世界は平和に呑まれていく



 その青空に、黒い裂け目ができることはなくなった。もちろん、近界民ネイバーと呼ばれる異世界からの侵略者が現れることも。時折響いていた爆音もいつしか聞こえることはなくなって、三門市に日常が戻り始めていた。
 非日常から日常へ戻る世界。その中に、足りないものがある。

「やっぱりここにいたのか」

 神社に続く長い石段から現れたのは三雲くんだった。自分と、おせっかいにもわたしの学校鞄を持ち、少しだけ息を切らしている。
 少しだけ古びた社。木の葉や土埃が張り付いた木造の廊下で寝転ぶわたしを覗き込んだ三雲くんは、「学校に行くぞ」とお決まりの台詞を投げかけ、手を伸ばす。
 「嫌だよ」とその手を振り払うことはできなかった。掠れた声で小さく返事をし、伸ばされた腕を掴んだ。三雲くんの手は、わたしよりも少しだけ大きくて、否応なしに時の流れを感じた。そういえばいつの間にか、背丈も彼の方がずっと高い。
 体を起こしてすぐ、目線は自然と彼の隣へと流れる。いつもそこにいたはずの白色は、もうずっと前にいなくなった。
 空閑遊真くん。
 ふわふわの雪のような白髪と宝石みたいな赤い瞳が特徴的な、近界ネイバーフッドからやって来た少年。
 自然と三雲くんの相棒になった彼は、三雲くんと腐れ縁であるわたしともそれなりに関わりを持つようになった。ソロランク戦だってしたし(「オサムより強いね」と笑われた)、玉狛支部にお邪魔することだってあった。それなりに、仲はよかったと思う。
 けれど、わたしが彼の秘密を知るのは、ずっと後のことだった。

『おれさ、一回死んでるんだ』

 雪がしんしんと降り積もる冬の日に語られた、空閑くんの生い立ち。どこか遠いところを見つめた眼差しはひとつの揺らぎもなかった。それを、よく、覚えている。
 なにか重い過去を隠していることは何となく分かっていた。けれど、そんなこと――一度死んでトリオン体になっており、彼が肌身離さず持つ指輪の中に閉じ込められている元の体は徐々にその命を削っている――なんて、知らなくて、想像もつかなくて。

「……戦いなんて、終わらなきゃよかった」

 ぽつりと溢れた言葉に、三雲くんが一瞬悲壮な顔をした。
 その表情にはっとして、「ごめん、違う、そうじゃない」わたしは慌てて否定する。懸命に頭を振って、「そんなの、意味なんてないって分かってる……」自分に言い聞かせるように零して、泣きたくなるのをなんとか耐えた。
 空閑くんが命を落としたのは、近界民ネイバーの侵攻が無くなり、長い戦いに幕が下りた時だった。何のことはない、ただの偶然だ。仮に戦いが続いていたとすれば、空閑くんはその最中で一生を終えた。
 そう頭では分かっているのに、わたしは「もしかしたら」なんてありもしない未来を空想する。近界民ネイバーの侵攻が続いていれば、彼はわたしたちの傍でずっと戦ってくれていたんじゃないか、なんて――。

「……過去を偲ぶことはできても、戻ることはできない」

 三雲くんが諭すように呟くので、わたしは力なく笑った。
 腕が強く引かれる。振り払って蹲りたかったけれど、三雲くんがあまりに真っ直ぐな瞳で前を向くから、わたしもゆっくりと顔を上げた。空は、どこまでも清々しい。
 ――青空に黒い裂け目ができることはなくなった。爆音が響くこともなくなった。近界民ネイバーはもうこの街に来ないし、元は危険区域だったところは新たに開拓されることが決まった。子供は笑いながら外を走り回り、大人もそれを見て幸せそうだ。緩やかで、穏やかで、温かな、日常。
 世界はこうやって、平和に呑まれていく。



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