冬に桜は咲かない
「
玉狛支部の屋上。
「……そんなこと聞いてどうする」
暫くの間の後、ようやく返ってきた言葉は随分と素っ気ない。けれど、当初は何を言っても答えてくれなかったことを考えると、わたしも彼と随分仲良くなれたに違いない。うん、きっと、絶対。
「別に、ちょっと気になっただけ」
「おい、危ないからこっちに来るな」
「へーき、へーき」
制止を聞かず、遠慮なく彼の隣に腰を下ろした。僅かに狼狽えた表情が新鮮で、思わず小さく笑ってしまう、すると、「何が面白いんだ」と不服そうな瞳が向けられたので、思わず口を噤んだ。
何でもないよ、と、口の中だけで転がして、同じように空を見上げる。冬の空気はよく澄んでいて、星は宝石を塗したみたいに輝いて見えた。
「……綺麗だね」
「よく分からん」
「情緒ないな」
白い息とともに零した言葉を一蹴され、思わず唇を尖らせる。
それから、もう一度星を見上げて、「あの明るいやつ」と指で示した。ヒュースの視線が指をなぞるように動いて、その目に光を映す。
「三つあるでしょ。それを線で結んで、冬の大三角形って言うの。知ってた?」
「知らん。というか、どれとどれだ」
「だから、あの明るいやつ三つ」
「どれも明るいぞ」
「いや目立つやつあるでしょ。ほら、まずあっち」
眉を寄せるヒュースの腕を掴み、一緒に空を指し示そうする。けれど、ヒュースは何故か空ではなく唐突にこちらを向いたので、その距離の近さに驚いてしまい、わたしは慌てて後退ろうとして――、思い切り、足を滑らせた。
「ッ!?」
「おいっ」
足場のない妙な浮遊感。心臓が浮き上がるような感覚に、「ひゅっ」と喉が鳴る。
落ちる、と覚悟した瞬間、痛いくらいに腕を引かれた。視界が暗転する。それから、どさりという鈍い音。
痛みは感じなかった。寧ろあたたかい人肌を感じる。
「……?」
おそるおそる目を開けると、視界にはヒュースと屋上の地面が映って……映って!?
「きゃー!」
「おい騒ぐな」
「だって、だって」
冷静に告げる彼が抱擁を解き、わたしは大慌てで彼の腕の中から逃げた。
不可抗力とはいえ、何て心臓に悪い……!
ばくばくとうるさい心臓を押さえながら、ちらりとヒュースを盗み見る。平然としている彼は、けれど少し怒ったように、「だから危ないと言ったんだ」と告げた。容赦のない正論が突き刺さり項垂れる。
「ごめんなさい……ありがとう……」
ヒュースは溜息をついて、そのまま屋上の床に座り込んだ。もうパラペットに座るのは止めたのかと意外に思っていると、彼は自分の隣をぽんぽんと叩く。呼ばれたのだ、とはすぐ分かった。じゃあパラペットに戻らなかったのも、わたしを心配して――。
思わず固まってしまったわたしへ、ヒュースは眉を寄せる。「来ないのか」そう問いかけられ、「ううん、行く!行きます!」と弾んだ声で返す。
「で、どれだ。さっき言っていた星は」
隣に腰を下ろすや否や、ヒュースはこちらに身を寄せるようにして尋ねてきた。「あれ……」ともう一度示しつつ、彼の距離の近さが気になって仕方がない。なんか、肩、くっついてるような。
「……ヒュース」
「なんだ」
「もしかして寒い?」
「そんなことはない」
素っ気なく返す彼は、こちらの戸惑いを他所に、とうとう冬の大三角形の位置を把握し「言われてみれば明るいか」と納得していた。
そうして暫く、じっと星空を見つめ続ける。
随分と熱心だな、とその視線を辿るように空を見上げて、はたと気づいた。
――ああ、そっか。星を見てるわけじゃなくて……。
彼はきっと、探しているのだ。己の帰るべき場所を。ここから遥か遠く、彼が使えるべき主人が待つ国を。
「……ヒュース」
「今度はなんだ」
「この国ではさ、春になると『桜』っていうピンク色の綺麗な花が咲くんだよ」
「そうか」
「うん、そう」
会話は、そこで途切れた。
一緒に見たいとか、一緒に見ようとか、そんな誘いは告げられなかった。
黙ったままのわたしへ、ヒュースは一言、
「……春までは少し、長すぎるな」
穏やかながらに、譲れない意思を感じさせる声音で呟いて。
「……そうだね。ヒュースはもう帰っちゃってるね」
「当然だ。あの人が待っている」
返しながら、ヒュースが僅かに身じろぎをした。
「……ヒュース」
「なんだ」
「やっぱり寒くない?」
――だって、わたしの手、握ってる。
本当はそう投げかけたかったけれど、指摘して離れてしまうのが嫌で、わたしは黙ったまま身を寄せた。ヒュースは嫌がることなく受け入れて、それから、「そうだな」と小さく肯定した。わたしの手を握る力がより一層強くなって、それが、嬉しくて、哀しい。