劣情としろいろ



 夜中のうちに降った雪が溶けきらず、建物の屋根や木立をうすらと覆っている寒い日だった。肌を刺すような木枯らしが、駅構内まで吹き抜けてくる。
 マフラーに顔を埋めながら、行き交う人々を目で追う。正月休みを終えた、平日の朝だ。ほとんどの会社員は既に出社を終えているのか、かっちりとスーツを纏った男性や、ヒールをカツカツと鳴らせて美しく歩く女性の姿はほとんど見当たらない。買い物に行くのか、シルバーカーを押しながら歩く厚着のおばあちゃんが多い印象。
 はあ、と。かじかんだ手を温めるように息を吹きかけて、腕時計に視線を落とす。時刻は9時23分。約束の9時半まではもう少し時間があるけれど、彼がわたしより遅くなることは今まで一度もなかったので、妙に気になってしまう。毎回先に来ている彼に意地でも勝とうと(勝負事でもなんでもないのは重々承知だが)、一時間前に集合場所へ来た時ですら、「前の日に朝早く来てるのが視えた」とけらけら笑って同じタイミングで現れる――迅悠一は、そういう男なのだ。
 手持ち無沙汰に、前髪を弄ったりしながら。そわそわと、彼を待つ。
 時計の針が進んで9時半を回っても彼は現れず、珍しいこともあるな、と改めて思う。直後、自分がデートの日時を間違えたのではと疑問が過ぎった。
 スマートフォンの画面をつけて、チャットアプリのアイコンをタップする。迅とのトーク画面は1番上だった。開いて、昨晩の『明日よろしく』といった旨のやりとりを眺めて。

(うん、間違えてないし夢でもない。ていうか昨日も確認してるし)

 けれどそうなると、益々迅のことが気になってしまう。

(忘れて……は、ないかな。迅のことだし。じゃあ寝坊……?え、迅が?今日に限って?)

 五分十分遅れたからといって、一々確認するような矮小な女にはなりたくない。そう思う一方で、世の中の恋人は相手が何分遅れたら小言を言い始めるものかをぐるぐると考える。迅との付き合いはもう短くないのに、そういうのを考えることすらこれまでなかった。つくづく、甘やかされている。
 悩んだ末に、「十五分経っても連絡がなかったら電話をかける」と決めて、スマートフォンをコートのポケットにしまう。今日は一日中外にいることになるのだし、充電はなるべく消費したくない。
 すれ違う人の会話や足音に耳を傾けながら、今日の彼の服装を想像したりして。それから暫くして、そろそろ一度連絡を入れようかといったところで、一際目立つ男が目に入る。茶色いロングコートと半分ずり落ちた白いマフラーをはためかせてばたばたと走る人物。間違いない。

「迅」
「ごめ、ほんっと、ごめん……!遅刻した……!」

 膝を抱えて謝りたおした彼に眉を下げる。遅れたと言っても15分程だ。大して待っていないし、いつもは待ってもらってる側だし。
 そんなことを伝えると、彼は真剣な顔で「こんな寒い中の15分は長すぎる」と。それから、「いつも言ってるけど、おれほんとに全然待ってないんだよ」息を整えながら、そう言った。
 そうなの?と聞き返して、彼の首元からだらんと落ちてしまっているマフラーを巻き直す。ブランド物の肌触りが良いそれは、つい先日にクリスマスプレゼントとして渡したものだった。ボーダーの基地や玉狛支部にいる時はもっぱらトリオン体の彼なので、こうして使っているところを見るのはまだ数えられる程。なんだか、くすぐったい。

「マフラー、慌てて巻いてきたの?」
「これだけは絶対って昨日から思ってたから」

 自分でもコートの襟元を整えながら、迅が答える。お菓子だけは絶対に持っていく遠足前の子どもみたいだ。小さく笑って、それから気になっていることを問いかけた。

「頭の。これ、どしたの」
「えっ」

 ワインのように深みのある赤いニット帽。丁度セーターと同じ色で今日の服装によく合っているけれど、彼が帽子を被っているイメージがないから珍しい。「そんなの持ってたんだ」とか、そういう純粋な疑問から出た言葉だったけれど、迅は思いのほか動揺してニット帽を押さえた。

「いや、ちょっと」
「?」
「ん〜、どうせバレるから言うけどさぁ……」
「え、何?……あ、分かった」
「うわ、ちょ、こら!引っ張るなってば」

 ぐいっと、彼のニット帽を取り去ると。想像通り、茶色い髪の一部がぴょこんぴょこんと跳ねている。寝坊のせいで、髪の毛のセットすらままならなかったらしい。

「あは、珍しい。せっかくの男前が台無しだ」

 寝癖部分をちょっと押さえつけてみるけれど、やっぱり無意味だった。ぐいーっ。ぴょこん。ぐいーっ。ぴょこん。数回繰り返して、けたけたと笑う。

「新年初デートなのにね」
「言わないでよ、おれも思ってるんだから」
「寝るの遅かったの?……また暗躍?」

 何気なく問いかけて、少し不安になる。彼は未来視という副作用サイドエフェクトや黒トリガーをもつが故に、人目につかないところでたいへんな画策をしているから。そのことに対して弱音を吐く様子はないけれど、きっと泣きたくなるほどしんどい夜もあるのだろう。今日のことが、彼の負担になってないといいのだけれど。
 神妙な面持ちになってしまったのか、彼はわたしのほっぺを両手でこねくりながら、「そんな顔しないでよ、今回は全然違うし」

「普通に、楽しみで浮かれただけ」

 驚いた。わたしと会うことをそれなりに楽しみにしてそうな様子は今までもあった。けれど、ここまでストレートにその事実を告げられたことはなかったから。
 瞬きを数回繰り返して、じいと彼の顔を見つめると、その頬がじんわりと赤くなっていく。これは、マジのやつだ。つられて、体が火照ってくる。

「そろそろ電車来るだろ。それに乗らなきゃ。はい、帽子返して」

 そう言って手を差し出した彼に、手にしていた帽子を返す。

「あれ、名前」

 同時に、あることに気づいた彼がわたしの腕を掴んだ。

「手袋してこなかったの。凍えるよ」

 心配そうに告げた彼に、そっと口角をあげて。

「浮かれてたから、忘れてた」

 たったそれだけを言っただけで、彼はわたしのしてほしいことを理解したらしい。

「忘れたなら、仕方ないな」

 言うや否や、するりと指が絡め取られ、彼のコートのポケットの中にしまわれる。

「あったかい?」
「あったかい。ふふ」

 くすくすと溢れる笑い声を、からっ風が運んでいく。その冷たさを凌ぐように、寄り添いながらホームへ向かう。
 ――まもなく電車が到着します――。
 ごうごうと、乾いた空気を切るようにと走っていた電車が減速して、その後、ゆっくりと停止する。扉が開きぬるい空気を吐き出した車内へと、わたしたちは並んで踏み入った。



 真っ赤な鳥居の向こうに、蕾が膨らみつつある梅の木々が凛と立っている。
 電車を乗り継いで約一時間。地元から離れた大きな神社は、七草の日を過ぎてなお屋台が並び、参拝客が歩いていた。
 鳥居を潜ってすぐ、手水舎で手を清めてから本殿を目指す。赤い太鼓橋を越えて、木々に囲まれた細い参道を抜けて。

「思ったより人いるね」

 すれ違う人をちらりと見ながら、隣を歩く迅に話しかける。

「そうだね。大晦日とお正月は満員電車並みの人混みらしいし」
「それじゃ、ある意味よかったかも」

 初詣の日程がここまで遅れたのは、迅とわたしがそれぞれボーダーの任務に駆り出され、なかなか都合が合わなかったからだ。当初こそ鬼怒田さんや根付さんに小さな文句を零したけれど(本人達も年末年始くらい休みたかっただろうに、改めて思うと申し訳ない)、人でごった返した中を本殿めざして進む様子を想像すると正直しんどいし、このくらいゆったりできる方が個人的にはありがたい。

「もっと遅くに来たら梅がすごいみたいだね。そっちのがよかったかな」
「それ2月も過ぎてにならない?初詣感はなくなるなあ……」
「それもそっか」

 いくつかの摂社や末社を通り越してしばらく、ほうきの目が見えるほど掃除が行き届いた境内に一際大きなお社が鎮座しているのが見えた。しめ縄も賽銭箱も船のように大きい。この神社の主神を祀る、本殿。
 少し離れたところに社務所があり、おみくじやお守りを手にしている人がちらほらいる。わたしも後で行こう、と心の中で思いながら、本殿の真正面へと向かった。
 小銭を入れてきた財布から五円玉を取り出して、ちゃりん、と転がす。隣で迅も同じようにお賽銭を投げ入れて、二人合わせてお辞儀を二回。その後、ぱん、ぱん、と二拍手。澄み切った空気を震わせて、乾いた音が心地よく響く。目を閉じて、それぞれに念じる。
 一年間ありがとうございました、今年もみんな元気に過ごせますように。
 わたしが願うことといえば、毎年こんな抽象的なことばかり。中高生の頃は「受験に受かりますように」とか「大会で結果を残せますように」とかも祈っていた気がするけれど。それらを願わなくなったのは、純粋に機会がなくなったからか。あるいは、自分の努力でどうにかすべきそれは神さまへの願い事ではないと思い始めたからか。たぶん、どっちも。
 瞼を持ち上げて一礼をすると、迅はまだ何かを祈っているようだった。それを見て、わたしは不躾にもひとつ願い事を付け足す。

(どうか彼の願いが叶いますように)

 ああ、でも。彼の願いは、わたしの手で叶えたいかもしれない。
 そんなことを思っていたら、迅がゆっくりと瞼を持ち上げた。きれいな横顔、なんて妙に感心して。願い事を終えた彼と一緒に、並べられたお守りを見に向かう。

「迅、なんか買う?わたしはおみくじするけど」
「おみくじかぁ」
「毎年引かないよね」
「まあね。結果見る前に、全部分かっちゃうし」
「一昨年も聞いたから知ってる。だからね、わたしも今年はちょっと考えた」
「え?」

 首を傾げた迅ににんまりと笑って、わたしは告げる。

「迅の未来をわたしにちょうだい」
「……ん?」

 今おみくじの話してたんだよな、と彼が動揺を露わにする。わたしは笑みを濃くして、

「迅の分までわたしが引くの。そしたらちょっとは違うでしょ」

 視えてしまうことには代わりないけれど。少なくとも、未来を視ながら選ぶ、という行為はできなくなる。先が視えていたのだとしても、結果はわたしの気まぐれで変わる、完全な運試し。

「ああ、うん。理解した。したけど、言い方さあ……」

 ときめいた?なんて揶揄うように聞きながら。わたしは浮かれた足取りでおみくじの入った箱の前へと向かう。2人分の額を納めると、近くにいた迅の背中を押して「じゃ、あっち向いてて」。特段意味があるわけではないだろうけれど、迅は言われた通りに背中を向けて遠くを見た。

「よし」

 気合をいれて、ずぽりと腕を突っ込む。紙の海の表面を掻き分けながら、(こっちが迅。こっちがわたし)心の中でそう決めて、2枚だけを引き抜いた。

「はい、迅。こっちが迅のね」
「ん」

 きっと彼には既に、その結果が視えている。わたしがおみくじを引き抜いた瞬間、それは決まったはず。それでも彼は何も言わず、わたしと同じようにおみくじを開けた。

「なんだった?」
「ん?はい」
「ウッソ!大吉じゃん、すご」
「はは、引いたの名前だけどね」
「わたしはただ代わりに引いただけなのでそれは迅の運勢ですー。……で、わたしのがこれね」

 『小吉』と書かれたおみくじを見て口をへの字にする。なんというか、すごく微妙だ。項目ごとの内容も当たり障りがないというか、ぱっとするものがなくて反応に困る。

「何その顔」
「いや、いっそのこと『凶』でも引いたら良いリアクションができたなと思って……」
「最後悩んで離した分が『大凶』だったよ」
「ここ『大凶』あんの!?ていうか別に『凶』が引きたいわけではないから!」
「ちょ、痛い痛い」

 どす、とコート越しに彼の脇腹を殴って、すぐ傍にあるおみくじ掛けの前へと移動する。明確なルールはないらしいけれど、結果のよくなかったものは寺社に結ぶことで運気があがるといわれているのだ。わたしの分は結んでおきたい。

「やろっか?」
「いいよ、自分でやる」

 なるべく上の方に結ぼうと背伸びをしていると迅に声をかけられる。首を横に振って、何とか結び終えた。そういえば小さい頃、気合を入れすぎておみくじを引きちぎってしまったことがあったっけ。訳もなくそんなことを思い出す。

「あれ、迅も結ぶの?」
「うん。ちゃんと読んだし、良いやつ結ぶともっと運気があがるっていうだろ」

 なるほど、と頷く。わたしは大吉が出るとうきうきで持って帰ってしまうタイプだから、ちょっと不思議な感じだ。
 社務所でお守りをひとつずつ頂いてから、境内をぐるりと見渡しながら来た道を戻る。帰りは摂社や末社にも手を合わせたので、行きよりもだいぶ時間がかかった感じがした。
 鳥居の端に移動して、スマートフォンで時間を確認する。既に正午はまわり、丁度お昼時だ。

「どっか食べに行こうか。そうだなあ……」

 じいっと。何かを思案するようにこちらを見つめた迅は、すぐににっと笑って、

「名前は今日蕎麦の気分。美味しい天ぷら付きだとなお嬉しい」
「未来視の無駄遣い!」
「無駄じゃなくて有効活用」

 屁理屈を言う彼に息を吐き、徐に差し出された手を握る。年相応の子供じみた笑顔を向けた彼が、よく澄んだ冬空に浮かぶ太陽のように眩しい。



 未来視を(彼が言うには)有効活用して見つけた美味しい蕎麦屋で料理を堪能した後、再度電車を乗り継いで水族館へと移動した。平日だからか、人はあまり多くない。水槽の向こうから魚が水を掻き分ける音が聞こえてきそうな沈黙が辺りを包んでいて、薄暗い照明と相まって空気感が心地よかった。
 形や大きさが様々な魚が、大きな水槽の中をぐるりぐるりと泳いでいる。あっちこっちを行ったり来たり。そのくせ忙しない様子はない。穏やかで、綺麗で、それから、どこまでも自由だった。
 ちらりと、隣で水槽を眺めている迅を盗み見る。澄み切った瞳は水槽の中の水色によく似ていて、彼の瞳の中でも同じように魚が泳いでいた。
 
 事件が起こったのは、その数時間後。お洒落なレストランで少し早めの晩ご飯を食べて、さあ帰ろうと駅へ向かったところだった。

「なんか、忙しないね」

 退勤のラッシュにしては遅すぎる時間帯。にも関わらず、駅の改札口には大勢のひとが行き交っており、所々に立て札を手にした駅員さんが見える。

「うん、悪いけど迎えに来てくれる?終電までに動きだすか微妙みたい」
「タクシーに並ぶけど、こっちもすげえ人だよ。結局遅くなるわ」

 口々に交わされる周りの人の言葉に、わたしも迅もすぐに状況を理解した。それと同時に、駅員さんのよく通る声。

「接触事故により、運転を見合わせております。ご迷惑をお掛けしますが――」
「あらら、やっぱり」

 肩を竦めると同時に、隣から「ごめん!」と謝られてぎょっとする。なんだか今日の迅は、朝から謝ってばかりで珍しい。

「どうしたの急に」
「浮かれて見落としてた……」

 顔を覆ってしまった彼に息を吐き、その両頬をつまみあげる。

「もー、ばか。そんなことまで視て先手打たなくていいって。というかむしろ……」

 申し訳なさそうに眉を下げた彼をじっと見つめて。「朝から珍しい迅が見れてなんか嬉しい」本心を伝えたら、「何それ」と彼は苦笑した。
 そんな彼の腕を取り、「どうするか一緒に決めよ」とスマートフォンの画面をつけた。SNSとネットを駆使して、情報収集。運転再開がいつごろになりそうか調べたり、別ルートで帰る方法がないか調べたり。一応、少し離れた駅まで歩いて乗り換えを繰り返したら三門まで戻れるらしいけれど、今日に限っては時間が遅く……途中で便がなくなるみたいだった。そうなるとタクシーの行列に並ぶか、あるいは──。

「よかったね、二人とも明日休みで」
「うん。ホテルもまだ空いてたし」

 通りすがりの恋人たちが零した言葉に顔を上げる。同じことを思ったのか、迅もこちらを向いていた。その頬が、少しだけ赤く染まっているのは、寒さのせいだけじゃない。

「……わたしたちも、明日休みだね」
「うん、休みだね……」
「……どっか泊まる?」

 恥ずかしさは精一杯隠したつもりだったけれど、言葉は緊張で震えていた。真冬とは思えないくらい体が火照っているし、ああたぶん、顔も林檎みたいに赤くなっているに違いない。
 迅はなかなか頷かなかった。そんなに抵抗があるのかと少しだけショックを受けていたら、「泊まるところが」と彼はマフラーに顔を埋めた。

「うん?」
「そういうホテルになるけど」
「……ん?」

 そういうって……、そういう・・・・!?
 流石に動揺して開いた口が塞がらなくなったけれど、彼がそんなことを言うというのはつまりアレだ、近くのビジネスホテルとかは既に埋まってて、それが未来視で見えたに違いなくて。
 「う」とか「あ」とか、まともな言葉を発せずにしばらく口をぱくぱくさせてしていたけれど、

「……いいよ」

 意を決して、そう告げた。
 ――こうして。わたしと迅は、はじめてラブホテルなるものに泊まることになる。
 ホテルの受付は無人だった。電光パネルで空いてる部屋を選択して、出てきた鍵を取る。エレベーターに向かう途中、別のカップルもホテルに入ってきて、それだけでなぜかビクリとした。
 二人して黙ったままだった。部屋について扉を開ける。モノトーンを基調とした、落ち着いた部屋だった。広くて、大型のテレビまである。思っていたより普通の部屋だ。ただやっぱり、ベッドはひとつだけだった。これは後で、迅が「おれはソファで寝るよ」とか言い出しそうと思ったけれど、ひとまずは気づかないふりをした。彼も、何も言わなかったし。

「見て見て、お風呂も広い」

 努めて明るく振る舞うと、ようやく迅も笑ってくれた。「お湯張ろっか」と、早速彼が洗面所に設置されたボタンを押す。
 お湯が溜まるまでの間は、大型のテレビでドラマを見た。話題のイケメン俳優が主演の刑事もので、原作は小説。「この女優さんかわいい」とか「今映ったマグカップ、沢村さんが使ってなかった?」とか、ドラマの内容に関係ないどうでもいい話をしていたら、段々と気分も紛れてきた。二人きりでラブホテルに泊まってはいるけれど、同い年のボーダー隊員とお泊まりパーティーだったり朝までカラオケをした感覚になってくる。
 お風呂が沸いたことを知らせる機械音がして、迅が「先入っておいでよ」と言う。広いお風呂でのんびりしてから出て、同じように迅ものんびりとお風呂に入って。

「すっごいくつろいじゃった」
「ねー、二人でも余裕で入れるくらい……」

 と、何の気なしに発した言葉にハッとして「う゛あ゛ー!」色気も何もない悲鳴をあげた。

「違う、違うから!二人で入りたかったとか、そういう意図は全くなくて……!」
「はは、分かってるけど」

 やだもう墓穴掘った!
 ソファに置いてあるクッションに頭を押しつけて反省していると、すぐ側でぎしりと軋む音がした。小さく顔をあげ、視線だけをそちらへ向ける。タオルを首からかけた迅は、リラックスしたように一息ついている。

「……迅、髪ちゃんと乾かしてないでしょ」
「あー、面倒くさくって?」
「風邪引いちゃうよ」
「こんくらいじゃ引かないよ」

 余裕めいた笑みで彼が言う。だからそれはきっと、確定した未来なのだろうけど。わたしが気になってしまうので、洗面所からドライヤーを持ってくることにした。

「ほら、乾かしてあげる」
「ちょ、わっ」

 首元からタオルを奪い取り、半ば強引にドライヤーの風邪を当てる。迅の髪はやっぱり湿っていた。指で掬い、丁寧に触れる。

「迅の髪、柔らかい」
「そう?自分ではあんまり分かんないけど」

 ふと彼がこちらに顔を向けた。その近さにどきりとして固まっていると、彼の指が首元へ伸びる。

「……名前の髪は、さらさらだ」

 同時に、ふわりと淡い香りが漂った。アメニティのシャンプーの香りで、どちらの髪からしたものか、あるいは二人の髪から漂ったものか分からないでいると、迅がふっと目を細めた。

「おんなじ匂いがする」

 幸せそうに呟かれて、思わず彼の体を押し退けてしまった。「乾いた!終わった!」一方的に告げて立ち上がり、「もう寝よう」と言おうとして。わたしは、その事実を思い出す。

(ベッドひとつしかないんだった……!)

 大きくてふかふかのベッドを前にして固まっていると、最初に想像した通り、迅が「おれはソファで寝るよ」と言い出した。

「広いし、全然かたくないし」
「駄目!」
「え」
「迅がソファで寝るならわたしもソファで寝る」
「いやそれ全く意味ないんだけど!?」

 ぎょっとして声を荒げた彼はこちらを見つめ、それから、困ったように眉を下げた。

「名前は変なところで頑固だからなぁ」

 おそらく、この事に関して引き下がろうとしないわたしの姿が視えたのだろう。
 すっかり諦めた迅の腕を引いて、広いベッドに体を沈める。

「電気、全部消していい?」
「いいよ」

 部屋が暗闇に包まれる。すぐ隣にいる迅の表情が影で隠れる。「おやすみ」と優しい声がした。「おやすみ」同じように返して、彼と反対側を向く。分かっている、彼はきっと何もしてこない。わたしにも、それを言う勇気はない。だから、何も起こらない。それなのに、いつまで経っても心臓はドキドキしたままで。

(わたし、ちゃんと寝れるかな……)

 そっと息を吐いて、寝返りを打った。迅、もう寝たかな。うっすら瞼を開けて、確認しようとして。

「……起きてたの」

 こちらを見ていた迅と、ばっちり目が合ってしまった。

「こんな状態で簡単に寝れない」

 そうぼやく迅に、同じだねと気の抜けた笑みが溢れた。わたしだって、眠れそうにない。
 暗闇に目が慣れてくる。迅が何か言いたげな表情をしていた。じっと彼の言葉を待っていると、その唇が小さく開く。

「……本当は別の未来も視えてたって言ったら、どうする?」

 声は少しだけ掠れていた。
 彼の言葉を反芻して、別の未来というものを考える。どこが分岐点だったのだろう。お風呂に入るか入らないかとか?別の部屋にはベッドがふたつあったとか?
 真剣に悩み始めたわたしに、迅が続ける。

「近くのビジネスホテル、部屋ふたつ空いてたんだよ」

 その言葉に、目を見開いた。ラブホテルしか空いてないと言ったあれは嘘だったのか──そう驚いて、はたと思い出す。
 そういえば迅は、ラブホテル以外泊まる場所がないとは言わなかった。宿泊を提案したわたしに、「そういうホテルになるけど」と言っただけ。他のホテルが空いていないというのはわたしの勝手な解釈で、実際は別のホテルに泊まることだってできたはずで。だから、つまり。

「迅、わたしとこういうとこ来たかったの?」

 臆せず尋ねると、

「いやうん……そうね……」

 口元を腕で覆った彼が、歯切れ悪く返した。
 顔は真っ赤だった。わたしとのやりとりだって視えているはずなのに、こんな反応をしてくれるのが擽ったくて。

「……うれしい」

 絞り出して、その体を抱き締めた。抵抗はなかった。どちらからともなく顔を近づけて、唇を重ねる。いつもより長い口付けだった。
 口付けの後も、いっそう彼のことを抱き締めていると、頭上から振り絞るような声で名前を呼ばれる。なあに、と丸い声で返したら、

「……おれ、これ以上のこともしちゃうよ」

 震えた声でそう告げられた。
 答えなんて、決まっていた。

「いいよ」

 ぎゅっと、熱を帯びた体に縋り付いたまま。祈るように、わたしは応える。

「ぜんぶ、ちょうだい」

 それを合図に、再び口付けが落とされた。優しく唇が舐められて、自然と口を開ける。遠慮がちに入ってきた舌がこちらの舌を優しく絡め取った。そのまま口内を犯されて、ぴくりと体が反応する。

「はっ、ぁ……」

 キスの合間に、「気持ちいい」と「好き」を繰り返す。「おれも」と幸せそうに微笑んだ彼が、衣服の中に指を滑らせた。
 骨ばった指が肌をつたう。隅々まで愛してくれる。こわれものを扱うみたいに。たからものを抱きしめるみたいに。それが、たまらなく幸せだった。



 カーテンの向こうが僅かに白んでいる。真冬の朝はよく冷えるけれど、今朝はすぐ近くから温かさを感じた。
 そっと視線を持ち上げる。迅がいた。空色の瞳はもうはっきりとわたしを映していて、気恥ずかしさから「起こしてくれたら良かったのに」と責めるような口調になった。

「幸せだなって眺めてたら、つい」

 心底愛おしそうに目を細めて迅は言う。それから、「おはよう、名前」と、わたしの頬を優しく撫でた。迅の手は温かくて安心する。

「おはよう、迅。今何時?」
「7時前」
「そっか。もう電車動いてるね」

 もぞもぞと布団の中を這い、床に散らばったルームウェアを拾い上げる。昨日全部見られたとはいえ裸で動き回る勇気はない。布団の中で器用に羽織ってからベッドを抜け、暖房をつけた。
 歯磨きをして、シャワーを浴びて、着替えて。時間に余裕はあったのでゆっくり準備してからホテルを出たら、辺りが白く染まっていた。

「あれ。昨日の夜また降ったんだ」
「みたいだね。道理で寒いわけだ。……ほら、名前」

 積もった雪を踏みしめてはしゃぐわたしに、手が差し伸べられる。

「手袋ないんだろ」
「よく覚えてたね」
「そりゃ名前のことだし」

 繋がれた手は、昨日と同じようにコートのポケットへと沈んだ。嬉しくって寄り添ったわたしに、迅も擽ったそうに微笑む。
 ふと、昨夜のことを思い出した。体を伝う彼の指、首筋に降りた唇、耳元にかかった熱い吐息。宝物みたいに触れてくれて、愛してくれて、はじめて繋がった日のこと。
 迅の目に、わたしとの未来がどういうふうに視えているかは分からない。それでもわたしはずっと彼と共に生きる未来を描いているし、そうであってほしいと強く願っている。その願いが叶うのなら、これから先だって彼は何度もああやって愛してくれるのだろうけれど。それでも、あの夜は特別になると思った。きっと生涯、忘れられない。
 迅が静かに瞼を閉じた。白い息を吐きながら、「昨日のことも、一生忘れないんだろうな」独り言のようにそう呟くので、思わず笑ってしまった。

「何で笑うの。信じてない?」
「違うよ。わたしも、同じこと思ってたから」

 朝日が辺りの雪を照らす。きらきら、きらきら。光の粒が揺れている。この景色さえも宝物になるんだろうなと思いながら、回した腕に力を込めた。



backtop