楔
キスをしてと強請る度、一虎くんは、嬉しそうな、それでいて困ったような顔をする。そうしてわたしの横髪を優しく掬いながら頬を撫で、額へそっと唇を落とす。わたしはいつも、その唇の甘さを想像している。
・
「合コン?」
二人分の食事がなんとか置ける程の小さなテーブルで、向かい合って晩ご飯を食べる。その最中、大学の友人から合コンに誘われたと伝えると、一虎くんは少しだけ考えるような仕草をした後、「いいんじゃない」と頷いた。
「……いいんだ」
「変な男に捕まらないようにしてくれれば」
麗しい見た目と反し、男らしく大口でカレーライスを飲み込んだ彼が続ける。
「オマエは、好きなようにしたらいいんだよ」
「……」
まるで、自分はそうしてはいけないというような言い方だった。けれどそれを指摘することもできず、わたしは黙って食事を続ける。
「ごちそうさま」
やがて食事を終えた彼は立ち上がり、先に食器を洗い始める。数分後に食べ終えたわたしの食器も同じように洗ってくれたあと、「じゃあそろそろ帰るわ」と、必要最低限のものしか入っていないぺちゃんこのリュックを手にした。
玄関先で靴を履いたその背に、「泊まっていかないの?」と声をかける。振り向いた彼は心配そうに、「……眠れない?」と尋ねた。
「……最近は寝れてる、けど」
彼の表情に、嘘をつくことが憚られる。思わず正直に伝えると、
「じゃあ大丈夫だろ?何かあったら呼んでくれていいから」
「……うん」
「よし」
子どもをあやすように頭を撫でてくれる彼に少しだけ睫毛を伏せて、わたしはいつものおねだりをする。
「一虎くん、おやすみのキスして」
眉を緩く八の字にしつつも、唇に弧を描いた彼が、わたしの額へそっと口づけた。
「……おやすみ」
子守唄のような柔らかい言葉が、頭上から降ってくる。
・
「一人暮らしなんでしょ?飲みなおそうよ〜」
はっきり言おう。合コンは大失敗だった。
こちらの断りをお構いなしに駅までついてくる青年に、いい加減気分が悪くなってくる。友達はいい具合にくっついてしまったせいでここにはいないし、わたしたちのやり取りをちらちら見る人はいるものの、助けてくれる気配はない。
「分かった!じゃあ家まで送るから。送るだけ、それならいいでしょ?」
名案とばかりに提案されるけれど、そんなことをしては最後、無理に上がり込まれるところまで容易に想像できてしまう。
一向に頷かないわたしに痺れを切らしたのか、青年の手が伸び、腕を掴んだ。本能的に危険を感じ、勢いよく振り払おうとした時。
「嫌がってんの分かんねぇ?」
低い声と同時に、別の男の手が青年の腕を掴んだ。
はっとしてそちらを見ると、何の変哲もない黒いシャツにグレーのカーディガンを羽織った一虎くんが、鋭い瞳で青年を睨んでいる。
「は、なにお前……ちょ、いって、いてえ!」
「離せよ」
静かでいて、確実に怒気をはらんだ声音だった。それに怯んだのか、それとも金髪メッシュや首元のタトゥーといった彼の外見に焦ったのか。青年は不機嫌そうにしつつも手を離すと、
「……ンだよ、オトコいたのかよクソビッチ」
随分な言い草にカチンとくる。が、こんな男に構っているだけ無駄だと抑え込んだ。一方で、隣にいた一虎くんは、その台詞に我慢ならなくなったらしい。
「テメェみたいなヤリ目と一緒にすんじゃねえよ」
言葉と同時に右の拳が空を切り、男の左頬に落ちた。その勢いの良さに体勢を崩した男は地面に崩れ、唇の端から微かに血を滴らせながらこちらを見る。
「はぁ!?オトコじゃなかったら何なんだよ、お前!」
「……っ、アニキだよ!」
がん、と、もう一発彼の拳が入った。それでも男は減らず口を止めない。地面に尻もちをついたままのくせして、挑発的な態度で、
「兄貴ぃ?は、ブラコンシスコンってヤツかよ、キメェ」
「……」
一虎くんの瞳の奥が、一際暗くなる。
わたしは慌ててその背に抱きつき、「もういい」と縋った。
「けど」
「何もされてない、それより早く帰ろうよ」
一虎くんが、深い息を零す。
「……分かった」
それからもう、振り返ることなく街路を歩いた。まるで当然のように手を繋いだわたしたちに、後ろから野次が飛んできたけれど、聞こえていないふりをした。
一駅ほど歩いてから電車に乗り直せば、二十分足らずでアパートに着く。そこでわたしたちはようやく、繋いでいた手を離した。
「……一虎くん、ありがとう」
玄関先で改めてお礼を言うと、一虎くんは薄く笑って、
「別に。『兄貴』ならこうすんだろ」
「……うん」
その言葉にわたしも、精一杯の笑顔で応えた。
――一年ほど前。わたしの実の兄、場地圭介を殺して少年院に入っていた男が出所した。羽宮一虎。幼馴染で、わたしの初恋のひと。そうはいっても兄殺し。
恨む気持ちが強かったはずなのに、出所した彼は疑いようがなく更生していて、兄を殺した過去を十字架のように背負って生きていた。そしてあろうことか、髪を伸ばした後ろ姿はかつての兄によく似ていて。
今思えば、あれが始まりだった。彼の後ろ姿に、思わず「お兄ちゃん」と呼んでしまった日。振り向いた彼を見て、訳も分からず涙を溢した日。一虎くんはきっと、その涙の意味をわたしより分かっていた。
それ以降、彼はわたしに頻繁に会いにきては誰よりも強くて優しい理想の兄を演じ続けた。
「今日は、泊まっていって」
「……いいよ」
こちらを安心させるように微笑んだ彼が、慣れた動作で部屋へと上がる。
早く寝たいからとシャワーだけ浴びて、ベッドの上で一虎くんを待った。同じようにシャワーだけを浴びて出てきた彼が、クローゼットから布団を取り出そうとするのでそれを制す。
「一緒に寝たい」
とんでもなく我儘なお願いだ。それでも彼は断らない。妹にはとことん甘くいなければいけないと、それが兄だと、信じてやまないから。
体温を分け合えるくらいの距離にいる彼に、いつものようにおねがりをする。
「一虎くん、キスして」
「……この、甘えん坊」
小さく喉を鳴らした彼が髪を掬って頬を撫で、それから、軽く音を立てて額に口づけた。その眉はやっぱり、少しだけ歪んでいる。
――キスをしてと強請る度、一虎くんは、嬉しそうな、それでいて困ったような顔をする。そうしてわたしの横髪を掬いながら頬を撫で、額へと唇を落とす。わたしはいつも、その唇の甘さを想像している。
『妹』である以上、その唇の甘さを確かめることはできないと分かっている。けれど、もう『兄』でいてくれなくていいと告げた時、彼がここへ来てくれなくなったら?わたしのおねだりを聞いてくれなくなったら?
そんな未来を想像する度に襲ってくる孤独感が怖くて、臆病なわたしは今日も、彼を縛り付けている。
2018