、こんなオバサンと友だちになりたいなんて」
会話を切り出したのは、名前さんからだった。
「おばさんって。まだ大学生じゃん」
「来年からは社会人になるの。高1からしたらオバサンでしょ」
「……オレはそんなこと思ってないよ」
一ヶ月前――
「それにしても、過ごしやすくていい天気だねえ」
透き通るほどに青い秋晴れの空を見上げながら。こちらの気も知らず、のんびりと彼女が呟いた。
・
今から二ヶ月ほど前。
こちらの国に攻めてきた
なかなか目覚めない彼女について説明した医者の難しい言葉を簡潔にまとめると、「生きているだけマシ」な状態だったらしい。
そして、それから数日後。彼女は無事目覚めたものの、ボーダーに関する記憶を失っていた。
ボーダーの上層部は担当医と彼女の家族と話し合いを行い、結果として、彼女へボーダーに関する一切の情報を与えないことに決めた。
記憶喪失はボーダーに関するものだけで、日常生活には支障がない。大学卒業までの残り数ヶ月は三門市で友人たちと過ごし、来年からはここから離れた地で就職し、こんな危険な世界のことは忘れたまま生きてほしい。それが、彼女の両親の願いだった。
とはいえ、黒トリガーを扱うほどの実力者でトリオン量も多かった彼女が、
噂で聞いたその話に、自ら忍田さんらに頼み込んだのが、一ヶ月と少し前のこと。
側から見たら、師匠に当たる人物だった彼女のことを思う、健気な少年に見えたかもしれない。けれど本心は、自分勝手なものだった。
一度も相手にされたことはなかったけれど、オレは、彼女のことが大好きだった。否、今でも大好きなのだ。彼女の一番近くにいるのは、オレでありたかった。彼女がここを発つ、最後の日まで。
・
彼女を大学まで送り届けた日の夕刻。
いそいそと帰り支度をして教室から出たオレは、「お前今日日直だろ!」と叱咤した友人に首根っこを掴まれ、強引に座席まで連れ戻されていた。
「ヤダヤダ見逃して!今日だけ!いや来月もだけど!この一年だけは毎日早く帰んなきゃ!」
「はぁ!?アホか!」
「ぐえっ」
容赦のない打撃を頭で受け止め、渋々椅子に着席。鞄から日誌を書くためのペンを取り出す……より先に、スマートフォンを手に取った。
『ごめん、日直で遅くなる。学校で待ってて!』
連絡の相手は、もちろん名前さんでである。日誌にペンを走らせながら、ちらちらとスマホを確認。数分してバイブしたそれを慌てて掴み、内容を確認する。
『分かった』
簡潔な返事の後に、『グッド』のポーズをしたネコのスタンプが続いている。
ほっと、胸を撫で下ろす。『なんで?』と先に帰られたらどうしようかと思った。安心して、鞄の中にスマホを滑り込ませる。先生に見つかって没収されては敵わない。
おぼげな記憶を頼りに日誌を仕上げた後は、友人と今日の給食が美味しかっただの、好きな女の子のタイプだの、他愛もない話をしながらガサガサと教室掃除をした。
だから、気づかなかったのだ。
『ごめん。友達に声掛けられたから、一緒に帰ってる』
彼女が他の誰かと一緒に、大学から離れてしまっていたなんて。
・
「ごめんね、急に誘って。誰か待ってたんじゃないの?」
「ううん、その子も遅くなるって言ってたし。連絡入れたし、大丈夫」
「そっか」
落ち着いた声音と一緒に、穏やかな笑みが向けられる。すらりと伸びた体躯をしたその青年は、同学年、同学部にも関わらずあまり接点のない人だった。ただ、纏う雰囲気が温かくて、とても好印象を受ける。
「本当はずっと話しかけたかったんだけど。最近ずっと、小さい子と一緒だったから」
遠慮がちなその言葉に、「ああ」と小さな言葉が零れた。おそらく、いや、間違いなく、緑川くんのことだ。
「彼、弟とか?」
「ううん、弟じゃなくて」
否定しようとして、言葉を詰まらせた。弟じゃなくて、何だろう。ともだち?……そう、ともだちのはずだ。彼だってわたしに、「友だちになろう」と声をかけてきた。だから、そう伝えればいい。それなのに、何故か喉の奥がつっかえる。何だろう。なにか、大切なことを忘れている気がする。
「……さん、大丈夫?どうかした?」
「えっ……ああ、ごめん。ちょっとぼーっとしてた」
「そう?疲れたんならどっかで休もうか?そこ、公園もあるし」
「……」
そう言って彼が指差した公園は、わたしが緑川くんと出会った場所だった。たいして高くないすべり台とブランコ、あとは動物を模した乗り物と砂場があるだけの小さな遊び場。敷地をくるりと囲うように咲いている白とピンクのコスモスは、当時はまだ青い茎が伸びている途中だったと記憶している。
『ねえ、お姉さん。名前、なんて言うの?』
『――さん。名前で呼んでもいい?』
『オレと、友だちになろうよ』
ベンチに座ってぼんやりとしてたわたしに、声をかけた少年。緑川くん。
……そういえば。あの時も、訳も分からず懐かしい気持ちに襲われていた。彼を見て、あるいは彼のことを考えて不思議な感覚に襲われるのは今日に限ったことではない。特に、わたしから視線を逸らした彼が、こっそりと薄い笑みを零す時。そのどこか寂しげな微笑みを見る度に、何か大事なものをどこかへ置いてきてしまった気がしていた。
ベンチに腰掛けた隣の彼に愛想笑いを向けながら、そんなことを考える。
少なくともわたしは、今隣にいる同い年の彼よりも、自分よりずっと年下の少年のことが気になって仕方がないらしい。……どうかしている。
「そうだ。今度、一緒にどこか出かけない?」
「どこか?」
「うん。たとえば、映画館とか……」
と、その時だった。ばち、と、静電気が発生したような音が耳をつんざく。
え、と思って間も無く、わたしたちのすぐ傍に黒い穴が開く。異世界からの侵略者が訪れる、
瞬時にそんな思考が過ぎり、頭痛がする。異世界からの侵略者?
「う、うわあああ!」
情けない悲鳴と共に、こちらに見向きもせず、青年が走り去る。か弱い女の子を置いていくなんて信じられない、そんなことをふと思った時、脳裏で拗ねたようにこちらを見る誰かの姿が過った。
『やっぱり女のひとは、男が守らなきゃって思うじゃん。それが、好きな相手なら尚更』
「う……っ」
頭痛が一層酷くなる。頭の内側から、鈍器で殴られているようだった。
堪らずその場に崩れ込んだわたしを、黒い影が覆う――。
・
鳴り響いた電子音に、びくりと体を震わせた。プライベート用のスマホではない、ボーダー隊員に支給される通信機。
急いで確認すると、『警戒区域外に
まさか、と嫌な汗が背中を伝う。
「緑川〜、あとこのプリント……どぉわ!?」
「ごめん!今日だけ許して!」
「はぁ!?結局かよ!うぉい!明日先生にチクるからなぁ!!」
そんな恨み言に、耳を貸している暇はなかった。即座にトリオン体になり、電柱を、住宅街の屋根を伝い、グラスホッパーを使って目的の場所へ向かう。
途中入った本部からの連絡が、誰からのものだったからは分からない。ただ一言、『すみません、今度こそ助けます』と告げれば、以降は何もかかってこなかった。オレの動向はおそらく、本部のレーダーで既に確認されている。問題なし、と判断されたのだろう。
――見つけた!
グラスホッパーを使い、一直線に向かう。トリオン兵が彼女に伸ばしていた腕を斬り落としてすぐ、身を翻しトリオン供給器官を破壊する。
(まず、一体!)
対応する隙を与えるな。熱くなりすぎるな、冷静に対処しろ。
「……渡さないよ、この人は」
小さく息を吐き、前方の敵を真っ直ぐに見据える。
・
『よーう、ちょっとさ、こいつの面倒見てやってくんね?』
軽そうな男が、女に声を掛け、自身の後ろに隠れたままの少年を差し出した。ふわふわした薄い茶色の髪が特徴の男の子。不機嫌そうな顔さえしていなければ、随分かわいらしい少年だった。
――なんでわたしが。
女がそう返す。それとほとんど同じタイミングで、少年もまた『オレやだよ、こんな女!』と声を荒げた。
『こんな女ってなぁ……。これでも俺と並ぶくらいの実力者だぞ』
『えー!?S級ってこと!?胡散臭ぁ!』
――何この礼儀のなってないガキ。
『おま……っ、ほんと意外と口悪いよな、子ども相手に落ち着けよ』
『うるさいなあ、誰がガキだって!?このオバさん!』
――はぁ?
『だぁー!分かった分かった、落ち着けって!そんでおまえら、一回模擬戦してみろって』
頭を抱えた男を挟むようにしていた女と少年は、お互い鼻を鳴らしてブースへ入った。
結果は、女の圧勝だった。大人気なく
少年を紹介した男は、肩を竦めて笑っていた。
更に女を驚かせたのは、翌日、少年が再び姿を見せたことだった。
――今日はなに?
問いかけに、少年は少しだけ気まずそうな顔をした後、意を決したように口を開いた。
『あのさ……、戦い方、教えてほしいんだ』
場面が、切り替わる。
『ねえ、今日オレ、
嬉しそうに報告する少年に、女が応える。
――すごいじゃん。
その表情は、初めて会った時とは打って変わり、姉が弟にするような、あるいは、大切な者を見るような、慈愛に満ちたものだった。
『あんたのお陰だね』
――きみが強いからだよ。
『へへ』
――そういえば。
『うん?』
――初めて模擬戦した後、なんでわたしに教えてもらう気になったの?
不意に、女がそんな質問をする。面食らった少年は、視線を逸らし、ぼそぼそと呟いた。
『それは、あんたが、すごく、きれいで……』
――え?
よく聞こえない、と女が不満げに声を漏らす。途端、カッと少年の頬が紅くなった。
『オレ、帰る!』
飛び出す少年の背を、大きく見開いた眼で見つめる女もまた、その頬を赤く染めていた。あからさまな彼の態度が羞恥を伝染させたのだ。「いやいやいや……」ありえない、と言い聞かせるように息を吐く。十も離れた相手に、そんな感情を抱けるものか――。
三度、場面が切り替わる。
『ねぇ、どんな人がタイプなの?』
帰路の途中。夕暮れの公園で、ふと少年はそんな問いかけをした。
――……何でそんなこと聞くの?
『今日、イケメンの先輩から告白されたのに振ったんでしょ』
ああ、と女が苦笑する。『今好きな人がいないから』としつこかったあの青年のことか。
そわそわとと見てくる少年の気持ちに、女はとっくに気が付いている。やんわりと対象外であることを告げようか。そんな風に思ったのに、開けた口から零れた言葉は、『わたしより強いひと』などという、随分と曖昧なものだった。
女の返答に、少年はパッと顔を輝かせる。
『ほんと?年下でもいいってこと?』
――……そうかもねえ。
『じゃあさオレ、あんたより強くなるよ。どんな時でもあんたを守れるくらい。だから、その時は――』
頬を染めた少年が、真っ直ぐに女を見る。
『その時は、オレと付き合ってよ』
薄緑の瞳が、女を射抜いた。その提案に、女は、おんなは、わたしは――。
・
残りのトリオン兵2体も倒し終えたところで、本部から再度通信が入る。
『全く、肝が冷えたぞ。だが、お疲れ様。よくやった、トリオン反応は消失している。もう大丈夫だ』
相手は忍田本部長だった。謝罪の後に通信を切ってから、ベンチの近くで蹲ったままの彼女に駆け寄る。
彼女は、これからどうなるんだろう。この件に関する記憶措置を行われて、また、日常に戻るのだろうか。
「大丈夫?立てる?」
そんなことを考えながら手を差し伸べて、オレはぎょっとした。
泣いていた。丸い双眸からぼろぼろと涙を零す彼女に、背中に汗が伝う。
「ど、どうしたの!?怪我!?どっか痛い!?怖かった?来るの遅くなって、ごめ――」
矢継ぎ早に紡ぐ言葉は、途中で途切れる。
柔らかな感触。甘い匂い。彼女が、オレを、抱き締めていた。
「な、に、なんで」
「……しゅん」
どこか拙く、彼女が名前を呼ぶ。それは、記憶を失う前。彼女がボーダーにいた頃にしてくれていた呼び方。
頭が、上手く回らない。まさか、まさか。
「……ずっと、守っててくれたの。あの日から、ずっと。わたしは、ぜんぶ、忘れちゃってたのに」
ごめんね、と、ありがとうを繰り返す彼女に確信する。本当に、思い出したんだ。ボーダーで戦っていたこと、オレと過ごした日のこと、記憶を失うきっかけになった、あの苦しい日のことも。
「当たり前、じゃん」
そう言うオレの声は、情けないくらいに震えていた。ああもう、どうせなら格好良くしていたのに。感情が昂って、どうしようもなくて。
「オレが、どんだけ、あんたのこと、好きだと思ってんの」
ふふ、とくぐもった笑い声が、オレの胸の中から聞こえてきて、それが、とてつもなく幸せだった。彼女がこんなに近くにいるのは、はじめてで。
「……ねえ」
緊張で、言葉が震える。あの日と同じ、夕暮れの中。祈るように、オレは尋ねる。
「あの時の約束、覚えてる?」
ぴくり、と彼女が小さく震えた。逃げられてしまわぬよう一層強く抱き締め、言葉を続ける。
「オレ、あんたを、ちゃんと守れたよ」
回された腕の力が、強くなる。そうして胸元から聞こえてきた返事の言葉に、オレはまた、情けなく泣いてしまうのだ。