永遠の朝焼け
「そんな男を簡単に信用して、名前は本当に馬鹿だねぇ」
いつも通りの朝だった。起きれない、起きたくないとぐずる凛月くんを、真緒くんと起こして、引きずるように学院の前まで連れて行って。それじゃあまた放課後にと別れる間際、凛月くんは唐突にそう言った。
聞き間違えかと思ったけれど、眠たそうな彼の眼は確かに私を見ていて、ともすればその発言は、通学中真緒くんに伝えた『最近できた親しい男の子の話』に対する感想に違いなかった。そもそも彼がまともに起きて話を聞いているなど微塵も思っておらず、私は呆然とすることしかできない。そこに追い打ちをかけるように、彼は冷ややかな声で続ける。「騙されてるんだよ」
流石に余りの物言いだと思ったのか、真緒くんが「凛月」と、普段よりも厳しい口調で名前を呼んだ。
「何。というかそいつも、出会ってそんなに経ってないのにあんたのどこがよかったんだろうねぇ」
独り言のようなそれは、私を傷つけるには十分過ぎた。がつん、と鈍器で殴られたような衝撃が全身を走って、視界がぐらつく。長い間同じ時間を過ごした幼馴染には、言われるのがきつい言葉だった。
確かに私は特別美人だったりかわいかったりするわけではないし、物事に対して不器用だし、何かすごい特技を持っているわけでもないけれど。それでも、凛月くんたちは、そんな私の良いところを知ってくれていると、勝手に思っていたのだ。だから、彼の言葉は、自分の全部を否定されたみたいな気になって。
唇をぐっと噛んで、泣き出すのを堪えた。ここで泣いたら、氷点下の「うざい」が飛んでくることは安易に想像できたから。だから、小さく口を開いて、精一杯告げた。
「もういい、もう、やめる」
「は?何を」
怪訝そうに尋ねられる彼をきつく睨む。
「全部に決まってるでしょ!」
朝起こしに行くこと、こうして彼の荷物を片手に一緒に登校すること、帰りに迎えに行くこと……挙げ出せばキリがない。
目の前の男をきつく睨んだわたしは、怒りに満ちた声で叫び、その勢いのまま走り去った。それと同時に、ぼろりと涙が溢れる。頬を伝う雫の冷たさを感じながら、彼の前で泣かなくてよかったと、唇をぎゅっと噛んだ。
・
宣言通り、その日の放課後は彼の元へ向かわず、クラスの友人たちと寄り道をして帰った。もちろん、メンバーの中には凛月くんが馬鹿にした男の子もいる。
幼馴染二人には、連絡のひとつもいれていない。
半分はただの意地かもしれない。けれど本気で距離を置きたい気持ちだって、決して嘘ではない。
だって、もう高校生なのだ。いつまでも彼のお世話をするなんて冗談じゃない。振り回される毎日は、いい加減終わりにしてやる。
しょうもない冗談にけらけらと笑いながら、わたしたちは高校生らしく放課後を満喫する。
・
凛月くんを起こしにいかなくていいとなると、朝は随分とゆっくりできるらしい。食パンにバターとジャムをふんだんに塗って口に含んで、いつもは見ないテレビの朝の占いまで確認して。こんな落ち着いた朝の時間はいつ以来だろうか。
キッチンに立つ母は些か不思議そうな顔をしていたけれど、根掘り葉掘り聞いてくることはなかった。思春期の娘に何かあったのだと、そんなふうに思われたのかもしれない。
歯磨きをして、制服に着替えて、軽く化粧をして、髪の毛一本まで整えきってから家を出た。それでも、普段凛月くんを起こすべく奮闘している時間よりも早い。この調子なら、のんびり歩いても余裕で始業に間に合う。なんというか、かなり有意義だ。そう、ひとりで感心していると、
「……遅いんだけど」
花壇の並んだ短いアプローチの先から聞きなれた声がして、悲鳴をあげそうになった。喉元まで出かかったそれを何とか呑み込んで、おそるおそる顔を向ける。
声の主は、想像通り凛月くんだった。塀に寄り掛かるようにして立っている彼は、眠たそうに、面倒くさそうにこちらを見ている。
驚きのあまり、うまく頭が回らない。本物だろうか。いやまさか、彼がこんな朝からひとりで起きてこられるはずは。よく似た他人?ドッペルゲンガー?それとも私、狐に化かされてるの。
いつまで経ってもうんともすんとも言わない私に、とうとう凛月くんが痺れを切らした。
「何ぼさっとしてるの。俺が迎えにきてあげたんだから、早く動いてよ」
眉間に皺を寄せて、この辛辣な物言い。驚いたことに、間違いなく凛月らしい。
「……頼んでない」
「俺だって普段頼んでないし」
「そうだね。だから安心してよ。もう迎えにいかないから」
「……」
くだらない意地のせいで、可愛げのない言葉ばかり告げてしまう自分が醜くて憎い。本当は、嬉しいのに。ここで花のように笑って仲直りできる女の子だったらば、凛月くんも少しは優しくしてくれるかもしれないのに。
彼の前を通り過ぎたところで、急につんのめりそうになって足を止めた。見れば、鞄を掴んだ凛月くんが不機嫌な顔をしている。
「……持つ」
「別にいいってば」
「いいの。普段してもらってるから、多少は返さなきゃ」
「……仲直りのためにそうやってしろって、真緒くんに言われた?」
「……はぁ?」
心底意味が分からないといった、冷たい声がして、背筋が震えた。やってしまった。本気で、愛想を尽かされた。
己の失言に、泣いてしまいたくなる。俯いて唇を噛んで、間もなく。紅玉みたいな赤い瞳がこちらを覗くので、慌てて後退った。
「……なんて顔してるの」
恥ずかしげもなく私を見つめる彼は、呆れたような、小馬鹿にしたような表情だ。少なくとも、怒ってはいないらしい。
「ま〜くんに言われたんだったら、ま〜くんも連れてくるよ。そうでなくても、ま〜くんなら心配してついてくるでしょ」
「……そう、かも」
あのお節介なら、確かに。……とは、流石に口には出さないけれど。
「うん。だからね、むしろ逆なんだよ。俺が、ま〜くんに頼んで、今日は起こしてもらわなかったし、一緒に登校しないようにしてもらったの」
「……なんで」
「なんでって……。本気で分からないの?名前は本当にお馬鹿さんだねぇ」
呆気に取られている内に、凛月くんが私の鞄を取り上げていた。
そうして、ご機嫌に彼は言う。
「俺があんたを、迎えに来るために決まってるでしょ」
すたすたと足を進める彼を、慌てて追いかけた。立ち位置に悩んで、とりあえず一歩後ろをついていく。けれど、程なくして「隣においでよ」の声。……今日の凛月くんは、優しすぎて、なんだか怖い。
何となく喋ることが躊躇われて、無言のまま歩いた。やがて、凛月くんが沈黙を破る。
「……もし、本当に」
少しだけ、震えた声だった気がした。いつもより自信がなさそうな、そんな声。
「俺のことが嫌になったんだったら、もう来なくてもいいよ」
「……うん」
「あんただって、色々大変だと思うし。俺以外にも、いい男がいるみたいだし」
「いい男って、そんな、別に」
「あんたそれ、何気に失礼だからねぇ……?うん、まあでも、とにかく。そういうことだから」
「……」
「……でも。でも、もし、まだ俺の傍にいてくれるんだったら。たまには、こうして迎えに来てあげる。あんたみたいに毎日は無理だけど。帰りだって、ちゃんと送るし……。俺だって、優しくしようと思えば……、それなりに、優しくできるよ」
「……なにそれ」
まるで、嫉妬みたいな。
ぎゅっと締め付けられる胸も、期待して赤くなる頬も、隠す術がなくて、困る。
「ずるい」
文句のひとつも言ってやろうと必死に探し出したはずの言葉は、嫌になるくらい陳腐だった。それを受けて、彼は笑う。
「うん。俺、狡いよ。名前は知ってると思ってた」
凛月くんの傍にいるか、いないか。それに対する私の答えなんて、確実に見透かされている。
改めて口に出すのは癪で、なんだか悔しくて。だから、告げる代わりに彼の裾を掴んでみた。本当は手を握ってしまいたかったけど、振り払われたら流石に傷つくから。
ぴくりと、その腕が震える。それから、頭上で小さな笑い声がした。掌で転がされるとは、こういうことを指すのだろうか。そんなことを考えている内に、自然な動作で、指に指が触れた。あっと思った時には手が繋がれていて、ぶわりと身体が熱くなる。
「……真っ赤」
本当に、意地悪なひと。
恥ずかしくて悔しくて、睨み付ける。一方で、彼は飄々と余裕の表情だ。そうして、いっぱいいっぱいの私とは反対に、楽しそうに口角をあげた。
朝陽を受ける彼に、眩しさすら覚えたこと。きっと、私はずっと忘れられない。
2019