藤迎え
母が亡くなった。
しんしんと雪の降る、寒い日のことだった。
最初に発見したのは、長女――俺の二つ上の姉であった。電話が繋がらないことに違和感を覚えた彼女が、直接母の住む家へ赴いたことで、縁側で崩れて動かない母が見つかったらしい。
状況が状況だったため、警察医による検視が行われたが、死因は心疾患、事件性は無しとのことで、存外スムーズに葬儀の準備は進んだ。発見から二日後の今日、納棺とお通夜を行う手筈になっている。
鳥の囀りが大きくなり、部屋の中に光が差したことで、ふと手が止まった。襖を開け、外を確認する。東の空から朝陽が昇り始めていた。積もった白銀が光を浴びてきらきらと輝いている。ほう、と思わず零した息は早朝の庭を白く漂い、やがて澄んだ空気と同化して消え去った。
踵を返し部屋の中へ戻ると、襖をぴっちりと閉めてから再度作業に取りかかった。
納棺師の方は今日の昼過ぎに来ることになっている。それまでに棺の中に一緒にいれる副葬品を選ぼうと昨夜から奮闘しているのだが、これがなかなか難しい。とりあえず日記帳とお気に入りの髪飾りはいれるとして。
寄木細工の小箱の中を開けると、一見ガラクタのようにも見える小物が敷き詰められていた。けれどそれが母にとって大事なものだと言うことを、俺は知っている。
折り鶴をひとつ取り出せば、記憶の中で、まだ皺ひとつない頃の母が笑った。
『これは、今剣がつくってくれたやつ』
不恰好なコースターは初期刀の歌仙兼定、押し花の栞は五虎退、色違いの御守りは幕末の刀たちからの贈りもの。
「……この辺はぜんぶ入れてやんなきゃな」
呟いて、今度は漆の小箱を開けた。中には封書や葉書、あるいは歌の書かれた短冊といった紙類が溢れんばかりに仕舞われており、僅かにたじろぐ。その内一枚を拾い上げ、確認する。どれも同じ筆跡だ。差出人は――。
「……やっぱり、あんたか」
へし切長谷部。
母が何度も口にしていたひと――否、刀の神様の名が、そこにはあった。
少しだけ好奇心がそそられ、手紙のひとつに手を伸ばす。封から便箋を取り出し、中身を読み上げようとして。
「……いや、さすがにコレは無いな」
嘲笑。己の愚行を責めながら、元通りに封を閉じ、箱に仕舞い込む。
これはきっと、母の心そのものだ。母の父――俺からすると祖父――の会社の経営を立て直すため、十五も離れた男と政略結婚を強いられ、周りに味方がいなかった母の拠り所。いくら死人に口なしとはいえ、それを暴くのは気がひける。
ちらりと時計を確認する。納棺まで約五時間、お通夜までは約十時間といったところだ。母をみつけてくれた姉をはじめとし、父や親戚筋には連絡をしているものの、果たして彼らは葬儀に来てくれるのか。自然と、溜息が溢れた。
思い出す限り、父と母はまともに会話をすることがないほど仲が悪かった。
「お前が審神者になんかなったから」
記憶にあるのは、母にそう怒鳴る父の姿。
母は後継ぎとなる俺を産んでまもなく、知人の手引きで審神者として遠くの地へ向かったらしい。らしい、というのは、彼女はたった二年で審神者を辞任しており、俺が物心つく頃から高校を卒業するまでの間は実家にいたからだ。父からは「あいつは薄情な奴だ」と言われていたものの、実感がないのだからどうしようもない。俺は厳格な父よりも、穏やかな母によくなつき、彼女が審神者だった頃の話を絵本の読み聞かせのように聞き入っていた。最も、姉二人は自分達を置いて出ていった母の記憶があるため、母のことが苦手なようだったが。
審神者であった頃の話をする時だけ、母の表情は和らぎ、その声音は普段よりもずっと明るかった。へし切長谷部という刀の神さまについて語る時は特に。聡明で、実直で、純粋で、従順。そして慈悲の心を持ったその神さまを、母はおそらく、世界で一番あいしていた。そしてきっと、その神さまも。
一度だけ目にした『神さま』の姿を瞼の裏に描く。ある初夏の日。縁側で遠くを見つめる母に寄り添う、菫色の服に金のストラを纏った、この世のものとは思えぬ美青年。凝視する俺に気づき視線だけをこちらに向けた青年はその瞳を細めると、弧を描いた薄い唇に人差し指を当てた。何も言っては駄目だよと、『しぃ』とされたのだとすぐに理解した。こくこくと頷くと、彼は口を開く。その口の動きから『ありがとう』と言ったのだと、何となく分かった。
「……おかあさん」
「うん、なぁに?」
母の膝上に跨り、甘えるように呼ぶ。
「サニワのおはなし、して」
「ふふ、いいわよ」
俺のおねだりを受けて、母が嬉しそうに語り出す。その横で神さまも、柔らかな笑みを浮かべていた。
・
ピンポン、ピンポーン……。
不意に届いたインターフォンの音にはっとする。いつの間にか寝てしまっていたらしい。時計を確認する間もなく、俺は大急ぎで玄関口へ向かった。
「すみません、今出ます!」
少しだけ建付けの悪い引き戸を開けると、スーツを着た柔和な雰囲気の男性が立っていた。年の頃は三十代後半といったところか。
「お世話になります。本日の納棺を務めさせていただきます」
丁寧な一礼の後、彼は名刺を手渡してくれた。こちらもお辞儀をしてからそれを受け取り、「どうぞ」と家の中へと促した。
「失礼します」
「出迎えが遅くなって申し訳ないです。いつの間にか寝てしまっていたようで」
「とんでもない。お疲れでしょうし、無理もありません」
そんな会話をしながら、母の遺体を安置している箇所へと向かう。
失礼します、と最大限の敬意を払ってから母の顔を覗いた男性は、表情を和らげ、「安らかなお顔だ」と頷いた。
「差し支えなければ、お手伝いをさせていただきたいのですが」
「ええ、もちろんです」
仏の顔を彷彿させるような微笑みで深く頷いた彼に従い、納棺の儀式を進めていく。
まずは、末期の水。遺体の唇を濡らすことで故人の喉の渇きを癒し、安らかに旅立てるように願う行為。
次に、湯灌。遺体を浴槽で清め、現世の疲れや汚れを落とすためのもの。意思を持たない人間の体というのは不思議に重く、二人がかりで丁寧に丁寧に扱っていく。
もう二度と目覚めない母の顔を眺め、ふと、審神者を辞めた理由は最後まで教えてもらえなかったな、と思った。彼女は過去の話を楽しそうに語った後、「結局辞めることになるんだけれど」と寂しそうに笑い、最後はこう締めくくっていた。「貴方にも、あのひとにも悪いことをした」「罰が当たったの」と。
(罰、か……)
子どもの頃は、母に罪なんてないだろうと思っていたけれど、今ならいくつか想像できることがある。たとえば、幼い俺や姉たちを捨てるように家を出たこと。家を出たことで、自身の父母に不義理を働いたこと。いくら政略結婚で望まぬものだったといえ、父以外に愛するものをつくってしまったこと――。
二度と目覚めぬ母の体を清めながら。どうか彼女の罪がすべて赦されるようにと、願わずにはいられなかった。
・
死化粧を施してもらう間は、席をはずすことにした。死化粧にあたり故人のお気に入りの化粧品を使うこともあるらしいが、残念ながら俺は母が好んで使ったものは知らなかった。
「穏やかな笑顔が似合うひとでした。明るい感じになれば、それで」
そんな曖昧な要求にも納棺師は「承知しました」と優しく笑った。
席を外した後は、当てもなく母が長年ひとりで暮らした家屋を歩き回った。この家も直に売り払われるだろうから、最後にこの目に焼き付けておこうと思ったのだ。
長い廊下を、広間を、今の時代では考えられない急な階段を、ひとつひとつ踏みしめながら足を進めて、ひとりで過ごすには広すぎることを改めて実感した。けれど母は、一度も「寂しい」とは言わなかった。俺が寂しくないのかと尋ねた時ですら、「全然」と屈託なく笑うだけ。
違い棚が印象的な座敷は、母が何をするでもないのによく座っていた部屋だった。踏み入れると、不思議な感覚が身体を覆う。
――見て。今年も、迎えに来てくれた。
座敷の真ん中で。幼い俺を膝に乗せた、まだ皺ひとつない母が微笑み、障子の向こうを指差している。
(あの先は、確か……)
――綺麗でしょう?長谷部に、一番似合う花なの。
淡い姿の二人の横をすり抜ける。約束したの、と女が柔らかく呟いた。何を、と少年が問いかける。障子にかけた手に、力を込めて、そして。
――最期の時も、傍にいてくれるって。迎えに来てくれるって。だから、寂しくないの。
開け放った戸の先には、薄紫の花々がこれでもかと咲き誇っていた。
まるで異世界だった。きらきらと輝く銀世界の中で、藤の花は確かな生命力を漲らせながら揺れている。
「……そうか。本当に、迎えに来てくれたんだな」
最期の瞬間、母もこの景色を見られただろうか。そうだといい。そうであってほしいと願う。
縁側から庭に下り立ち、藤の花をひとつ手折る。淡く輝くその花は不思議と雪のように軽いように感じた。
藤の花を手にして座敷に戻ると、納棺師がちょうど「お化粧が終わりました」と報告にきてくれた。礼を述べ、棺の置かれた部屋へと向かう。俺が持っている藤の花に対して、彼は何も告げなかった。
母の顔を確認し、棺の蓋をする直前。その頬の横に、藤の花をそっと添えた。
「……これで寂しくないだろ、母さん」
棺の中の彼女は、恋する少女のような薄桃色の頬で笑っていた。
ふと、廊下側から視線を感じて振り返る。西日が差し込むだけの廊下には、やはり誰の姿も見ることはできなかったが、鼻をひくつかせた納棺師の方が、俺と同じように視線を向けたまま「不思議ですね」と零した。
「今、藤の香りがしたような」
その言葉を聞いた俺は、笑って告げる。
「ええ。母を愛してくれた神さまが、迎えに来てくれたみたいです」
2017