惚れたもん負け
「私ばっかり好きみたい」
そうやって別れを告げられることが多い人生だった。特段引き止めようと思うこともなかったから、切り出された別れはすんなりと受け入れて、「そういうところだよ」と泣かれるか引っ叩かれるかまでが大抵のワンセット。そんなんだから、もう暫く彼女はええわ、と、本気でそう思っていたのに。
「お〜!見てこれ見てこれ、わたしなかなか上手くない!?」
あんたほんとに俺より年上ですか、と突っ込みたくなるほど無邪気な笑顔で。くるくるとたこ焼きを作っている女は、一ヶ月程前に俺にできた彼女である。
苗字名前。現No.1
――事の発端は約一ヶ月前。冷え込みが強くなり、秋が通り過ぎようとしている時節のことだった。
・
夜間の防衛任務後。
一旦ボーダーの基地へ戻り、隊室で身支度を整えてから再度外へ出る。瞬間、思わず溜息が零れた。
橙色の葉が半分程落ちた木立が、雫を受けて闇の中にぼんやりと浮かんでいる。ぱちぱちと響く音、アスファルトからほのかにのぼる独特のペトリコール。この時期の雨は、とにかく気分を億劫にさせる。
――まあ、任務中に降らんかっただけマシやな。
そう言い聞かせ、洒落っ気のないメンズ用の傘を開く。
先に帰ったイコさんらは雨に打たれんかったやろかと、そんなことをぼんやり考えながら路地を歩いていく。程なくして大通りの交差点に出たところで、眉を寄せた。
夜中でも煌々と明るい、コンビニの入り口前。安そうなビニール傘を片手に持つ女に、酔っ払いの男が二人絡んでいる。店内にいるコンビニの店員はひとりのようで、おろおろと細い腕を挙動不審に動かしていた。こちらも男ではあるが、見るからに頼りにならない。
(え〜〜……めんど……)
あからさまにげんなりする。正直疲れているし、関わりたくない。とはいって無視もできないので、そそくさとスマホを取り出し、110番を押したところで。
「あ」
たぶん、俺と女、ふたりとも声に出していたと思う。
(……アカン。めっちゃ目ぇ合ってもうた。ボーダーの先輩やんけ)
それも、先程まで一緒に防衛任務にあたっていた人物――苗字さんである。なんでも、元々は太刀川さんが来る予定だったのに大学の単位が本当にやばいとかで来れなくなり、「今日の防衛任務は俺がいないと駄目なんだ」とごねる彼を黙らせるべく、非番だった彼女が呼び出されたのだとか。一通りの説明をイコさんにした後、「ま、逆立ちしても太刀川の代わりにはなれないんだけど」なんて言い切った彼女はとても太刀川さんと同い年とは思えない幼い笑顔でからからと笑って――って、今はそんなことはええねん。
流石に、このまま眺めているだけは薄情すぎんか。
そう判断し、通話を切ってから。重たい足を動かしてコンビニの前まで向かう。
「名前さん」
近づいて、その名前を呼んで。ふと気づく。
――なんや、男ら思たより背ぇ高ないな。
酔っぱらいの男たちは、背の低い彼女の隣にいたことで相対的に大きく見えていただけのようだった。全員、自分よりは明らかに目線が下にある。
「誰だお前」と言わんばかりの視線を無視し、「待たせてすんません、帰りましょ」淡々と声をかける。すると、一人の男が訝し気に眉を寄せた。横幅は俺よりもある、そこそこ大柄な男だった。
「ちょっと待てよ、急に何だオマエ」
「いやいや、どう見ても彼女迎えに来た男でしょ」
「ウソつけ、さっき『一人だ』って言ってんだよこの子」
威張るように告げた男の言葉を聞き、苗字さんを軽く睨みつける。いやだって、何を素直に答えとんねん。嘘でも彼氏が来るとか友達がおるとか言って、太刀川さんとか――何なら父親として忍田さんとかに迎えに来てもろたらええやんか。まあ父親にしてはちょっと若すぎるかもしれんけど。
「ちょお名前さん、いくら喧嘩しとるからってそれはあんまりちゃいます?ええ加減機嫌直してくださいよ、帰ってちゃんと話しましょ」
そう言って何とか、『喧嘩して家を出ていってしまった彼女を追いかけてきた男』を演じる。まあ俺全然息切れしてないし。その辺突っ込まれたらどうしよかって話やけど。
流石に馬鹿ではない苗字さんは俺の意図に気づいたらしく、「ちゃんと話聞いてくれる?」とこれにノッてきた。「おん、聞きます」「……なら帰る」しおらしい振る舞いがなかなか様になっている。先程まで、トリオン兵を軽々と切り捨てていた女とはとても同一人物に思えない。
囲われた中から抜け出そうと、苗字さんは一歩前に出た。が、その細腕を男が掴む。「今更駄目だろ、それは」下卑た笑みと共に迫られる。
――やばいなあ、生身の体力に自身ないねんけど。
あくまでも冷静さは崩さずに。思考を巡らせていると、
「おい、君たち」
「女性にしつこく迫っていると通報があったんだが」
正義感の強い、真っ直ぐな声が届いた。
酔っぱらいの男どもが勢いよく振り返る。そうして、サッと顔を青ざめた。体格の良い警察官が二人、じっとこちらを見つめている。途端、男たちは蜘蛛の子を散らすように退散した。「待て!」厳しい声を発し、一人の警官がそれを追いかける。運動能力の差は明らかだった。二人ともすぐに捕まることだろう。
安堵の息を零す俺と苗字さんに、残っていた警官が「大丈夫ですか」と声をかける。「ありがとうございます」どちらともなくそう言えば、「仕事ですので」と柔らかい笑み。
「ちなみに、連絡をくださったのは?」
「あ、ボクです。ホンマは待つつもりやったんですけど、知り合いやったもんで」
「ああ、なるほど。良いことですが、あまり無茶はしないように。それと……」
俺と名前さんを交互に見てから、警官は少しだけ眉尻を落とす。
「すみませんが、二人とも未成年ですかね?もう夜遅いので、この時間の外出はちょっと……。勿論、ああやって絡んでくる方が悪いんですが」
その言葉に、あからさまに苗字さんがショックを受けた。彼女は太刀川さんと同年代――きちんと成人をした大人である。二十歳になっているかなっていないか微妙なところで身分確認をされるならまだしも、それを省いて「未成年」と確信される程の幼さというわけだ。彼女の信じられないものを見たような顔と言い、あかん、ちょっとわろてしまいそうなんやが。
それをグッと堪え、「すみません、実はボクたちボーダーの任務帰りで」と伝えておく。もうこの際、苗字さんが成人しているとかは言わんでもいいやろ。話が長くなるだけや。
なるほど、と合点が言ったように頷いた警官は、「遅くまでお疲れ様です」と微笑んでから、再度「暗いので気を付けて」と俺たちを見送った。「真っ直ぐ帰ります」と約束し、二人並んで街頭の多い通りを歩く。
そうして、件のコンビニが見えなくなってから。
「ごめん、ありがとう」
と、ようやく苗字さんは口を開いた。
ころり、と鈴を転がしたみたいな声音だ。(この人、こんな声綺麗やったっけ)と少しだけ不思議に思うと同時に、そういえば雨の日の傘の中が一番声が綺麗に聞こえるとか言われとるな、などとぼんやり浮かんだ。
「別にいいですけど。苗字さん、ああいうときは嘘でも『彼氏が来る』とか言った方がええと思います。ボーダーの人らに連絡したら、誰かしら来てくれるでしょ」
「反省してます……」
俯いた彼女が、振りしぼるように応答する。その表情を横目に、少しだけ揶揄ってやりたい気持ちが生まれた。ので、敢えて余計な一言を付け加えてみる。
「なんや実年齢より随分幼く見えるみたいですし。余計危ないでしょ」
「オイコラ」
「冗談です」
傘がなければ俺の胸元を掴んできたのではないかと思うくらいの勢いで詰められ、思わずたじろぐ。怖い怖い、目ぇ据わってるやん。
「別にええことなんちゃいます?老けとるより」
「二十の後半が二十の前半に見えるのと、二十歳になってるのに未成年に見えるのとじゃ全然違う」
「そういうもんですか」
曖昧な相槌を打つ俺に、彼女は深く頷いた。
幾度目かの交差点で、「じゃあわたしこっちだから」と彼女が指を指す。彼女の借りているアパートはどうやら、俺が住んでいるところと間反対に位置するらしい。指し示られた路地を覗いて、少しだけ考えを巡らせる。街灯が少ない。少し奥に、男性らしき後ろ姿。……流石になんも起こらんよな。
そう思いたいのに、無邪気に「ばいばい」と手を振る彼女を見ていると、危機感どないなってんねんと、妙に胸の辺りがざわざわしてくる。後々帰りに痴漢に襲われたとか聞いたら、目覚めが悪すぎんねんけど。
そうして、気がついたら彼女の隣に立って「送ります」と告げていた。ぎょっと目を見開いた彼女が「いい、さすがに悪い」と強く拒否の姿勢をみせる。「彼氏でもないのに」「いや、今日は彼氏なんで。ほらあれです、『喧嘩して家出た彼女を追っかけてきた彼氏』」「その設定まだ生きてたんだ。でもほんとに大丈夫だよ、いっつも通ってる道だし多少のことなら逃げれるし」「いやさっきは逃げれてなかったやんけ」
思わず敬語が抜ける勢いで突っ込んだ。
これじゃ埒が明かんな、と息を吐き。俺は、不意に思いつく。
「……ほんなら、ほんまに付き合います?」
「ん?」
「ホンモノの彼氏になったら送ってってええんやろ」
それから、畳みかけるようにこう言った。
『俺、苗字さんのこと気になっとったし』
――もちろん嘘だ。そしてきっと、彼女もこれが本気でないことくらい気づいている。馬鹿みたいに素直で純粋ではあるけれど、本当に頭が回らない人間ではないから。だから、「何言ってんの」と一蹴して、「そこまで言うならとりあえず今日だけ『彼氏』お願いします」と折れてくれる、そう思っていたのに。
「――うん」
小さく微笑んだ彼女に頷かれるなんて、想定外にもほどがある。
・
そうしてはじまった奇妙な付き合いは思っていたよりもうまくいった。同じボーダー隊員と付き合うのは初めてだったけれど、互いにその忙しさを想像できるというのはかなり良い。「この後会いたい」と無理強いされることもなければ、「ボーダーがそんなに大事なの」と面倒くさい問いかけをされることもない。大学生と高校生ということで一緒に学校に通う必要もなかったし、放課後も同様。そして年上の余裕というやつなのか彼女の性格なのかは定かではないが、「友だちと遊ぶ?いいじゃんいいじゃん、わたしも同級生と飲んでくるわ」というスタンスだったのは非常にありがたかった。もちろん、こちらから彼女の時間を束縛することもない。
結果、俺たちはお互いの私生活も大事にしつつ、時間が合えば一緒に過ごすという、かなり良い距離間の恋人同士になれていると思う。
そして、冒頭の通り。休暇が被り二人とも予定がなかった今日は、俺の家でたこ焼きを作ることになっていた。
「ちょっと水上聞いてる?」
再び声がかけられ、俺は「はいはい、聞いてますよ」と彼女がひっくり返したたこ焼きをちょいちょいといじりながら、「この辺タコはみ出てますやん」と指摘する。嬉々として「わたし上手くない!?」と告げたことに賛同できる出来栄えのたこ焼きは片手で数えられるほどで、不器用さがにじみ出ている。
「そこらへんはタコ、二・三個いれたから」
「うわ、贅沢や」
「ネギとかチーズとかも持ってきてるし、まだまだ豪華にする」
そう宣言した彼女が、用意していた紙皿にたこ焼きをのせていく。その表情がとてつもなく真剣で、妙におかしかった。
「水上、何かけたい?」
「え〜〜、何にしよ。ソースマヨとねぎポン酢とか」
「こってりとさっぱりだ」
超いいね、と全肯定する彼女の体越しに腕を伸ばす。動かなくてもぎりぎり、彼女の横に置かれた調味料類へ手が届きそうだった。
「うわちょ、重ッ、てか手ぇ長!」
当然、真横に座っている彼女に体重がかかるようになるので、文句と共に押し返される。「すんません、手も足も長くって〜」「足が長いとは言ってない」「いや長いやろ」ソースとマヨネーズを取り、元の体勢に戻ってから、「ほら見てみぃ」と彼女と足の長さを比べ合う。「身長差って知ってる?」冷静な突っ込みをいれながら、彼女はネギとポン酢を手に取った。
たこ焼きが見えなくなる程にネギをのせポン酢をかけた彼女が、「いただきます」と手を合わせる。こちらもソースとマヨネーズをかけてから、同じように「いただきます」。二人とも相変わらず、体はぴったりとくっつけたまま。恋人にならなければ許されなかったであろう距離で、だらだらと休日を過ごしていく。
「ねえ、たこ焼き器っていくら位するの?」
「美味しい、美味しい」と頬を緩ませながらたらふく(俺より食べてない?と思うくらいに)食べた後。不意に彼女がそう尋ねた。
「モノによると思いますけど。ニ、三千円くらいでいけるんちゃいます?」
「そっかあ」
「ほしなったんですか?」
テレビのチャンネルを手持無沙汰に変えながら。逆に問いかけると、彼女は「いや、今度大学でタコパしよみたいな話になってるんだけどさ」と切り出した。
「誰もたこ焼き器持ってないんだよね。だから水上が持ってるのびっくりした」
「まあウチは実家大阪ですし」
答えつつ、首を傾げる。そんなん、わざわざ買わんでも。
「俺の持ってったらええやないですか」
「え」
ただでさえ丸くて大きい瞳をぱちくりとさせ、一層幼い表情で彼女がこちらを見てくる。
「借りてっていいの?」
「そら別に毎日使とるわけちゃうし」
「でもわたし、自分の持ってないって言っちゃたし……買ったのってなったら割り勘になりそうなんだけど」
「いやそこは普通に彼氏に借りたって言ってくださいよ」
「……彼氏に借りたって言っていいんだ」
「?事実やないですか」
何かを噛み締めるような、少しだけ違和感のある表情。けれどすぐに「ありがとう」と笑った彼女は普段通りで。気のせいか、と思いながら俺はゆっくりと頷いた。それから、彼女の肩に頭を乗せる。心地が良い。お腹もいっぱいになったし、眠くなってきた。まどろむ意識の中で「片づけせなあかんのに」とぼんやり思ったが、やっぱり体は動かなかった。
・
「美味い飯でも食いにいこや」
防衛任務終わり、夜7時過ぎ。唐突に言ったイコさんに、真っ先に海が反応した。「行くっす!」右手を高々とあげ挙手のポーズまでしている。「よしきた」と言わんばかりに親指を立てたイコさんは、「マリオ、隠岐、水上」とこちらにも賛同を求める。
「ええですね」と隠岐がにこりと笑い、マリオも「賛成」と頷いた。断る理由がないので、俺も同意する。
「ほんならどこ行こか。食いたいもんある?カレーか?」
「カレーは嫌っす!オレ今日の昼学食でカレーだったんで!」
「か、海〜〜!」
あっけからんと言いのけた海に、イコさんが泣いた振りをしながら縋り付く。マリオが「また始まった」と言わんばかりの表情で彼らを一瞥し、取り出したスマホに向かって「晩ご飯、近くて美味しいお店」と問いかけた。搭載されているバーチャルアシスタントが反応し、「オススメヲヒョウジシマス」と十数件の料理店を地図上でピン留めする。
「焼肉とかあんで」
「そこ二宮さんらがよく行ってるとこちゃう?俺らの財布が死ぬやろ」
「寿司ええやん」
「オレハンバーグの方がいいっす!」
「海はハンバーグ、了解」
「『かげうら』もおススメされとりますよ」
スマホを覗き込みながら、やいのやいのと言い合っていると、ふと見知った店が目に入る。「あ、ここ美味いらしいで」そう言って何気なく指さすと、全員が視線を集中させた。
「焼き鳥屋?」
「肉だ!いいっすね!」
「居酒屋とちゃうんですか?このメンツで行って大丈夫です?」
「夜は酒も出るらしいけど。個室やし高校生も来るみたいやから大丈夫やろ」
「WらしいW?」
全員に反応され、「しもた」と思う。その動揺を表には出さないよう淡々と、「あー、苗字さんがよく行っとるねん。学割もあるからええって……なんやねんその顔」
見ると、全員が全員何かを見守るみたいな穏やかな目をしているもんだから、ぞわりと背筋が震えるし、顔が僅かに引き攣る。そんなこちらを相変わらず楽しそうに見つめ、
「青春やなぁ…!」
「仲良さそうでええですね〜」
「割とうまくいっとるんや」
好き勝手に言う彼らに「うっさいわ」と一言。何となく気恥ずかしくて「海の言っとったハンバーグでええやん」と言うのに、「オレもう焼き鳥の気分になったっす!」と舌をペロリ。
「なんでやねん、気ぃ変わるの早すぎやろ」
呆れと共に告げ、公式のサイトに記載されていた金額を確認する。めちゃくちゃ安いという訳ではないが、「かなり美味しい」とのことなので妥当な値段か。結局全員がその焼き鳥屋に賛成し、ボーダーの基地を後にする。
街路の木々はいつのまにか葉を落とし、細い骨のようである。びゅう、と吹き付ける風に身震いをして、マフラーに顔を埋めた。マリオの耳当てあったかそうやなぁとか、海の新しいネッグウォーマーは彼のお気に入りのバンドのコラボグッズであるとか。他愛もない話をしながら、お好み焼き『かげうら』の前を通り過ぎる。それから少し歩いて左に曲がり、細い路地の一画に目当ての店を見つける。橙色の灯りが灯っており、店先で『地鶏』と書かれた旗が閃いていた。暖簾を潜って入店すると、すぐに「いらっしゃいませー」と明るい声。
「何名様でしょうか!」
「五人です」
「少々お待ちくださぁい!」
入ってすぐ左手側が厨房らしかった。透明なガラスの中、網の上で焼き鳥がじゅわじゅわと音を立てている。香ばしい匂いも充満しており、視覚的にも嗅覚的にもお腹がすく。
「めっちゃ賑わっとるなぁ。空いとらんかも」
マリオが小さく零した。「無理やったら『かげうら』にでもいきますか?」と隠岐も話すが、程なくしてそれは杞憂に終わる。
「お待たせしました、奥の方どうぞ!」
よく通る声で案内してくれる女性の後ろをついていく。「こちらどうぞ」と、女性が右手側を指した。扉のついた個室だった。両隣の個室は既に埋まっているようで、色もサイズもばらばらの靴が真っ直ぐに並んでいる。
ごく自然な動作で、イコさんがマリオを奥に上がらせる。お手本のようなレディーファーストだった。この人、こういうとこあるよなぁ。続けて隠岐、海が上がったのを見届けてから、イコさんはこちらへちらりと視線を寄越した。軽い手の動作で「どうぞ」と示すと、「おおきに」と彼も軽く手を挙げる。最後に俺が席についたところで、「ご注文お決まりでしょうか」と店員が尋ねた。
「この食べ放題の分で」
メニューを指しながら、イコさんが応える。別料金のドリンクを必ずひとつ注文しなければならないらしく、「ウーロン茶」「オレンジジュース」「ジンジャーエール」とそれぞれが頼んだ。それから食べ放題用のメニュー表が渡され、全員でそれを覗き込んだ。
「思てたより種類あんな」
「豚バラとかありますよ!」
「水上先輩、苗字さん何よう食べるか知っとるんですか」
「あ、ウチも苗字さんのおすすめ知りたいわ」
「軟骨とぼんじりやな」
かつての会話の記憶を辿り、間髪入れずに答える。マリオはともかく、隠岐の視線は『ちょっと揶揄ってやりたい』とか『動揺せんかなあ』といった好奇心が滲み出ていた。こういうのは変に渋ったり怒ったりするより、淡々と受け流す方が絶対的に良い。
隠岐は善意の塊みたいな表情で「詳しいですねえ」と笑い、「ほな俺それにしよかな」。すぐにマリオが「ウチも」と声を上げ、結局全員分頼むことになる。
豚バラ、軟骨、ぼんじり、とり皮、ハラミ……それから、一品料理のサラダと焼きおにぎりが、暫くして運ばれてくる。焼き鳥はまだ湯気があがる程で、程よい焦げ目と肉汁が食欲をそそる。「いただきます」と告げた後、真っ先に海がかぶりついた。
「アッチ!でも美味いっす!」
「ん!ほんまや。軟骨もめっちゃコリコリ」
俺も、苗字さんが好きだというぼんじりの焼き鳥を手に取った。
――軟骨とぼんじりとね、それと一緒に飲むビールが最近美味しく感じてる。
おっさんみたいとか笑わないでね、と苦笑した彼女のことをふと思い出した。一緒に酒を飲みたい、という感覚はまだよく分からないけれど。彼女が勧めてくれた焼き鳥は、たしかにめちゃくちゃ美味しかった。
苗字さんとどんな感じかとか、最近隠岐が告白されてたとか、マリオがかわいいとか。そんな恋愛もどきの話を押し付け合いながら、四、五十分が過ぎようとしたころ。お腹もだいぶ膨れ、とりあえず一息と俺と隠岐がお手洗いに向かった後。帰り際の通路で、
「あ」
誰から零したかは分からない。俺も隠岐も、開いた扉の中でこちらを見るその人物たちも。口をあんぐりと開け、指をさす。
俺たちの個室の隣。男物の靴が八つと女物の靴が二つ並んだその個室の客はどうやら。
「諏訪さん、堤さん。もしかして成人してる人らで来てます?」
「あ、あー……まあな」
諏訪さんと堤さんを筆頭に、ボーダーの二十歳、二十一歳組が飲みに集まっていたらしい。
「全然気づきませんでした」
「そうだな、俺らも……」
応える諏訪さんの挙動がおかしい。ちらちらと堤さんに目配せをしており、それを受けた彼が何かを察して奥に入ろうと体勢を変える、瞬間。
「見てほらわたしの彼氏、ほらぁ!」
「うるっせえ二万回見たわ!」
「は?三万回見ろ」
「いでででで!ちょ、首もげる、風間さん!」
「俺は四万回見ている」
「嘘つけ!」
「今度ね、たこ焼き器貸してくれるんだけどね、『彼氏の借りた』って言っていいんだって。『彼氏の』って、『彼氏』、ふへ」
「二万回聞いた!二宮!加古ォ!」
「唐揚げ追加していい?」
「寺島さん、ジンジャーエールもお願いします」
「梅酒のロックも」
「お前らぁ!」
いかにも酔っ払い、な声が聞こえてきた。諏訪さんと堤さんの顔が引き攣り、「水上、違うんだ」と譫言のように零される。はあ、と(おそらく)冷めた瞳で返した俺をちらりと見て、冷や汗をかいた堤さんが勢いよく部屋の中へ戻った。
「ちょ、ほんとに!ほんとにまずいから落ち着いて!」
小声のつもりだろうが、こちらにまで聞こえてしまっている。すす、と体を動かして中を覗こうとした俺の目前に、諏訪さんが立ちはだかる。どうやらかなりの修羅場らしい。
「水上、後生だからやめてやってくれ」
「はぁ」
「あいつ、いつもこんなに酔うわけじゃねぇんだよ」
個室の中の賑やかな声をぼんやりた聞きながら、曖昧な返事を繰り返す。普段よりもトーンの高い苗字さんの声はよく届いた。酔うとアホになるタイプか、全然知らんかったなあと。呆れのような、苛立ちのような感情を抱く。
「何の話しとって馬鹿みたいに酔ったんです?」
「いやまあ聞こえてた話みたいな……」
諏訪さんがしどろもどろに言葉を濁す。煮え切らないその様子に珍しいこともあるもんだなと思い、
「また後で本人に聞きますわ」
と、言った。否、言おうとした。その言葉は途中でぶつりと途切れ、「ごふっ」という咳が口から零れる。少し遅れて、
「みずかみだぁ、ほんとにいる」
宙に浮いているようなふわふわとした声で。嬉しそうに、幸せそうに呟く、子どもみたいな女。思わず固まっていると、目前の諏訪さんが悲鳴のような声を上げた。
「何で出てきてんだよ馬鹿!アホは嫌われるから隠してるって話じゃなかったか!?つーか堤は!?」
「たおした」
「倒した!?」
なるほど、確かに。振り返った諏訪さん越しに中を見ると、堤さんが床に転がってしまっている。あと、木崎さんに風間さんも。こっちは酔い潰れているだけかもしれないが、まさに死屍累々。奥で優雅にお酒を飲んでいる加古さんが異常に目立つ。
「おま、馬鹿力がすぎんだろ!離れろって!」
と、諏訪さんが苗字さんの首根っこを掴んで引き剥がそうと試みるが、これがうんともすんともしない。
「みずかみぃ」
「……なんですか」
「好き、かっこいい、大好き」
「……」
まさかここで、「俺も好きやで」などと甘い言葉を吐くわけがない。というか寧ろ、人前でべたべたされるのは得意じゃない。そういう性格だと言うことを、彼女も、なんなら諏訪さんも分かっていて。完全に酔いが回っている苗字さんより、諏訪さんの方がこの世の終わりみたいな顔をしてしまっている。
……理知的じゃないやつは、好きじゃない。こういう、頭が空っぽな人間は苦手だ。付き合うともなれば尚更。ずっとそう思っていたし、今でも自分がそういう人間だと捉えている。それなのに。
「……苗字さん、飲み過ぎちゃいます?」
それを自分が言ったのだと理解するのに、数秒を要した。そのくらいその声色は優しくて、諏訪さんも、隠岐も、目を丸くしてこちらを見つめる。
「あー」と唸るように後頭部に手を当てて。諏訪さんが、絞り出した。
「なんだ。お前、苗字のことちゃんと好きなんだな」
「は?何でですか」
「いやだってお前……、首まで赤ぇぞ」
「っ!」
指摘され、思わず項部分を抑える。めちゃくちゃ熱い。
「そ、んなんちゃう……いや、ちゃうことはないかも、ですけど」
「?何やでかい声したけど水上どうし……」
思った以上に飛び出した大きい声に、隣の個室にいたイコさんが顔を覗かせる。瞬間、口元に手を当てて「ひゃあ」と悲鳴をあげた。その野太い声でそんな声出すな。
「何かあったんすか?ってウオー!?水上先輩やるっすね!」
と、今度は海が出てきて親指を立てる。マリオはイコさんと同じポーズを取り出すし(何でそこふたりが同じポージングやねん)、もうアカン地獄かここは。
「……帰ります」
ようやっと振り絞った声に、諏訪さんがハッとして「ちょっと待ってろ」と個室の奥へと声をかける。
「加古、苗字の荷物取ってやってくれ」
「ええ」
二人のやりとりは太刀川さんの目の前で繰り広げられ、彼の好奇心に満ちた瞳がこちらに向けられる。そして「おっもちかえり〜」などと舌足らずに囃し立てる太刀川さんへ、いつのまにか起き上がっていた風間さんが容赦なく頭突きをかました。「何すんだ風間さん!」「うるさい」……庇ってくれたわけではなく、ただの私怨だったらしい。
彼女のショルダーバッグともこもこのボアブルゾンを受け取る。それから、イコさんにお金を渡そうと財布を取りだしたところで「あー、いい、いい」と諏訪さんに止められた。「こっちで払うっつーの。生駒らの分も」「え」一緒に食べていたわけでもないのに悪いと断っていたが、「いーから早くそいつ送ってやれ」と押し切られてしまいどうにもならなかった。続けてタクシー代まで渡そうとしてくるので、それだけは丁重にお断りした後、俺は苗字さんに肩を貸して店を後にする。
「苗字さん、あんまふらふらせんとって」
「だって浮いてる……ほぼ浮いてるんだけど……」
それはまあ、身長差がかなりあるんだから我慢してほしい。これ以上屈むと俺が死ぬ。
バス停付近で少しでも暖を取るかのように身を寄せ合いながら。程なくして通りがかった空車のタクシーに向かって手を挙げる。
・
水上を見届けた後。
酔っぱらいどもの肥溜めに戻ると、ようやく起き上がった堤が「苗字、ちゃんと両想いみたいで良かったですね」と微笑んだ。
「見てたんか」
「まあ、部分的にですけど」
頷いて、彼はよく冷えた水を流し込む。
「タクシー代もいらねぇって断られたわ。あれ、申し訳ないっつーより他の男に金借りたくないって感じの
水上の微妙な顔を思い出し、くつくつと笑いがこみ上げてきた。
まあ何はともあれ、「付き合うことになりました」の報告時も「向こうは本気じゃないっぽいけど」と笑ったり、「どうして付き合えてるのか分からない」など酒を飲む度に零して半泣きになっていたりした苗字のことを思うと、心底良かったなと思う。来間も、相変わらず人のよさそうな笑顔で「苗字ちゃん、よかったね」と加古に話しかけているし。
ポケットから煙草を取り出し、口に咥えて火をつける。立ち上っていく紫煙がどこか楽し気に上空で揺れた。
・
すっかり縮こまった苗字さんを抱えてアパートの階段を上がり、部屋の中へ入る。これだけ酔っている相手に特に何か起こる訳ではないと思いながらも、数日前に掃除しておいて良かったなどと考えて。廊下を歩き、少し悩んだ末にベッドの上に彼女を降ろす。
「苗字さん、上着脱げます?」
うつらうつらと頷いた彼女が、ブルゾンを脱ぐ。それを受け取り、ハンガーにかけている最中、何を思ったか服まで脱ぎ去ろうとした彼女にぎょっとして慌てて止めた。
「ちょ、上着だけでええんです、それは着といてください」
「ん……」
小動物のようにこくりと頷くが、果たして本当に理解してくれているのか。溜息を吐きながら、とりあえず水を用意しに台所へ向かう。少しでも目を覚ましてもらわないと、困る。
ほぼ苗字さん専用になりつつあるマグカップに水を注ぎ、彼女の元へ。「ほら、水飲んで」と差し出した時。
「んぐっ」
視界がぐらついて、まじか、と脳内に警告が走る。
思い切り、唇を押し当てられていた。唇を奪われる、というその表現がぴったり当てはまるくらいの勢いだった。ちゅ、ちゅう、とリップ音が響く。
「あかんって、水零れる……っ」
握りしめたマグカップを理由に抵抗を示すと、思ったよりあっさりと彼女は身を引いた。かと思いきや、俺の手からマグカップを取って、慣れた仕草でベッドの縁に置く。そうしてまた、こちらを引き寄せて。
再び、柔らかな唇が押し当てられる。何度も何度も角度を変えて口付けられて、酸素を求めて開けた唇の隙間からするりと舌が入れ込まれる。
「は、ちょ、ま……っ、ふぅ……んっ」
ウソやろこの人、なんでこんなに上手いん。
たしかな欲を秘めた、とろりとした瞳がこちらを見つめる。ぎゅう、と心臓を鷲掴みにされているような感覚が襲う。
「……煽ったんは、そっちやで」
少女漫画にあるような歯の浮く台詞とともに。押し倒した彼女に覆いかぶさる。相変わらず、彼女は幸せそうに俺を見つめ、そして。
「みずかみ、好き」
砂糖を溶かしたような甘い声でそう言って。満足げに、瞳を閉じた。
「……は?」
すうすうと、先程までのいやらしいキスがなかったかのように子どものように眠りについた彼女を見て項垂れる。
こんなん、生殺しや……!
・
遠くで小鳥が囀っている。その爽やかな泣き声に混じった「ぎゃー!」という悲鳴で、目が覚めた。
「うるさ……」
呟きながら半目を開ける。カーテンの隙間から差し込む朝陽が眩しい。それから、隣にいたはずの苗字さんが床に座り込んでわなわなと震えていて、俺は「戻ってきてくださいよ」と声をかける。
「床冷たいでしょ」
「や、や、ヤって……」
「ヤってはない」
壊れたロボットのように繰り返す彼女を即座に否定。生殺しにされた昨晩を思い出して、少しだけ不機嫌な声が出た。
「ほん、本当に……申し訳……」
「何に対しての謝罪ですかソレ」
「人前で抱き着いたり……、抱き着いたり……、帰りもご迷惑を……」
その返答に、薄目を開ける。思っていたよりも記憶は残っているらしい。居酒屋の時点でかなり酔っぱらっていたので、一切覚えていないのかと思っていたが。
「ここ来てからのことは覚えてます?」
「タクシーから部屋まで、運んでもらった……?」
「や、中入ってから」
「えっと……」
「……」
苗字さんは左右に目を泳がせて俯いてしまう。この反応はどっちだ。じぃと見つめながら思考を巡らせつつ、俺は自分の唇を差しながら淡々と言う。
「めっちゃやらしいキスされました」
「ウワーー!!」
「声でかっ」
顔を両手で覆って叫ぶ彼女。なるほど、これは覚えているっぽい。
「すごかったなあ、舌も入れられたんやけど」
「ヒィ、ごめんなさいごめんなさい」
「ははっ」
堪らず笑ってしまった俺を、苗字さんが目を丸くして見つめる。「何ですか」と問えば、「そんな風に笑うとこはじめて見た」。
「えー。俺普段そんな無表情ですか?」
「表情筋ほぼ死んでる」
「言い方」
「あと……、普通に冷めて振られるかと思った」
「あー……」
唸りながら視線を逸らす。
やっぱりこの人は、馬鹿じゃない。俺に対するその認識は大正解だ。いや、大正解だった。
「俺、昨日苗字さんのアホなとこ見た時、なんか苛ついたんですよね。あと呆れた」
ぽつりと零すと、「耳が痛い……」と渋い顔。本当に、表情がころころ変わっておもしろい。
「でもあれ、苗字さんに苛ついとったいうより、諏訪さんらが俺が知らん苗字さん知っとることへのムカつきやったんやなあって」
「……?」
「言うとる意味分かります?」
そっと、体を屈めて。その距離を縮めると、彼女はたじろいで一歩引く。
「何で逃げるんですか」
「だってなんか、わたしのこと好きみたいじゃん……!?」
「みたい、やないですけど」
ヒェ、と妙ちくりんな声を上げて、苗字さんが固まる。それから、おそるおそる、「好きってこと……?」と問いかけた。……わざわざ言わすんか。
「まあ、そうなるなあ」
「じゃあ、わたしも好きって言ってもウザくない?」
「ウザないです」
返答を受け、彼女がそっと口を開く。桜色の小さな唇が震える。紅潮した頬がこちらに向く。
「……好き」
それはもう、紡がれた言葉に心臓を撃ち抜かれたんじゃないかと思うくらい。
……ウワ、あかん。マジでめっちゃくる。
「も〜〜、なんかそのうちバカップルになりそうでめっちゃ嫌や」
にやけそうな顔を覆い隠して、ベッドに仰向けに倒れ込む。不意に影が差すので、指の隙間から覗き見ると、苗字さんがこちらを見下ろしていた。
「えっ、なんです?また襲われるん俺」
冗談めいてそう言うと、相変わらず赤い顔で否定した彼女が、「ぎゅってしていいですか」なんて問いかけた。
「……ええですよ」
ふわりと微笑んで、俺の隣に寝転んだ彼女が腕を伸ばす。されるがままに受け止めて、「ふふ」と幸せそうに笑う彼女にこちらからも腕を回して。
(柔……あとめっちゃあったか……)
不思議と甘い香りのする小さな身体に、不純な気持ちを抱かないわけではないけれど。今の彼女は飼い主に戯れる犬に近いから、今日のところは手を出さずにいてやろうと思う。こうしてくっついているだけでも、けっこう幸せらしいことを、知ってしまったので。
「惚れたもん負けやなぁ……」
呟いた声が、ふたりぶんの体重で沈んだふとんの隙間へ吸い込まれた。