桜を攫った神様



 思えばもうしばらく、違和感があったのだ。
 鍛刀をしないことが増えた。遠征の回数が減った。出陣における早めの帰還。そして何より、手入れに必要とする時間が、長くなった。

「残念ですが、もってあと半年でしょう」

 年季の入った木造の階段。その陰で密談をしていたのは、この本丸の初期刀である加州清光と、黒子で顔を隠したスーツの男であった。男の方は、本丸の内部調査ということで訪ねてきていた政府の役人だったはずだが、なるほど。真の目的は、審神者の霊力測定か。
 言ってってしまえば騙されていたわけであるが、不思議と、怒りは湧いてこなかった。審神者の霊力が低下している事実に関しても、心が千々に乱れる程ではない。
 二人に気づかれぬようその場を去り、審神者の部屋へと向かう。今日の近侍は加州だった。あの様子だと、しばらく戻ってこないだろう。
 襖の向こうに他の刀の気配がないことを確認してから、不躾に開け放つ。カタン、と、ひとつ奥の部屋から乾いた音が立った。おっと、いかんいかん。審神者を動揺させてしまったか。

「きみ、俺だ。鶴丸だ」
「……どうぞ」

 了承を得るのとほぼ同時に、再び襖を滑らせた。巫女服を緩く着た彼女は、探るようにこちらを見ている。頭のてっぺんから爪先まで、俺の身なりをぐるりと確認した後、『本物』であると判断したのだろう、呆れたように息を吐いた。

「近侍部屋を開ける前に声をかけてほしかったかなあ……」
「はは、すまんすまん」

 軽い口調で謝りながら、彼女と視線を合わすようにしゃがみ込む。吸い込まれそうな黒い瞳を見つめながら、俺は口を開く。余計な世間話は、必要ない。

「……霊力が、低下しているらしいな」

 彼女が動揺して、目を震わせたのが分かった。視線が逸らされる。けれども「こちらを見ろ」というより早く、再び俺たちの目線は交わった。

「そうだよ」

 恐れのない、真っ直ぐな声であった。美しく伸びた音が、鼓膜を震わせる。

「辞めるのかい?」
「うん、辞める」
「……即答だな」

 苦笑する。そうしたら、普段となにひとつ変わらない穏やかな笑みを浮かべて、彼女は言った。

「だってあなたたち、わたしがいなくても生きていけるでしょう?」

 どっと、心臓が音を立てたのが分かった。彼女にも聴こえたんじゃないかと思うくらい、大きな音だった。
 即座に否定できなかった俺に、彼女は嫌味のひとつも言わない。きっと彼女は、それが当然の事実だと、もうずっと前から理解していたのだ。
 ――ああ、そうだ。その通りだ。俺は、俺たちは、彼女がいなくとも生きていける。俺たちに霊力を与え、正しく力を使う存在であれば、主は誰でも良い。誰であろうと、俺たちが歴史を守るために刀を振るうことに変わりはない。だからべつに、彼女でなくたっていい。
 愛しいのだ、きみこそが唯一無二だ、きみがいないと生きていけない――そんな風に縋り付いて引き止められるほど、俺は、ひとらしくなることができなかった。けどなあ、主。それでも、俺は。
 両腕を伸ばし、細い肩に腕を回した。そのまま、肩口にひたいを押し付ければ、今日一、彼女は動揺を露わにする。

「鶴丸……?」
「……きみの言う通りだ」

 彼女が小さく、身をよじる。抜け出されては困ると一層その体を抱きすくめ、俺は続けた。

「俺は、きみがいなくても生きていける。きみのいない日々を少し寂しく思うこともあるんだろうが、それも一瞬だろう。きみがいなくなって、主が変わっても、きっと、ここでの生活はなにも変わらない。ただな、あるじ。それでも、俺は……」

 そこで、一拍置く。勝手な願いだと一蹴される未来が脳裏に浮かんでしまったからだ。とはいえ、ここまで喋っておいて今更だと、唾を呑み、今度こそ思いの丈をぶつける。

「俺は、きみと共に在りたいんだ。きみがいなくとも生きていけるが、それでも、きみがいる世界で生きていたい」

 華奢な身体が震えて、小さな息を呑む音がした。それから、辺りの音が消え去った。外でふわふわと積もりゆく雪の音さえ聞こえてしまいそうな静けさは、永遠にも似た時間で俺たちを包んでいた。

「……それは、狡いなあ」

 やがて沈黙を破ったその声は、非難めいていた。……まあ、そうだよなあ。
 抱擁の力を緩め、顔を上げる。そして、彼女の表情を確認して、俺は驚きに目を見開いた。困ったように笑う彼女の潤んだ瞳の中に、微かな喜びを見つけたからだ。

「……ずるいよ」

 再び、彼女が言う。ひとつ肯定の返事を述べれば、今度は彼女の細い腕が、己の首元に回された。

「わがままだ」
「ああ」
「子どもみたいに、自分勝手」
「……ああ」

 ――つるまる。
 宝物みたいに、名を呼ばれた。名を呼んだその、桜の花びらみたいな、小さな唇を奪う。抵抗はなかった。だからそれが、すべての答えだと思った。
 軽い力で彼女を組み敷き、緩くはだけた装束の胸元に手をかける。衣擦れの音が、静かな空間にこだました。


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※「刀剣男士と身体を重ねることで霊力を向上させることができる」という設定を前提に書きあげた作品になります。全体的に説明不足だったためこちらで補足。



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