アルプヤルナ



「イヌピー、ナナハンキラーの後ろ乗っけてよ」

 その言葉を飲み込むようになったのは、いつからだったろう。細かいことは覚えていないけれど、たぶん、幼馴染のココが彼の前から姿を消した日から。
 イヌピーのRZ350の後部座席はココの特等席で、わたしはいつも「ココが乗るからダメ」と断られていて。ココがいない今そのお願いをするのは良くないことだと、本能的に感じ取っていた。
 そうしている内に、イヌピーはRZ350をガレージの奥へと仕舞い込んだ。ココを後ろに乗せて、コールを鳴らしながら夜の街を走り回った日々のことを、胸の奥底に秘めるように。



 帰路の途中にある、小さなバイクショップの前で足を止める。所謂俗車のような改造されたバイクからスクーターまでが雑然と、それでいて全ての車体が平行になるように丁寧に陳列された中で、一際目を引くネイキッドバイクがあった。
 白を基調にしたタンクに流れるように描かれた青と水色のライン。そのうえに入ったメーカーのロゴ。真っ黒なマフラーは純正のものだ。RZ350。かつてイヌピーが乗り回していた、ナナハンキラーと同じもの。
 途端、昔の思い出が、色褪せないアルバムのように思い浮かぶ。呼吸を忘れるほど、過去の残像に浸る。程なくして、わたしを呼ぶ声があった。

「今帰り?」

 ぱちん、と。シャボン玉が弾けるみたいに、意識が現実へと戻される。
 体ごと振り向けば、深緑色のつなぎを着たイヌピーの姿があった。跨っているのは、ナナハンキラーと入れ替わりで乗り始めた黒いバイク。新しく乗り始めた時にちゃんと聞き始めたはずなのに、馬鹿なわたしの頭では数日が限界だったらしい。今となっては、ナナハンキラーと同じメーカーのバイクであることしか覚えていない。
 そんなことよりも、だ。
 ライ麦畑のように柔らかく揺れる金髪を見て、小さく息を吐く。頭部を守るためのヘルメットは、顎紐を首にかけて背中の上。全く、何のためのヘルメットなんだか。

「またノーヘルしてる」
「仕方ないだろ、慣れねぇんだよ」
「仕方なくはない」
「昔は何も言わなかったくせに」

 言葉に詰まる。正論だった。

「……あの頃は」
「あの頃は?」
「そもそも無免許だったじゃん」
「理由になってねぇだろ、それ」

 子馬鹿にしたように笑った彼が、首にかけていたヘルメットを取り、こちらへ投げて寄越した。

「わっ、なに」
「乗れよ。送ってく」

 ぶっきらぼうな言葉と裏腹に、その声音はひどくやさしい。
 やったぁと、わざとらしく喜んで、バイクの後部座席に跨る。心地よく鼓膜を震わせるエンジン音と、まるで生き物の鼓動のような振動が身体に伝わる。きゅっとイヌピーのお腹に腕を回すと、それが合図のように車体が緩く発進した。

「七回目だね」
「ん?」
「このバイクに乗せてくれるの」

 ああ、とイヌピーは曖昧な返事をする。だからわたしは、努めて明るく告げる。

「嬉しい」
「……そっか。なら、いい」

 車も人もほとんどいない通りの赤信号で停車中、不意に突風が吹いた。思わず回した腕の力を込めた時、「オマエさ」と彼が問いかける。

「何かつけてる?」
「あ、香水……?この間友だちと買って」
「ああ、だから甘い匂いすんのか」

 納得したように頷いた彼に、急に心臓が速くなって、堪らず腕を離した。

「あ?コラ、腕離すな。危ねぇだろ」
「だって」
「何だよ」
「臭くない?」
「はぁ?誰も言ってないだろそんなコト」

 信号が青に変わる。
 威圧感のある声で「は、や、く」と命じられ、渋々、再度体をくっつけた。

「……イヌピー」
「んー?」
「この香水、どう?」
「どうって。正直、よく分かんねぇけど。……でも、アレだな。急に知らない女になったみたいで、ちょっと緊張する」

 どっと、体温が急激に上昇した気がした。腕の力が弱まったことに目敏く気づいた彼が「緩めんな」と再び怒るので、もうどうにでもなれという気持ちで、逆に体を密着させてやる。

「……っ」

 イヌピーが、何かを訴えるように名前を呼んだ。それに、聞こえないふりをする。もう二度程呼ばれたけれど無視を続ければ、ついに彼は諦めて、落ち着けと言い聞かせんばかりの長い息を吐く。吐き終わるとしゃんと前を見て、少しだけアクセルを強めた。

「イヌピー」
「……今度は何だよ」
「イヌピーはこの香水の匂い、好き?嫌い?」

 我ながら面倒くさい質問だと思う。案の定、彼は小さく唸った。きっと今、その端正な顔はひどく歪んで、しかめ面になっていることだろう。
 暫くして、返答があった。

「嫌いではねぇよ」

 狡い答えだ。そう思うのも束の間、

「つーか、どっちかと言うとたぶん好き。ただ、慣れねぇだけで」

 今すぐバイクを降りて、彼の表情を真正面から見てやりたい衝動に駆られた。彼の後ろに乗っていてこう思うことなど、これから先も二度とないと思う。

「……うれしい」

 心の奥底の、本能的なところから出てきたのは、その一言だけだった。
 単純なわたしは、明日からこの香水を愛用する。体にそっとふるって、魔法をかけられたお姫様のような気分で、彼に会いにいく。その内にいつか、彼がこの香りに慣れる日が来るだろう。たぶんそうやって、少しずつ、わたしたちは大人に変わっていく。
 もう一度、ナナハンキラーに乗りたいと言える日がくるだろうか。それとも、ナナハンキラーを思い出にして、この黒いバイクが特別だと噓偽りなく笑う日がくるだろうか。もしそんな未来が訪れた時、わたしたちの隣に、今はどこか遠いところにいるあの幼馴染はいてくれるのだろうか。
 考えても考えても答えなんて出ないけれど、兎にも角にも、わたしはこのひとと一緒に、子どもでも大人でもないこれからの日々を過ごしていく。彼が好きだと言ってくれた、少し大人びた甘い香水を纏って。


2018



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