ポケットの中に宇宙
その少年を見て真っ先に思ったのは、「弟に似ている」だった。
女のわたしよりも小柄な体、ふわふわと跳ねた小動物のような髪(わたしの弟は黒色だったので髪色は違うけれど)、そして何より、声。口調。懐いた相手に放つ調子の良いまるっこい声が、弟によく似ていた。
弟。数年前の大規模侵攻の時、わたしを庇って命を落とした、何よりも大切だった存在。わたしの生きる意味そのものだった子。無限に広がっているはずだった彼の未来はあの日、見たことも聞いたこともない侵略者にいとも簡単に奪われた。
目の前の少年にどれだけその面影を重ねても、二人は全くの別人だ。分かっている。それでも、その少年を見て救われた気持ちになるくらいは、許してほしいと思った。
ふと、彼と会話をしていた迅さんがこちらに視線を向ける。そして、なにを思ったかこちらへ近づくと、弟に良く似た少年にわたしを紹介した。
「ユーマ、この人、苗字名前。野良のA級隊員でかなり強いよ。マスタークラスの
「ほう、それはそれは。おれは空閑遊真です。どうぞよろしく」
それを受け、少年もまた名前を告げる。3の形に尖らせた唇で言葉を発し、小さな手が差し出された。その手をそっと握り返しながら、わたしは懸命に口角を上げた。邪な気持ちがバレないように。年上の面倒見の良いお姉さん、そんな親しみやすい雰囲気を醸し出せるように。
「こちらこそ、よろしく」
目を細めて笑った少年は、やっぱり弟によく似ていた。
だからその事実を知った時、わたしは呆気に取られて血の気が引いて。
「……空閑くんて
それでも、辛うじて何でもない風を装って少年の言葉を繰り返した。平静でいようと努めたのは、こちらを慕ってくれる少年への気遣いか、ただの虚栄心だったか。
わたしの横でアツアツのたい焼きを大口で頬張る彼は、「ほうらよ」(おそらく、「そうだよ」)と頷いた。
からっ風が、足元にあるカサカサの落ち葉を弄んでいる。「寒」と呟き、体を寄せ合ったカップルが、たい焼き売りのレトロなキッチンカーの前を通り過ぎていく。ベンチに腰掛け、その様子をぼうっと眺めながら、わたしはぐっと丹田に力を込めた。隣を座る少年への問いかけが、不自然に震えてしまわないように。
「何でそんなこと、言おうと思ったの」
「うん?」
いつのまにか、彼の手の中にあったたい焼きは消えている。どれだけ食べるの早いのと、普段であれば揶揄っていたはずだった。
指先をこすり合わせ、ぱたぱたと手を払うような仕草をした彼は、こちらを見ずに応える。
「苗字さんが、おれによくしてくれるから」
「……?」
「本部で偶然聞いたんだ。苗字さんのおとうと、
それを知った時に騙しているような気になったと、彼は真っ直ぐ告げた。自分とその
その考えはよく分かる。実際、ボーダーは
少年は、とても誠実だった。誠実だからこそ――わたしはバツが悪くなり、俯いた。
わたしの親切は、純粋な気持ちでしたものじゃない。喜ぶ彼のうしろに、笑う彼のうしろに、わたしは、愛した弟の姿を描いている。少年を通して、もういない存在に触れようとしている。そしてそれを、隠し続けた。褒められた行為ではないと、知っていたから。
空閑くんはまだ、わたしの弟が自分に似ているということまでは知らないようだった。そもそも彼と弟が似ているという話はボーダーの誰にも伝えていない。隠し通せる、と思った。ここで黙っていれば、わたしの邪な感情はきっとバレない。けれど、その行為は、あまりにも。
「……ごめんね」
ぽつりと、言葉が零れた。
きょとんとした表情で空閑くんがこちらを見る。
「なんで名前さんが謝るんだ?」
「わたしにも、隠してたことがあるから」
小さく息を吸う。冷たい空気に鼻先がつんとする。喉の奥が震える。お腹に力を込め、ゆっくり、ゆっくりと、言葉を絞り出す。
「空閑くんに親切にしていたのは、さ。その弟に、空閑くんが似ていたから」
そっと、彼の赤い瞳が見開かれるのが分かった。
「わたし、空閑くんを通して弟を見てた。いなくなった弟を、空閑くんに重ねてた」
繰り返し告げて、自嘲する。最低な奴だな、と改めて思う。吐いた息が白く漂うのを隠すように、わたしはマフラーに顔を埋めた。
程なくして、いつも通りの声音で「なるほど」と少年が頷いた。ちらりと表情を盗み見る。特段、怒りも呆れもない色をしている。驚くほどに、普段と同じ。
「引かないの。……というか、怒らないの」
「別に怒るようなことはないと思うし。むしろ、納得したって方が大きいかもしれない」
「納得?」
「なんでここまでしてくれるのかなー、とはちょっと思ってたから。オサムと同じで面倒見の鬼なのかなとも思ったけど」
わたしは苦笑する。三雲修、彼のような思考回路の人間がホイホイいてたまるか。
それよりも。「怒るようなことじゃない」という意見には首を傾げる。騙されて、或いは利用されていたようなものなのに、あまりにも冷静すぎる。そんな視線に気づいてか、そっと瞼を閉じた少年は、何かを思い出すように語りだした。
「向こうの戦争でさ。大切な人が死んじゃって、他の人に死んだ人を重ねて生きるひとをたくさん見てきた」
「……うん」
「そのこと自体は悪いことじゃないと思うんだ。悲しいとか寂しいとか、怒りとか憎しみとか。そういうものを忘れるために拠り所が必要になるのは分かる気がするから。でもさ、その中で壊れてくひとたちも少なくなかった」
壊れる、という言葉にピンとこず、わたしは緩く首を傾げる。「たとえば」と空閑くんは続けた。
「娘を亡くした女の人が、暫くして産まれた新しい娘をかつての子どもと全く同じようになるように育てて……、ちょっとでも違うことをすると、言葉や暴力で詰ったりとか。死んだ恋人によく似た女の人と付き合い始めた男の人が、二人を重ねすぎて、というか昔の恋人との思い出が強すぎて、最終的には新しい恋人の名前すら呼ばなくなったりとか。そういう、目の前の生きている人間を消してしまう行為はさすがに駄目だと思うけど。苗字さんはそういうんじゃないだろ」
ゾッとした。
この少年は、一体どれくらいの惨状を目にして、どれくらいの修羅場をくぐり抜けて生きてきたのだろう。およそ、この日本という平和な国で生きてきた人間からは想像もつかないようなことを、淡々と言ってのけてしまう。
「そう、ね。そこまでじゃないのは、そうだけど」
「うん。だから、いいよ。弟と重ねてるとかそういうのに申し訳ないとか思わなくていいからさ、これからも普通に声かけてよ。おれ、苗字さんと話すの好きだし」
うぇ、と変な声が零れた気がする。「何今の声」みたいな表情で空閑くんがこちらに顔を向けたけれど、いやだって、今のは駄目じゃないか。あまりにも、不意打ちがすぎる。日本人は、そんなストレートに好意を伝えられることに慣れていないんだよ、それが恋愛的なものでないとしても。そんな抗議を潜ませた目でじっとりと彼を見るも、空閑くんは相変わらず飄々と「苗字さんはおれと話すのきらい?」などと聞いてくる。
「嫌いじゃないけど……、空閑くん、すごいね」
「?そう?」
「そう」
そうか、とはじめて物の名前を知った子どもみたいに頷いて、空閑くんがベンチから立ち上がった。「そろそろ帰ろう」そう声を掛けてくれた彼を、西に傾いた陽の光が橙色に淡く照らす。冬至はもう過ぎているけれど、この時期はまだ陽が落ちるのが早い。そのうち葡萄酒みたいな紫色に移り変わって、星が浮かんで、深い深い帳が落ちる。それまでには帰らないと。
「――ユーマ」
立ち上がる前、ふと零れた。
珍しく露骨にびっくりした表情で、彼が振り返る。その髪色と同じ白い息を宙に漂わせて、わたしは言う。
「……くんって、呼んでもいい?」
ベテルギウスよりもずっと赤い、宝石みたいな瞳を数度またたいて。やがて意地悪そうに笑った彼は、「いいよ、名前ちゃん」なんて茶化した。
小さく笑って立ち上がり、彼の隣に並び立つ。それから、文句を言ってやった。
「わたしの方が年上だからダメ」
「じゃあユーマ呼びもナシで」
「ずるっ」
けたけたと笑いながら、
それから数日後、賭けをした。
『個人ランク戦でユーマくんが勝ったらわたしのことを名前で呼んでもいい、ただし負けたら "さん" をつけろ』
唐突な提案にも関わらず「おーけー」と楽しそうに了承した彼は、影浦や村上くんがいる前でわたしを容赦なく
それからは、今まで以上に賑やかな日々。ランク戦や遠征選抜試験、遠征前の訓練と、集中すべきこともあったけれど、その息抜きの時間にバレンタインのお菓子を作ったり、彼を夜のゲーセンに連れ出したり(後ほど林道支部長をはじめとする上層部の皆さんに怒られた)、玉狛で映画の鑑賞会をしたり。美味しいもの、綺麗な景色。考えられるだけの『楽しいこと』に巻き込んでいるうちに、遠征の日はやってきた。わたしは迅さんの一緒に、本部での防衛組。その決定に、異論などないけれど。
「気をつけて。ちゃんと帰ってきてね」
「うん。大丈夫だよ、名前ちゃん」
送り出す側というのは、やっぱり、少しだけ不安になる。
こちらの心配を意に介さず、ユーマくんは旅行にでも行くかのような気軽さで手を振り遠征艇に乗り込んだ。
彼のいない1日は、普段の倍以上に感じるくらい長かった。休日に見つけた新しいお店だとか、テレビで観かけた観光スポットだとか。(帰ってきたらユーマくんと行こう)なんてメモをして、寂しい気持ちを少しでも誤魔化して。そのメモが手帳のページを埋め尽くす頃、彼を含めた隊員たちはようやく遠征から戻ってきた。
おかえり、と思わず抱き締めてしまったことを、よく覚えている。「ただいま」いつものまるい声で、そう返してくれた彼のことも。周りにいたひとたちが、少しだけ目を見開いていたことも。
それから、何度目かの冬を越えた。
「おっ、来た来た。呼び出して悪いね」
もうずっと使われていない廃れた歩道橋の上で、その人──迅くんは軽く手を挙げた。玉狛支部から少し離れた、警戒区域内の一画である。眼下にある元の国道には車ひとつ通っておらず、所々ひび割れた様子すら窺える。もちろん、人通りもない。
「大丈夫、今日は約束もなかったし」
マフラーに顔を埋めたまま、わたしは返す。想像以上にくぐもった声になってしまった。
迅さんの隣まで近づき、まじまじと彼の姿を見る。相変わらず、青いジャージにサングラス。
「トリオン体?」
「そうだけど」
見ているこっちが寒くなる、と小さく責めたわたしに彼は笑う。穏やかな空気になったのは、その一瞬だけだった。すぐに目を細めた彼に、何か大事なことが告げられると悟り、きゅっと唇を結んだ。
「それで、話って?」
「──遊真の身体を、元に戻す方法が見つかった」
目を見開き、息を呑む。
それは、わたしが、玉狛のみんなが、ずっと探し続けていたもの。正直、
それなのに、迅くんの表情は曇ったままだった。
「……何かあるの?失敗する可能性が高い、とか」
「失敗、か。その可能性もゼロじゃない。でも、ほとんどないよ。ただ」
「……ただ?」
「遊真が、元に戻りたがらないんだ」
わたしは知らず、「は?」と零していたらしい。
脳裏に届いた動揺の声が自分のものだと理解するのに数秒を要するくらい、わたしの頭は真っ白になっていた。
「戻りたがらないって、なんで。ユーマくんが自分で言ったの」
「そう。……『おれが元に戻ったら、名前ちゃんが悲しむかもしれない。おれが弟みたいな姿じゃなくなったら、どうなるんだろう』って」
息が、止まるかと思った。
ユーマくんに似た弟がいたこと。ユーマくんに、その弟の面影をみていること。それは、数年前──ちょうど、今日のような冬の日に彼に伝えた話。わたしの懺悔。
迅くんは眉尻を下げて、「名前さんの弟がユーマに似てたなんて、あいつから言われるまで知らなかった」と呟いた。知らなくて当然だよ、と。きっと、鏡合わせのような表情で、わたしは返す。だって、誰にも言っていない。下手をすれば、ユーマくん本人にすら隠しとしていたかもしれないこと。
「ユーマからは、言わないでって釘を刺されたから『考えとく』って返したんだけど。どの未来でもあいつ、自分からは言い出さないからな。だから」
「うん。教えてくれてありがとう」
迅くんの話を遮って、わたしは告げる。微かに彼が慌てたのが分かったので、わたしは真っ直ぐにその名を呼んだ。
「迅くん」
「ん?」
「わたしのユーマくんに対する行動、弟に対するそれだった?」
「ええ、何急に。そう言われたら見えなくもないけど、どっちかっていうと……」
そこで彼は、そっと目を見開いて言葉を止める。わたしは笑って、「そういうことだよ」と伝えた。「ああ、そっか。やっぱり、そうだったんだ」どこか安心したように。あるいは肩の荷が降りたように。微笑んだ彼に踵を返して、歩道橋を駆け下りた。
刺すように冷たい寒風を切って走る。一分一秒が惜しかった。もっと玉狛支部で近いところで落ち合えばよかったな、と少しだけ過去のわたしと迅さんに文句が零れる。
程なくして辿り着いた玉狛支部の屋上に、人影を見つけた。冬と同化して消えてしまいそうな白色がふわふわと泳いでいるのを見て、ユーマくんだと確信する。それと同時に換装して、グラスホッパーで高く高く飛んでいた。
「……ん?うぉっ!?」
屋上の縁に腰かけていた彼に、そのままの勢いで腕を伸ばす。小柄なその体をぎゅっと抱きしめたまま、二人して地面を転がった。
「ちょ、急にびっくりしますぞ……、名前ちゃん?」
わたしの下で、ユーマくんが体を起こそうと奮闘している。それを制するように、わたしは彼に覆いかぶさったまま。両手は丁度彼の肩近くにあって、俗に言う『床ドン』状態である。
「……体、ちゃんと元に戻して」
脈絡なく飛び出た言葉。それでも十分伝わったのだろう。「迅さんが言ったのか」と彼はぼやいた。ユーマくんに嘘をついても意味がないことは知っているので、わたしは頷く。「そっか。考えるっていう言葉はウソじゃなかったけど。考えた上で、結局言う方を選んだんだな」そうやってひとり納得して、困ったように笑っている。
「ユーマくん」
「うん」
「あのね」
「うん」
「今でも、ユーマくんのこと、弟に似てるな、と思うこともあるよ」
「……うん」
「でもね、弟だなんて思ってない。もうずっと、弟じゃないよ。分かるでしょ」
「……」
たっぷりの間のあと。泣きそうな声で、「うん」と彼が頷いた。
わたしの腕の中で、彼は震えた声を出す。「そうかもしれないって、思ったこともあった」「うん」「でも、自信がなかったんだ。ただの勘違いで、『弟みたいに思ってる』って言われたらがっかりするから、ずっと気づかないふりしてた」「……うん」
──名前ちゃん。
まっすぐこちらを見つめた彼が、不意に名前を呼んだ。なあに、と返すと、「ちょっと退いてほしい」などとお願いされる。「この体勢だと、ぎゅっとできません」と。
腕とお腹に力を入れて、もそもそと起き上がる、その刹那。
「わっ!?」
ぐい、と腕を伸ばした彼にすごい力で引き寄せられ、ぐるんと視界が暗転する。すっかり暗くなった藍色の空で一番星が瞬いていて、今度はわたしが押し倒されたらしいと悟った。空から降る雪によく似た白色が、上空で揺れる。
文句を言うよりも先に、その白色が、音もなく近づいた。あれ、と思った時には唇に柔らかな感触。
「……っ」
「……弟じゃないなら」
程なくして唇を離した彼が、宝石によく似た赤い瞳でわたしを見つめている。
「こういうことも、許される?」
「……したあとに聞かないでよ」
「む。ちゃんと言ってくれないのか」
子どものように拗ねた顔で文句を言う彼に、眉尻を下げて微笑んで。「……もっとして」そう、振り絞った。
楽しそうに目を細めたユーマくんが、「換装解いてよ」なんてお願いをする。どうして、と尋ねると「生身の名前ちゃんにキスしたい」なんて爆弾が落とされた。
「ユーマくんもトリオン体なのに?」
「たしかに、それもそうだな」
ふむ、と口元に手を当てて何やら思案した彼は、「あーあ」と長く息を吐きながらわたしの横にごろりと寝転がった。
「じゃあやっぱり、早く元に戻らないとだな」
「わあ、不純だあ」
「フジュンだよ。だからちゃんと元に戻ったら、いっぱい触らせて」
はじめて出会った時よりも、ずっと大人びた表情で。確かに熱を孕んだ赤い瞳で、彼はわたしを射貫く。わたしの心臓を穿つ。その十分の一でもいいから仕返しがしたくて、隣で寝転ぶ男の体を力いっぱい抱き寄せた。その生身の熱を直接感じる日は、きっと、そう遠くない。